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家では一人でいたい。

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仕事など、家以外で目一杯頑張って外面を作っているせいか、家では誰にも気を使わず一人になりたいと最近特に思います。
子供にも穏やかに接してやれてない事も多々あり、そのせいか、子供達も喧嘩が絶えず、それを見てはまた腹が立ちイライラしてなんとも言えない気持ちです。
周りの全ての人に穏やかに、自分を繕って接する事が出来ません。
精神的に疲れてしまった時はどうすればいいのでしょうか。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ひとは八時間しか優しくなれない

ひとは八時間しか優しくなれない、これは老人介護の世界で言われていた言葉です。説明の必要もないと思います。どの業種でも同じことでしょう。毎日、お疲れのことと存じます。

臨床心理学の大家、故河合隼雄先生は、親子関係にカウンセリングの手法を応用したらよいのか、という問いに対して否定的な見解を示されました。親子関係というのは、もっとむき出しのもので、「コラッ、勉強せい!!」と怒鳴りつけるような生身の人間と人間がぶつかり合うものである。親子関係にカウンセリングを持ち込むのは適当ではない、とおっしゃっていました。生身の自分を見せることで、手本にはなれなくても見本にはなれるはずです。

お子さんにお母さんのお考えをよく説明する必要はあると思いますが、もうお子さんもある程度の年齢に達しておられるものと思います。不機嫌で疲れているお母さんの姿を見せるのも無意味なことではないのではないでしょうか。それだけたいへんなことをして育ててくれていると感じてもらえているはずです。口では反抗なさっていても。

最後に仏教ではどうかといいますと、私は浄土真宗という行をしない宗旨なので詳しいことを知りませんが、怒りを抑える瞑想、心を落ち着ける瞑想を指導してくださるところもあります。日本テーラヴァーダ協会は安心できる組織ですので、まずはインターネットを参照してみてください。よく仏教は心の科学だと言われます。怒りなどの煩悩を鎮める具体的な処方箋をたくさん持っていますよ。以下は、同協会のトップページです。
http://www.j-theravada.net/

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個別相談可能
私はお坊さんといっても、ひと様に何か答えらしいものを提示できるような立派な者ではありません。むしろその逆で、しょっちゅう周りの方々にお尋ねして、教えてもらって生きています。質問について考え、答えようと悩むことで私自身が学び、僧侶として少しでも成長していけたら、と思っています。 youtube法話を始めました。私の名前ですぐ見つけていただきます。
本堂までWi-Fiの電波が届かないので、お内仏(家のお仏壇)のお部屋でお話します。

怒らない

怒らないための最高の方法は、怒らないことではなく、怒りの原因を無くすことです。
怒りの原因は、期待、求め、マイルール、正義です。
相手に期待するから、そうでなくてガッカリして怒る。
相手に高い理想を求めるからそうでなくて裏切られた感で怒る。
相手に自分のルールを押し付けるから、煙たがられて、言う通りにならなくて、また怒る。
相手に自分の正義の剣をふりかざすから、煙たがられて、嫌われて、疲れて、また怒る。

私は、家庭の中ではあまり期待しません。さほど求めません。あまりルールを押し付けません。正義はみんな自分の正義を持っているから危険思想なので持ちません。
そうすると、それが保たれている時は、非常に楽なのです。
やってみてください。
そうすると「その通りに」なりますから、それ以上でもそれ以下でもないのです。
さらには、そこに自分の評価、良し悪し、好き嫌いの判断を付け加えずに過ごしてみてください。喧噪の中にあっても、家の中であっても、心が静かになります。
一言でいうと、相手との、距離を長めにとることです。
( `ー´)(-_-メ)←ケンカ  (-_-;)←アナタ

( `ー´)(-_-メ)←ケンカ          (^-^)見守り

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

それが普通なんじゃない

私も、たにやまさんと同じです。
腹の虫の居所が悪い時は、周囲に当たり散らし、その後、後悔しております。

地獄道・餓鬼道・畜生道は、死後の六道輪廻の事ですが、現在生きているこの世界でも、たにやまさんの心一つで、地獄にも極楽にも変わります。

大事なのは、懺悔(さんげ)の心。
友人でも職場でも、あるいは子供でもご主人でも、
自分が悪いと思ったら、素直に謝る心と行動。

これが、出来るようで出来ないんです(>_<)

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昭和43年、奈良県葛城市生まれ。子授け寺浄願寺の住職、鷲尾隆仁。 日頃は、法務に忙殺されていますが、 出来るだけ、お檀家さんや参詣者に寄り添い、愚痴や悩み相談される人になりたいと、常日頃思っております。 また、僧侶のかたわら、家事民事調停委員もしており、世間のドロドロにまみれております(>_<)

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ