亡くなった人のその後の居場所はどこですか?
やっぱり亡くなった人は亡くなればどこにもいなくて、
側で見守っていてくれるというのは、残された人が後追いをしないように、寂しい思いをしないための言葉ですよね。
だって、亡くなった人がこの現実を知るというのは酷だと思うのです。
もし主人がこの現状を見たら、、たぶん怒りと悲しみでもがき苦しむことでしょう。
それとも亡くなればそうした欲はすべてなくなってしまうものということなのでしょうか。
私は、人も植物や虫などと同じで亡くなれば、それで終わりで、魂だって何も残らないと考えてしまいます。
夢の中に出てきてくれても、なぜかいつも亡くなる1日前という設定で私は一人焦るような夢ばかり。
主人がいるのが当たり前で、いないという現実を未だに受け入れられることも出来ずに、それでも日常をこなし、子供たちを育てなくてはならない。
1年たってなんとかやれて来れたと少し自信もついたと思ったのに、最近はどうにもこうにも気持ちが下向きです。今まで自分の悲しみに重い蓋をして過ごしてきてしまったせいか、今になってその蓋が溢れた悲しみで吹き飛ばされそうで、こわいです。
どこかで、主人の今の居場所を肯定したいという気持ちと、ならば自分はこの先どう生きていけばいいのかを知りたいです。
抽象的な文章で、本当に申し訳ありません。
周りの方々には元気でいる姿を見せたくて、こちらでしかお話しできません。私にはありのままの自分が出せるのは、だいぶ努力をして周りに甘えられるようにはなりましたが、今も主人だけなのです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
葉っぱのフレディ
葉っぱのフレディ(レオ・バスカーリア著)という絵本はご存じでしょうか?
もしお読みになっていないのであればオススメ致します。
ざっくりした内要を申しますと
主人公は、大きな木の枝に茂る一枚の葉っぱのフレディ。
春に生まれ、周りの葉っぱ達と共に陽光に照らされ、雨を浴びて生きていました。
しかし秋になると、周りの葉っぱ達は次々に枯れて落ちてしまいます。
不安になったフレディは、一番仲良しの葉っぱに「落ちてしまうと会えなくなって寂しい」と言います。
しかし友達は、「落ちてしまうことは寂しいことじゃない。悲しいけれど、木の根に落ちた葉っぱは土に還り、また木の栄養となって吸い上げられ、同じように木の枝から芽吹く。
姿形は違うけど、ぼくたちは同じ所から生まれまた落ちて、永遠に命を繰り返す。遅いか早いかだけ。またすぐに会えるさ。先に行ってるよ。」と答えます。
友達ははらりと落ちて、そしてすぐにフレディも木の枝から離れはらりはらりと木の根に落ちていきました。
そして春、また枝先からつぼみが芽吹き、新たな葉っぱが光を浴びはじめます・・・
木は大きな生命体=宇宙 を表します。
枝は、地球でしょうか。
私たちの命も、一瞬の現象でしかありません。
しかし、根っこでは全ての命と繋がっているのです。
地球へと還ったあなたの旦那様は、あなたの中に今も生きています。なぜなら、あなた自身がこの地球で地に足を付けて生きているから、そして旦那様のことを思い続けているからです。
これが、輪廻というものです。
一度この絵本を読んでみてはいかがでしょうか。
居場所はあなた
ご相談拝読しました。
最初のご相談からすでに半年ほど経過する様ですが、ずっと浮き沈みを繰り返しながらこれまで過ごしてこられたのですね。私も以前のご質問に一度ご縁をいただいておりましたので、基本的にお答えする内容は以前と変わりません。また、他のご質問におけるお坊様方の回答とあわせて時々読み返してみてくださいね。
さて、今回はそれをふまえた上で「今のゆこ様」と会話をさせていただきたいと思います。
ずっと寂しく苦しい思いをされてきたのですね。「側で見守っていてくれる」という言葉はたしかに残されたものが寂しい思いをしないように周りの人や私たち僧侶がかける気休めの言葉なのかもしれません。
亡くなったご主人が今どうされているか、確かめるすべもないのですから。
ただ、大事にしていただきたいのはその言葉よりも言葉にかけられた「願い」。そしてその言葉として表される「はたらき」です。
「私にはありのままの自分が出せるのは…今も主人だけなのです。」
このゆこ様の言葉によく表れていると思います。ご主人が今実際にはどうなっているかわからなくとも、ゆこ様にとって今もご主人が拠り所(心の中心)としてはたらいていらっしゃることは事実でしょう。
その「事実のはたらき」を私たちは人を超えた「仏様」と称し、讃え、敬っているのです。残された私たちにとってはご主人は仏様の一人(諸仏といいます)なのです。
浮き上がったり、沈み込んだり、元気にふるまおうと無理したり、もうどうしようもなくふさぎ込んだりする私。でも世間は私がそのままの私でいることを許してくれなかったりする。
しかし、仏様としてのご主人の前では「ありのままのゆこ様」なのでしょう。
だから仏様としてのご主人は現状のゆこ様を見て、ゆこ様と一緒に悲しんだり喜んだりするのです。「それはダメだよ」なんて怒りません。それってありのままじゃないでしょう。ご主人のはたらきは「ありのまま」です。
どんな私でも許される「ありのままの拠り所」があるからこそ、私たちは世間でちょっと無理しながら頑張っていけます。いつでも還れる場所があるわけですから。
色んな事を言う人がいます。色んな辛い状況もあります。
でもその「ありのまま」の拠り所を大事にしてください。
仏様としてのご主人はゆこ様がどんな選択をしても怒りません。安心して生きていきましょう。
悲しみは尽きねども
拝読させて頂きました。ご主人様がお亡くなりになりその悲しみに打ちひしがれていらっしゃるのでしょうか。あなたのお気持ちをお察し申し上げます。
ご主人様が仏様に導かれて仏様のもとに生まれて心安らかにご成仏なさいます様にとお念仏おとなえさせて頂きご供養させて頂きます。
南無阿弥陀仏
あなたもどうかお念仏おとなえなさってご主人様をご供養なさってくださいね。
仏様は必ずやその願いをお聞き届け頂き、ご主人様は仏様のもとにて安心してご成仏なさいます。
そしてこれからもあなたやお子様達を見守り正しく導いてくださいます。
やるせない日々やつらい日々がまだ続くかもしれませんが、どうかこれからもご主人様を真心込めてご供養なさりながらも、これからの未来に目を向けてくださいね。必ずや明るく開けていく朝は訪れます。そしてあなたやお子様達をたくさんのご縁ある方々が助けてくださり、サポートなさってくださいます。
あなたやお子様達の未来はこれからなのです。どうか少しずつ少しずつ未来に目を向けて頂き、これからの人生を見据えてくださいね。
ご主人様は必ずやあなたやお子様達がこれからの人生を明るく歩んで頂くことを望んでいらっしゃるでしょう。
たくさんの苦難もあるでしょうし、喜びもあります。
私もあなたとお子様達がたくさんの支えを受けて育まれていかれて心も身体も共にお健やかに幸せに生きていかれます様にとお祈りさせて頂きます。
死後の居場所・・
ゆこ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
死後の居場所・・
死後の居場所は、その者の肉体に左右されなくなった微細なる意識の状態(カルマ・業も含めて)に依存していくことになるため、一概にどこで、どうであるとは、なかなか言えないところもございます。
また、例えば、三千大千世界(十億万土)のどこでどんな状態であるのか、どの仏国土でどんな様子なのか、正直、私たち凡夫ではとても計り知れるものでもありません・・
しかし、例えどこにあろうとも、真なる安楽としての、悟り・涅槃へと至らない限りは、迷い苦しみの中を過ごしてしまうことになるため、とにかく、悟り・涅槃へと向けた流れに乗るために、仏教が必要となる次第でございます。
供養とは、「供(とも)に(仏教を)養う」ということで、亡くなられた方と一緒に、仏様の教えを実践していくことで、同じ流れに乗ることにより、やがては悟り・涅槃という目的に共に達することが求められるものとなります。
その流れにあれば、きっとまたご縁あれば出逢えることもあるでしょう。正直なところ、長い長い旅路の今はほんの一瞬でございます。今生だけとか、100年、200年とかではなく、長ければ数億年、いや、更にもっと長いような途方もない中での流れであるかもしれません。
きっとご仏縁を確かにして頂けましたら、同じ仏様の下で仏教に修習することもまたありうるかと。
それまでは、ご主人様との想い出を大切に、ご主人様から頂きました御厚情、御恩情に感謝をして頂きまして、お子様のことと共に、ご家族の幸せにお努めを賜れましたら有り難くに存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
沢山のお返事、ありがとうございました。
Azuma様、迅速にお返事をしていただき、ありがとうございました。
感謝の気持ちで供養する。少し前までは、素直に出来ていたはずでした。子供たちの未来に目を向けることで、1日1日を感謝の気持ちで過ごせた日々もありました。私もどうしてこうも、読み返せば同じ質問になるのだろうと
考えてしまいます。でも、結局は未来に目を向けることが一番幸せに生きていける方法なんだなと、あらためて考えました。「必ず朝が来る」自分でわかっていても、人に言ってもらいたい時があるのだなと思いました。ありがとうございました。
吉武様。先日のお返事からまた目に止めていただき、ありがとうございます。
おっしゃるとおり、前に進めては、ふさぎ込み、その繰り返しをしていたところ、今回は立ち上がれずにどうにもこうにも行かずまた来てしまいました。
私が昔も今も主人を気持ちのより所にしていることこそが、主人の居場所なんですね。
そう思えることで、自然と大切にしたい気持ちが芽生えたとき、私はまた以前と変わらず子供たちと4人で歩んで行けるように思えました。
触れることももう出来ませんが、ありのままでいられる人が側にいてくれると私が考えることで、こんなにも満ち足りて、安心できるなら、幸せなのかなと素直に思えます。
ありがとうございました。
恵成様、お返事ありがとうございました。
「葉っぱのフレディー」明日読んでみようと思います。実は、今回のことで、子供たちの幼稚園の先生や友人から絵本を何冊か頂きました。
ひとつは「忘れられないおくりもの」というものです。絵本は素直に気持ちに入りますね。概要を聞きましたが、明日直接読んでみようと思います。ありがとうございました。
川口様、お返事ありがとうございました。
「供養とは共に養う」漢字を見ればそのままその通りなのに、今まで全く気付かなかったです。亡き人が安らかに眠ることを願うことだけだと思ってました。残された私たちに出来ることがわかった気がします。「感謝」することですね。ありがとうございました。