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もう4ヶ月。

回答数回答 2
有り難し有り難し 18

祖父が亡くなってから4ヶ月が経ちましたが、未だに祖父のことを考えるとつらくなります。
実家に行くたびに、そういえばあんなことあったな~とかよくこの椅子に座ってたな~とか思い出します。
祖父が亡くなってから、何回も夢の中にでてきます。元気だった頃の祖父です。
家族の中で祖父が夢に出てきたのは私だけみたいです。どうしてこんなに夢に出てきてくれるのでしょう。私が立ち直れていないからでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

これを機に菩提心を

墓石を立てる、塔婆を立てる。これらは皆、菩提心をこそ立てるという意味でもあります。
現在では単なる供養であると思われているでしょう。
仏教的には本当はそれではいけないのです。
愛する方、縁ある方が無くなった。
仏弟子であるとするなら、お釈迦様が亡くなったら弟子たちはお釈迦様に代わって、その志を継いだでしょう。ただお釈迦様を供養した、弔っただけでは単にお葬式に参列しただけになってしまいます。
菩提心をおこして菩薩道を修するのです。
悟りや安らぎを求める心が無ければ、人が亡くなってただボーっと空しく過ごすだけではないでしょうか。
私は昨年弟弟子くんが二十歳で亡くなってしまいました。
お坊さんになりたいと言っていましたから、その願いを受け止めて彼の分も僧侶として働いています。
あなたもおじいさんの優しい所や助けになってくれたことを思い出して、誰かにその心をあらわしてあげてください。そうする事でおじいちゃんは死しても尚、ハタラキとして生き続けて誰かを助けていくのです。
私ども僧侶もお釈迦様亡き後もお釈迦様に代わってお釈迦様の心の一端を活かしております。
菩提心をおこして、菩薩道、仏道を修する。
実践して頂ければありがたいです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

自然なことだと思いますが。

こんばんは。お祖父様のことを思い出して辛くなる。自然なことだと思います。
全くの偶然ですが、今日私は祖母の弟さんを看取りました。ベット脇にいたら、祖母の亡くなった時のこと、その後の後悔、生前の会話…色々思い出して、すまなかったなぁ…。改めて思いました。
ですから今日はちゃんと枕元でお念仏を唱え、時折荒くなる息遣いを見ていました。「姉ちゃんの孫の子、俺の時にちゃんと来てくれたよ。お念仏唱えてくれたよ」って、極楽で伝えてくれるかな…という思いが浮かびました。エゴかも知れませんが、確かに浮かびました。

さて、何かにつけお祖父様を思い出すとの事。それは尊い事ですね。孫として接したのならば、親以上に無条件に愛してくださったのではないでしょうか。それを貴女が覚えていることは、すなわちお祖父様が貴女の中に生きているようなものだと思います。ですから、時おり「お祖父ちゃんだったら、いま何て言うかな?」と思いを巡らせてみてください。迷った時に、「お祖父ちゃんなら…」と思い出し空想してみる。悩んだ時こそ助けれくれる。そのためにご先祖様になったのではないでしょうか。
…すみません、自分に言い聞かせるようなことを書いてしまいました。

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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

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