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般若心経を読むと泣いてしまう

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高校生です。よろしくお願いします。

最近般若心経というものに出会いました。意味を考えながら唱えると、嬉しい訳でも悲しい訳でも、苦しい訳でも無いのに、ただ涙を流して泣いてしまいます。

不思議な感じがして、よくわからないです。これは、どうしてでしょうか。私は、般若心経が伝えたかったことを理解できたということでしょうか。

よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

わたしも泣きます

自分も坐禅中や読経中に、ふとなみだがでるときがあります。
理由もわからないですし、とくに悲しかったりするわけでもないのですが…

ただ、その瞬間は「ワタシ」が読経や坐禅をしているのではなくて、「何か」が自分の身体をとおって読経(坐禅)しているのを「ワタシ」が頂戴して涙している、という感覚です。

これはおそらく感動の表現手段のひとつだろう、と解釈しています。

とある方から聞いた話なのですが、

美しいものを美しいと感じる気持ちは、人類共通なのだそうです。
ただ、それを表現する手法はさまざまであり、また、それを他人と共有するためには、相応の訓練が必要なのだそうです。

泣いてしまうのは、おそらく「その美しさを表現する手段が、現時点では涙のほかには見つからないから」です。
あたま(理性・知識)と身体(実践・技術)が追い付かない領域で、心(のごく一部)のみが「空」と邂逅しているのです。

なので、あなたがすべきことは、感動が一過性で終わらぬように、あたまと身体を心の状態へ追い付かせること。そして、それによって「空」と出会える心の領域を広げる(=遊ばせる)こと、だと思います。

心を自由に遊ばせるには、あたまと身体という「器」を育てることが必要です。「器」が小さければ、不本意な形でこぼれてしまうからです。

「器」をつくる訓練は、論理的な学びと身体的実践を両立させて、はじめて成立します。
あらゆる物事や場面においても、その骨子は共通です。
それは「修行」と呼ばれます。

僧侶に限らず、人間は各々の営みの中で修行しています。
般若心経との出会いは、ご自身の「修行」を促すためだったのかもしれないですね。

般若心経っていいですよね…!

全ては「空」です。

私たちはそこからやってきて、そこへかえってゆきます。
では、なぜ私たちは「ワタシ」として、今この瞬間をここで生きるのでしょうか?

私たちは「空」の一部であり、その全体像でもあります。
では、「ワタシ」と「アナタ」の境界線はどのように存在するのでしょうか?

「空」は私たちの拠り所であると同時に、私たちは「空」の使者でもあります。
では、「空」は何故そんなふうにできているのでしょうか?

般若心経との対話は、アタマ(勉強)だけじゃtoo muchです。
お互いにいのちを総動員して、般若心経を頂戴しましょうねー!

合掌

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人間ルールという抑圧からの解放

人間の世界は人間ルール、人間ルールばかりです。
時にはその人間ルールによって自分の本心にウソをつかなければいけないことも沢山あることでしょう。
あなたはそのルールに苦しめられてきたのかもしれません。
あなたにとってお経が親や周りや自分が作ったルールからの解放に役立っているのかもしれません。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

これからも大いに読んで大いに泣いて下さい

こんにちは。

 般若心経を意味を考えながら読むとは良い心がけですね。でも般若心経を読むと泣いてしまい、不思議に思っているのですね。

 うーん、単純に考えれば、意味を理解してそれに感動して泣いたのではないかと思いますが、もしそうだとしたら、わざわざここにはご相談にいらっしゃらないですよねぇ?

 お坊さんのお経の声を聞いて感動して泣くということはあるようですが、ご自分のお唱えで、というのは聞いたことないですねぇ。

 お経の持つ不思議な力がそうさせているなら、もっと多くの人が体験し話題になるはずですが、それも聞いたことないですねぇ。

 そうなると、例えば、「お経」=「お葬式」という連想から、お経を読んだり聞いたりすると、お葬式の事を思い出して、条件反射的に泣いてしまうとか?
 私たち僧侶は、お葬式以外でも、日常的にお経を読みますが、一般には未だに「お経」=「お葬式」という図式の方が多いです。私たちはもっと努力して、お寺は、お坊さんは、お経は、お葬式のためじゃないんだよ、という認識を多くの人にもってもらうようにしなくてはいけませんね。

 あとは、アレルギーですかねぇ?お経の本に何かアレルギーを引き起こす物質がついていて、めくるたびにあなたの目を刺激して、涙を出しているとか...これは可能性としては低いかなぁ..

 ごめんなさいね。やっぱりよくわからないけど、泣くことは良い事です。泣くと頭がすっきりします。これからも大いに読んで大いに泣いて下さい。(アレルギーのようでしたら、早めにお医者さんにかかってくださいね)

類似です。
http://hasunoha.jp/questions/4997

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・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoha回答僧登録。 好きな言葉は「和顔愛語」。和やかな顔と思いやりの言葉という意味です。曹洞宗開祖道元禅師は、愛語には世界を一変させる力があると仰っています。回答には厳しい言葉を入れることもありますが、相手を思いやる気持ちがあってこその言葉と捉え、受け止めていただきたいです。 ※質問の答えについて、話の大筋は変えませんが、投稿してから誤字脱字を直したり、内容をよりわかりやすくするため、若干加筆修正することがあります。ご了承ください。 ※「お礼」は必ず拝読していますが、それに対して回答の追記は原則しないことにしています。ご了承ください。 ・回答する件数は減っていますが、ほぼ全ての質問とつぶやきに目を通しています。
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質問者からのお礼

方丈さま

ご回答ありがとうございます。自分でも考えてみたのですが、感動に近いものだったと思います。「この世の全てのものは実体が無い」という意味をはじめ、このお経の全てが自分にとって衝撃的でした。自分の今までの考えが覆されるような内容だったので、心が耐えきれなくなり、泣いてしまったのだと思います。

このお経をきっかけに、仏教に興味が出てきました。図書館行ってきます!

ありがとうございます。

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