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姑の自慢、苦労話を黙って聞くべきでしょうか?

回答数回答 2
有り難し有り難し 39

姑に
「あなたは良い旦那様と結婚出来て良かったわね。私は苦労した。」と言われます。
主人は思いやりのある人ですので
「ありがたく思っています。」と答えます。

しかし、姑には言いませんが、主人の結婚前の借金を立て替えたり、結婚式の費用や新婚旅行、指環も立て替えました。
裏切りもありました。

「あなたは母乳育児で楽が出来て親孝行な子供を持ったわね。私は楽が出来ず大変だった」と言われます。
母乳育児が楽なのかはわかりませんが、息子は障害があります。正直とても苦労しています。

「自分の娘は嫁ぎ先でとても苦労していて、立派。」
「私は結婚も仕事もとても苦労した。あなたは楽で良いわね。」

私が黙って聞いているので、姑はとても気分が良さそうです。

ふと、私は何故こんなに不快に思いながら話を聞いているのかと思うようになり、姑が憎らしくなってきました。

主人は「お袋の話を聞いてくれてありがとう」
と言ってくれています。
私の苦労も我慢も知っています。

今、姑の顔を見るのも、声を聞くのも嫌になってしまいました。

姑の事を憎らしく思うくらいなら、言い返した方が良いのか。

姑を腹の中で憎らしく思いながらも、姑の気分を良くさせている方が良いのか。

長々と愚痴を書いてしまい申し訳ございません。

こんな私に助言を頂きたく思います。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

無言の示し

あなたは全部を黙って聞いて偉かったですね。
それは受け取ったのではなく、受け取り拒否されたのです。
相手の愚痴や不満や自慢や下手な歌はこちらが受け取らなければ全部そっくり相手にかえります。
今度は会いたいと言っても3回断ってください。
自分に非があったと悟るでしょう。
4度目にはあってみてください。
相手が変わっていると思います。
変わらなければスル―してください。
テーマソングはムーディー勝山の「右から左へ受け流す~♪」をBGMにしてください。
年下だからって相手の言いなりになる必要はありません。
私がいた修行道場では暴力が当たり前に蔓延っていました。
私も先輩から教わったように、指導的立場になった時同じようなことをしていました。
ある時、そこに阿部寛志老師という方がじっと、への字口でじーっと黙ってみていました。
私は、その無言の説法に負の連鎖を断ち切れました。
自分のやっていることが、先輩僧からの流れであるとはいえ、やっぱりおかしいと思い恥ずかしくなったものです。それ以来、暴力行為それ自体を無くそうとすらつとめました。
本人に、今自分がやっていることが愚かしいことであるという自覚がないと効き目はありませんが、あなたの無言の説法は、さらにあともうひと押しでよい効果をもたらせます。
安い言葉で申し訳ありませんが、正義は勝つのです。
非は心のどこかで本人は分かっているのです。
それを責めずに諭すことで相手は押し黙ってしまいます。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

敵は姑ではなく、自分自身のプライドの煩悩。

姑さんは、姑さん自身とあなたを比較することで、優越感を確認して楽しい気分になっているのかもしれません。
つまり、姑さんは、プライドの煩悩に操られて、あなたと自分を比較する優劣の世界にハマっているのです。
で、あなたもあなたで、それをおもしろくない(本当は自分の方が苦労している、自分の方が頑張っている)と感じている。
あなたも、プライドの煩悩に操られ、姑と自分を比較する優劣の世界にハマっています。
姑さんに言い返して、実は自分の方が苦労してるんだ、自分の方が頑張っているんだと主張したところで、小さな優劣の土俵、プライドの煩悩の舞台の中でやり合っているにすぎません。
もっと大きな視点で、土俵の外側から見てください。
大事なのは、家族が円満に過ごすことです。
今さら、お年寄りである姑に何を言っても、たいして改善してくれないでしょう。
くだらない争いの世界から、一歩引いてください。
プライドは煩悩。煩悩は悩み苦しみの原因です。
○○は嫌だ、という怒りも煩悩です。
○○したい、という欲も煩悩です。
煩悩を完全になくすのは、私達には難しいことです。
しかし、煩悩が煩悩であると気付くことは、私達にも可能です。
自分の心に煩悩(悩み苦しみの原因)があることに気付いてください。
ストレスの原因は、姑ではなく自分の煩悩なのです。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

質問者からのお礼

丹下覚元様回答ありがとうございました。
お礼が遅くなり大変申し訳ございません。

言い返すのではなく、責めずに諭す。

確かに、私が不快に思っていることだけ伝われば充分です。
私はそれすらしていませんでした。
勝手に腹を立てていて、姑は気付いてもいないかもしれません。

姑を責めずに伝わる努力をしてみます。

ありがとうございました。

願誉浄史様

回答ありがとうございました。

「本当は自分の方が苦労している、自分の方が頑張っている」
本当にその通りです。
口にしないだけで、心の中は姑と同じでした。
大声で叫んで認めてもらいたいくらいでした。
我慢して口にしないだけでした。

自分のこの思いは煩悩だったのかと。
原因は、姑でなく自分の煩悩だったのかと。。

煩悩を無くすことは出来ないかもしれませんが、
気付かさせていただきありがとうございます。

腹が立ったとき、自分の煩悩ではないかと、立ち止まって考えてみたいと思います。

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