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人間はなぜ平等ではないのですか?

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有り難し有り難し 122

常日頃から思うことがあります。
人間はなぜ平等ではないのか。と言うことです。
生まれつきお金持ちのお家に生まれ、一生お金には困らない人。
生まれつき美貌に恵まれ容姿に関する悩みがない人。
生まれつき頭が良くて勉強や学歴で苦労されない人。
きっとお坊さまたちは、そういう人にも人知れない悩みや苦労を抱えている、人生最後には幸福と不幸の帳尻が合うなどとおっしゃるかも知れません。
しかし、生まれつき貧乏で容姿もブサイク、頭も悪いもしくは身体的、知的障がいがあるなど、生まれつきのスペックにハンディのある人は、生まれつきハイスペックな人よりもより多く苦悩を抱えると思うのです。
生まれつきハイスペックの人は前世が良い行いをしたからですか?
ではハンディを抱えた人は前世の行いが良くなかったのですか?
皆ほとんど前世の記憶はありません。前世のしたか、しないかわからない悪事の代償を今世で受けるのはなんだか納得がいきません。
お坊さまは、今世でハイスペックな人たち、今世でハンディがある人たちのことをどう思いますか?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

平等ないのち

生まれによって賤しい人となるのではない、
生まれによってバラモン(高貴な人)となるのではない。
行為によって賤しい人となり、
行為によってバラモン(高貴な人)ともなる。

スッタニパータ142

仏陀釈尊が目覚められたのは「生まれによる差別」のない「平等ないのち」です。

これまでのご質問を拝見しましたが、諸師から輪廻転生について多く説かれていましたのでその影響でしょうか…。
解釈は様々あります。差別思想を助長するような理解は十分お気をつけください。私としてはあくまでも上記の理解です。

しかし、現実にはおっしゃるような差はあります。容姿も能力も境遇も違います。差があるとしかいいようのない現実です。
ではどこで平等と言えるのか。それは

「縁によって生まれ、縁によって去っていく」

ということです。
ざっくりいうと思い通りにならないということです。どんないのちも生まれも死も選べず、人生において起こる境遇も選べません。数限りない条件・環境・対象がととのってたまたまそうなっているのです。この私のいのちもはからずともこのようにいただいたのです。

その事実の前に「なぜ?」「どうして?」と問うてもただそう事実があるだけです。理由が分かったところで事実は変わりません。

ならば、われわれがすべきは「どう」生きるか?です。
ふりかかってくる縁に対しどういう態度で臨むのかの自由が与えられています。前世のせいにして嘆くもよし、あきらめずに希望を持ち生きるもよし、です。

人は「どう」生きるかという「行為」=「事実の歩み」によって人生の満足を得られるのではないでしょうか?

「なぜ?」→「前世が悪いことしたから」という「理由・意味」がたとえ真理だとしてもそれで満足しますか?

私としてはどんな境遇であろうと腐らずひたむきに生きる人に魅力を感じますし、その努力に敬意を表します。
その方たちにとっては私の思う「差」など一面的なモノサシで図ったチンケなものかもしれません。

釈尊の目覚めた平等ないのちに差を見出すのはいつも私たちの勝手な「思い・はからい」です。

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有り難し
おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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社会の豊かさと心の豊かさは異なる

なぜ仏教が「すべての人は平等」と説くのか?
それは、とても広い視野で物事を捉えているからです。
本当に大切なのは、容姿や金銭や身体的要素から生まれる差ではなく、1人1人の内面から生まれる「ほとけの心」なんです。
それは、とてもシンプルにいえば「感謝することから生まれる穏やかな心」です。感謝に容姿や金銭や身体的要素は関係ありません。
いくらそういった外的要素に恵まれていても、「これが当たり前だ」「まだ足りない、もっと欲しい」と思ってしまうなら、その人の心は貧しいままです。
しかし、自らに与えられたものに感謝し、満足し、それを他へ施す余裕ができれば、その人の心は豊かになります。

また、どんな物事も「諸行無常」です。
一生お金に悩まない人はごく一部です。お金に余裕のある人はそれだけ求めるものも、支出も多くなりますから。

全ての物事は、常に移り変わっていくんです。
結局、社会でいう「豊かさ」なんて、ほんの一瞬の慰めでしかありません。ブッダが、空海が、アインシュタインが、ピカソが、裕福でしたか?幸せの尺度は外的要素では測れないものです。

個人的に、今世の不幸を前世に求める僧侶は好きではありません。私たちは、配られたカードで勝負するしかないんです。

前世は関係ありませんが、死んだら終わりでもありません。人が生きた軌跡は、なんらかの形で必ず後の人に影響を与えるからです。
大切なのは、「自分が何をできるか」を見つめる作業なんです。

追記
ゆうさま
どのような修行が必要ですかという問いですが、
仏教徒としていうならば、やはり「感謝の祈りと他施」でしょうか。
常に生かされているということに感謝し、それによって得た穏やかな心を持って他の人に接することです。
配られたカードで勝負するといった表現は、少しわかりづらかったかもかも知れません。申し訳ありませんでした。
勝負というのは、他人とではなく、自分の心との勝負なんです。
他人と比べるのではなく、自分の内面と向き合い、いかに穏やかになるかが大切で、そこに外見や知能や身体的なスペックは本来関係ありません。ブッダや空海などを例に出したのは、社会的な成功ではなく、精神的に真理を見いだしたことによる幸せこそ大切だとお伝えしたかったからです。
言うは易し、行うは難し・・・しかし、それを行う事こそ「菩薩の実践行」なのです。

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有り難し
おきもち

「人間」というカテゴリーは空だから

そもそも、「人間」という概念は空であり、実体の無い幻みたいなものです。
あなたが「平等ではない」と感じる場合、人間とばかり比べればいますが、人間というカテゴリーを忘れて、あらゆる生き物と比べてみてください。
一匹たりとも同じ生き物はいないのです。
あなたはアリさんよりはずっと強いし贅沢な暮らしをしています。

ということで、同じ人間なんだから、という思い込みを外して、個々の生き物は全部違うと思ってください。

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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

私はまだまだ修行が足りないようです。
仏教でいうところの因や縁といったものを私は全く理解してないのだと思います。
しかし、この因と縁は身近では、
「因果応報だね!」とか
「因縁をつけられた。」とか
「縁起でもない!」とか
昔からあまりいい方には使われていませんね。なぜだろう…。
そこも含めて勉強をしてみたいと思いました。
というわけで、わからんちんがお礼の言葉を述べますが、わからんちんゆえ無礼なお礼になってしまうかもしれません。未熟ものですみません。

吉武文法さま
ご回答ありがとうごさいました。「縁によって生まれ、縁よって去って行く」人生はどうしようもない、自分で選択できるものではないということですね。私は何が平等かといえば必ず命あるものは死ぬという事だと思います。しかしながら人間の命が生まれるときは平等ではないとも思ってしまいます。中絶されてしまう命もありますし、五体満足に生まれなかったり…。恵まれたハイスペックな人がしなくてもいい苦労を生まれながらにして持ってきてしまう。うまく伝えられないのですが、例えば、お金に恵まれた人と貧乏な人と「病弱である」といった共通の悩みを持ったとします。少なくともお金に恵まれた人はお金の心配はしなくてもいいのです。でも貧乏な人はお金の心配もしながら健康の心配もしなくてはならないという2重苦しみが出てきてしまうとおもうのです。縁であるからどうしようもない。でもひたむきに頑張る人は美しいと私も思います。しかし、その貧乏な人は幸せだと思って生きられるのでしょうか。その人の心持ち次第という事になりますよね。その心持ちになれるまで人はどんな修行をしなければいけないのでしょうか。

恵成さま
ご回答ありがとうございます。「ブッダや空海(←大好きです。すみません個人的な話です。)やアインシュタインやピカソが裕福だったと思いますか?」とのこと。そうですね…ブッダは王子様で全身カーシー産のシルクの衣装を身に纏い、幾多もの宮殿を建ててもらっても、結局はそれに価値を見いだせず出家されたのでしたよね。でもブッダも空海もアインシュタインもピカソも才能に恵まれていたと思います。もちろん努力もしたことでしょう。それゆえ後の世までその才能は褒め称えられているのではないでしょうか。もちろんブッダや空海に並ぼうなんて全く思っていませんし、そんなことは凡人には無理です。配られたカードが悪すぎたらそのゲームには勝てるのでしょうか?自分のできることをわきまえ、ゲームに負けたとしても自分は頑張った自分を褒めてあげたいと思うようにするにはどんな修行が必要なのでしょうか。

願誉浄史さま
ご回答ありがとうございます。私は実は若い頃に樹木に生まれたらどんなに幸せだろう、石に生まれたらどんなに楽だろうと思ったことがあります。きっとアリさんは人間を見ていいなーとは思って生きていないと思うのです。与えられた本能に従順に生きていると思います。それはそれで私は幸せではないかと思うのです。人間だけが同じ人間をみて妬んだりするんですよね。それを煩悩というのでしょうか。人間だけに与えられた試練。どうやったらその煩悩を消すことができるのか、どんな修行が必要なのでしょうか?

お三方とも私の幼稚な考えに真摯に答えてくださって本当にありがとうございました。

縁、煩悩…人間に生まれたからこそそれに苦しむ。もしかしたらそれに苦しむのは金持ちも貧乏な人も美人もブスも才能のある人もない人も平等に与えられた試練なのかもしれませんね。
失礼な物言いをしてしまったと思いますが、今の私の率直な思いです。
お三方に教えていただいた事をもう少し自分なりに勉強して消化できたら、またここへ戻ってまいりたいと思います。
ありがとうございました。

恵成さま
追記本当にありがとうございます。
とても嬉しかったです。
配られたカードの例え私の浅はかな勘違いでした。こちらこそ本当に申し訳ありません。
今、因縁についての知識と煩悩について勉強を始めました。かなり勉強しないと私の考え方の癖は治らないように思います。
実は私はあの世も輪廻転生も信じていません。
自分の目で見たものしか信用してはならないと思っています。
おそらく仏教において輪廻転生は、人々にわかりやすく因果応報を伝えるツールだったのではないかと思います。輪廻転生に基づき人々に平和に生きるためのルールやモラルを教えていたのではないかと思います。
ブッタはあの世について尋ねられると「無記」とし、お答えにはなっておられませんでしたね…。
学生時代、貧乏でバイトバイトの私は、裕福な家庭で育った同級生から「学生生活を楽しみなさいってアルバイトも親からしなくていいと言われるの。」と言われて、奨学金を借りて早朝から深夜までバイトに励み、遊ぶ時間など全くない自分。
会社に入社して、そうそうたる美人の先輩達と比べられて「お前はお笑い部門入社だな。」と男性の先輩社員に言われてから自分の顔が大っ嫌いになりました。
仕事も人一倍頑張っていたと思いますが、泥臭い仕事ばかり回されて、でもお給料は綺麗な仕事しかしない人と同じ、むしろ少ないぐらいでした。
そう言った理不尽さを目の前にして、きっと自分の前世に因縁をつけたかったんだと思います。
つまり自分が不幸なのは誰のせいでもなく自分のせいなのに、それを認めたくなかったのです。
だから信じてもいない前世に乗っかって自分の非を認めたくなかったのです。

小さいですよね。本当に自分は小さな人間だと実感しました。

だからと言ってすぐ「感謝の祈りと他施」を実行できるかといえば自信があまりありません。
しかし、ありがたいことに我が家のお仏壇には弘法大師さまのお像があります。いつも頭の中で「感謝の祈り」を忘れずにお大師さまに手を合わせたいと思います。
あと、金銭的に余裕がありませんが、人に優しく接する、困っている人がいたら助けるという行動で他施を行なっていきたいと思います。恵成さまに追記で教えて頂いた修行の方法を無駄にしないよう努めてまいりたいと思います。

余談ですが、我が家は祖母が弘法大師さまの熱心な信者で、その影響から我が家はみんな弘法大師さまのファンなんです。ファンなんて申し上げたらとても失礼だと思うのですが、しかし、お大師さまにまつわるファンタジーはいつでも私や家族にとって楽しい話題なのです。ついこの間も小布施の栗はお大師さまが栗の実を3個蒔いたことからはじまったんだって!という話で盛り上がりました。そして、未だ生きておられるというのも、自分の目で見たことしか信用しない私ですら、もしそうだったら素敵だなあと思ってしまうのです。お大師さまの事を話している時、いつも家族の中では笑顔しかありません。なんだか身近で見ていてくださるような、そんな親近感がおそらくお大師さまがいつになっても人気が衰えない魅力の秘密ではないかと思います。
私は図らずもお大師さまと祖母を通して出会いましたが、他の宗派の開祖さま達もものすごく魅力的な方だったのだろうなと思いを馳せております。

2017/1/27(仏教ノート)
今何かがつながりかけているような気がして、思いついたことを書かせてください。
因→きっかけ
縁→きっかけを取り囲む環境
果→因縁の答え

因→自分では変えられない。きっかけ。
縁→自分では変えられない。きっかけを取り巻く環境。
行→いかようにもかえられる。人間にだけ与えられたなりわい(業)。
果→行によって生み出されるもの。

人間(業)として生まれた(因)からには、死ぬ(果)までそのループを続けていく(縁)ことになる。

ならば、行を大切にし少しでも良い結果になるよう心がけてすごす。

因縁果についてわかりやすく書いてあるHPがあったが、よく調べたらカルト宗教と呼ばれる教団だった。
何を信じるか、どういう行いをするかの選択は人それぞれ。幸せのあり方も人それぞれ、不幸のあり方も人それぞれ。
それゆえ、その教団を否定する気も信者も否定するつもりはない。
しかし、ネット社会は怖いなと思った。昔は宗教やマルチ商法の勧誘といえば、玄関越しに現れるものであった。この為、その時に心が弱っているとハマってしまうが、弱っている時に来なければハマらない。
しかし、ネットでの布教は24時間365日弱った人間を待ち続けている。
ハスノハがなければ間違った方向へ簡単に行ってしまう可能性がある。

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