追善供養について
浄土真宗で追善供養をしないのは何故ですか?
「追善供養は自力だから」「亡くなった人はみんな極楽に往生して供養する必要がないから」などなど色んな意見があるみたいですが、どれが本当ですか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「(浄土真宗の)追善供養について本気出して考えてみた」
まず、基礎講座として宗派(大谷派)見解を。
http://www.higashihonganji.or.jp/sermon/leaflet/
↑のページの「亡き人を縁として」「お経に遇う」「真宗にとって供養とは?」をお読みください。
さて、成仏に近づく行いを善とすると、浄土真宗における供養とは
「供養という私の善行為を追って故人に振り向ける(回向する)場」なのではなく、「故人を縁として仏からの法(教え・願い)を私が回向される場」なのです。
よって「追善の場」ではなく「聞法の場」なのですね。
お経に善パワーがあるなら仏壇に経本置いときゃいい、お経の音に善パワーがあるならCD流しときゃいい、僧侶に善パワーがあるなんてのは権威付けのまやかし。
で、そんなの分かってるよという清香さん、大事なのは「じゃあ故人はどうなってるの?」ってことですよね。
浄土真宗では往生即成仏で阿弥陀仏の救いは摂取不捨だからみんな成仏すると説きます。でも、じゃあ念仏しない人は?信心ない人は?とか色々疑問が出ますよね。
はっきりいって故人本人がどうなっているかはわかりません(ジャジャーン!)
だって私死んでない。お釈迦さんは死後について明確には説いてない。説いてても私が死んでないから信じれない。
でも、「故人本人が実際にどうなっているか」はわからなくとも「残された私たちにとって故人は仏としてはたらいてくださる」ってことはわかりますよね?
仏とは真実に目覚めた人、真実に目覚めさせるはたらきです。
故人はその命終という大仕事で
「諸行無常」:永遠のものなんてない!
「諸法無我」:実体なんてないから、死んでもなお「はたらき」となって私とともにある!
「縁起」:すべての「もの・こと」はつながって影響されていて、その中で故人はこの世での役割を終えていった!すべては縁によるのだから「個人のいのち」は思い通りにならない!
という真実を教えてくれますよね?ですから、そんな故人の願い、仏のはたらきに応えるためにも、死後の有無にとらわれず「今」私たちが教えを聞いていくことが大事なのです。
それが追善供養ではなく聞法の場としての御仏事です。
そして「我がはからい(私の思い)」を捨てて教えに身を委ねられた時、故人も私もみな共にの「俱会一処」の浄土が清香さんを包みますよ。「生死の迷い」を超えるのです!
供養しようという気持ちは大切です
清香さま
こんばんは。ご質問拝読しました。
浄土真宗での追善供養ということですので、ここは顔を出さねばならんだろ、と不勉強ながら回答させていただきます。ご質問にある、自力であるということと、極楽浄土に往生されているということ、どちらも正しいでしょう。
浄土真宗でも年忌法要を行います。これは追善の法要に思えますが、そうではなく、聞法のご縁になります。故人の年忌をご縁といただき、経典を拝読し、ご法話を聴聞して、南無阿弥陀仏のおいわれを味わわさせていただく場です。
法要を行い、故人を供養をしたいという気持ちは、もちろん私たちの中にありますけれども、私たち自身が、実は南無阿弥陀仏から「大切にまもられ、供養されている」ということに気付くということが、法要の大きな意味合いであると思います。
恥ずかしや 親に抱かれて 親探し くだびれはてて 親の懐
という詩がありますが、すでに救われていることに気付かず、すくいを求めている私の姿を示しているのでしょうね。
救われている私が、報恩感謝のお念仏と共に、よろこびつつも、我が身をかえりみて生活させていただくことが、往生して救われていかれた方の供養をすることと同義と感じます。
合掌
補足します。
みんな極楽に往生してという部分ですが、阿弥陀さまの願いのはたらきは、全ての生きとしいけるいのちに向けられています。それを信じるか信じないかが問題なのではなく、南無阿弥陀仏と称えてくださるように、常に呼んでくださっていますから、南無阿弥陀仏のご縁に遇わせていただいたいのちは、「みんな極楽に往生」で間違いなしです。
そして、今は南無阿弥陀仏にご縁が無くても、どのようないのちの境涯にあったとしても(たとえ草木や虫や動物)、どこまでも待って、必ず南無阿弥陀仏を称えさせて往生させるとはたらいてくださっています。
わかりにくい回答で申し訳ありません。
追記です。これはあくまでも阿弥陀さまの側(約仏)からの見方です。私たちから考えれば、南無阿弥陀仏のお念仏をいただくことは宝物をいただくよりも尊いことですから、そのご縁としての聴聞を心がけてくださいね。
「追善供養」について
清香様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「追善供養」の考え方も色々と宗派で異なるところはありますが、基本的には、「悟り」へと向けて、「亡くなられた方も私も皆も、供(一緒に)に養う善徳行」と考えておくと良いのではないだろうかと存じます。
上記のように考えておけば、浄土真宗の場合であっても、釋髙明様もおっしゃられています「聞法のご縁」も、「悟り」へと向けた「供に養う善徳行」の一つと捉えておくことができるのではないだろうかと思います。
また、供に養う善徳行を、亡くなられた方とも共有(回向)するという意味合いが「追」であるとすることもできるかと存じます。
川口英俊 合掌
供養は大事な事です。
清香様
こんにちは。拝見させていただきました。
仏教の世界観は「苦しみの生まれ変わりの中にいる自分」が出発点となります。生きている苦しみは外からもたらされるのではなく、自分自身の「汚れた心」から生まれてきます。お釈迦様はその汚れを浄化させる道(成仏の道)を説いてくだされました。
ただこの世において修行を完成出来ない人、そもそも修行を修する気質を持たない人々もいます。その人々に説かれたのが浄土真宗という道です。それは阿弥陀様が救おうと与えてくださったお念仏と信心によって浄土へ往生させていただいて、そこで阿弥陀様によって心の汚れを落としていただいて成仏させていただく道です。
供養とは仏様を敬う行為です。浄土真宗では阿弥陀様の導きによって浄土に往生させていただく道ですから、自身の大切な人が安心の浄土へ往生させていただいた事への報謝として五正行(法事・法要)を修します。また亡き方が浄土のみ教えに触れられていない場合にも、どうぞ阿弥陀様よろしくお願いいたしますとお勤めさせていただきましょう。
ただ、誰でも浄土へ生まれることが出来るわけではありません。誰でも浄土へ生まれられるならそれこそ教えを説く必要もないからです。ですから「阿弥陀様よりいただいた功徳を分かち合い生きとし生けるもの、命を終えたものがすべてお浄土へ生まれることができますように」と仏教は自分だけが救われれば良いという教えではなく、全ての人に自身が出遇えた仏様の慈悲を分け与え成仏への道を歩んでいただきたいという願いを持ってお勤めいたします。
浄土真宗では追善ではなく報謝の供養を修します。供養をしないわけではありません。どうぞ心を込めて供養の道を歩んで手を合わせていただけたらと思います。合掌
質問者からのお礼
高明さん
えーっと、「自力だから」には納得できました。ただひっかかりましたのは、「亡くなった人は極楽に往生するから」です。浄土真宗では、門徒以外の方も極楽に往生すると考えるんですか?
と、いうことは生きとし生ける者すべてが極楽に往生するのですね?なるほど。いままでお念仏を唱えたことがない人は、極楽に即往生できないものとばかり思っていました。
ありがとうございました(^^)
輪廻してもいつか必ず阿弥陀さまの呼びかけに応えられるときがくる、と解釈いたします。はい、ご名号をいただけたことに感謝します。
南無阿弥陀仏
川口さん
ありがとうございました。
分かりやすいご説明ありがとうございます。
吉武さん
回答ありがとうございます。正直、私は頭が固いなぁと自分でも思います。吉武さんのご回答を読んで、少し元気になりました。ありがとうございました。
けんじゅさん
分かりやすかったです。ありがとうございました。