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親に反対されました。

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私は当時、付き合っていた彼の子供を妊娠しました。
その時彼は結婚しようと言ってくれましたが、彼のご両親が今回は子供を諦めて籍を入れ、また子供を作ればいい。と反対し、彼も子供を諦めようと言い出しました。

私はそれに納得出来ず、1人で産んで育てたいと自分の両親を説得し、彼と別れて1人で産みました。現在は実家で両親の力もかりながら子供を育てています。

そして先日、急にその彼が私に会いに来ました。あのときは悪かった、一緒に子供を育てたいと言ってきました。

正直、子供に父親がいないことは申し訳ないと思っていたし、私も彼のことが嫌いになったのではないので嬉しかった気持ちもあります。

その後彼と連絡を取り合い、話をしました。
彼のことを100%信用はまだ出来ないですし、私はすぐに結論を出さずに、長い時間をかけて彼と子供を見て決めたいなと思いました。

隠れてコソコソとしたくなかったので、私の両親に話しました。
彼が来たこと、言ってる事、自分がこれからどうしたいのか。

両親には反対されました。とても怒られました。1人で産むと言った覚悟はなんだったのか。などと。
両親の気持ちも言ってることもわかります。

でも、私はきちんと見て決めたいです。
間違っているのでしょうか。

親の言う通り、誰とも結婚せず1人で生きていくべきでしょうか。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ご両親は父親の代わりにならない

ご両親の言うことは、ご両親の今の気持ちに過ぎません。そしてご両親にはお父さんの代わりはできません。

ご両親に事実をしっかり伝えたとのこと。素晴らしいと思いました。何にも悪いことはしてませんから、あなたの行動は間違ってないですよ。

今後、お父さんの存在はいた方が子供のためにはいいです。しかし、それはお父さんとしてしっかりとしているならばの話。
よく時間をかけつつ、元彼が父としてふさわしいのか見定めて、心の底からあなたやお子さんを大切にしてくれるのか。そこを判断した上で決断したらどうでしょう。

ご両親もあなたやお子さんが幸せな顔をしていたら、全てオーケーになりますから。
「今は」反対ということ。一つの意見として聞いておくぐらいでどうでしょう。

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禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

けじめと赦し(ゆるし)

様々な事情で子どもが授からなかったり、授かってもそのことを歓迎されず、諦めてしまう方は大勢います。それら事情の良し悪しを申し上げません。

まずは、あなたが子どものいのちを守り育てる選択をされたことを、心から尊敬いたします。ありがとうございます。

人はどこから生まれ、どう生きていくのか。そこへ関わるいのちは、親だけではありません。多くのいのちが関わりますから、出来ることなら、一人でも多くの方に、そのいのち(あなたの子)の存在を歓迎され、愛情を注がれながら育って欲しいと思います。

さて、本題ですが、けじめとゆるしということをお伝えしたいと思います。

父になる方、父のご両親が子どもを諦めることを勧めた時の判断は、一体どのようなものだったのでしょう。若いからとか、経済的なことや学業、お勤めのことも案じられたのかもしれません。
父になる方も、当時からすれば自分の両親の意見に逆らえなかったことも考えられます。

それでも、今回、当時のことを悔い改めたいと申し出てこられたのなら、少なくとも言葉だけではなく、当時反対されたご両親共々の「謝罪」のけじめが必要だと思います。
もし、ご両親がまだ以前の決断を悔い改めておられないのなら、それを説得して、あなたと子どもと、ああなたのご家族の前で揃って謝罪するよう説得するのは、彼のやらなければならない「けじめ」です。

加えて、本当に一緒になりたいのなら、ひとり出産と子育てを選んだ精神的な苦痛や、出産子育ての費用を含めた、あなたとその子に対する償いの気持ちを形で表していただくべきです。

あなたの場合、相手側に慰謝料や養育費を支払わせるケースだってあるのですから。

もしも、過去を悔い改め、一緒になることを前向きに考えるのならば、彼の両親や親族ともお付き合いがはじまります。最初に述べたご両親の謝罪をいただくのは、今後のために大変重要なこととお考え下さい。

そして、責めるばかりではなく、最終的にはゆるし(赦し)が人には求められます。
あなたも、過去を振り返って、やり直したいこと、思い出すのもイヤなこと、少なくないと思います。相手を傷つけてしまったことで、その人間関係を終わりにするのではなく、これからはその子の両親、大切な家族として生きるのであれば、どのようにあなたがゆるすのかが問われます。

いずれにしても、子どものことを最優先に。

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北海道の内陸にある浄土真宗の寺院を預かっています。法名(仏弟子の名前)、釋 真慧(しんえ)と申します。 私へのメール ichijoji@outlook.jp ウェブサイト http://tompe4.wixsite.com/ichijo-ji お寺のほか保育園/学童保育を運営、日々子どもたちと向き合っています。心身の障害や発達障害の子ども、ご家庭の困難などに丁寧に向き合っていくことを心掛けています。保育園はすべてベクレルフリー食を実践しています。

応援させていただきます。  

人間意地の張り合いで時々道を外してしまうものです。
親御さんたちも「ほら、やっぱり私たちのいった通りじゃないか」と❝あなたを想う気持ち❞を伝えたかっただけでしょう。今までだって、あなたが苦労しないような道を今までも提案し続けてきたのです。そこは責めずに、ああそれが親心というものなのだなぁ、有り難いと思ってください。
彼は戻ってきてくれたという事は、責任を感じてくれたという事でしょうから、そのお子さんのお父さんにしてあげるのが一番なのであろうと思います。
よかったじゃないですか。
あなたはあなたの人生です。
親御さんは親御さんで夫婦です。
そしてあなたという子供を授かって育ててこられたのです。
ご両親はあなたが不幸にならない様に「今も」最善の道を教えて示してくれているだけです。
あなたはその子の最高の安心を提供してあげてください。
その実現として、お父さんを返してあげることは素晴らしいと思います。
お子さんがどんなに可愛くても、その事のお父さんはその男性であることは確実です。
今はお一人で大変でありましょうが、彼と復縁して、どんどん仲良くなって、女性が自分の持っている力を発揮して、それを必要として下さる方々が多くいる場を提供して女性が男性の経済力に頼らず自立できるシステムが各地で立ち上がるようになれば良いと感じています。
宗教業界でも家族ごと生活ができる環境をととのえている所もあると思います。
私たちは子育てをしながらも、働いていかなければなりません。
皆で知恵を出し合いながら、良い社会になるよう何かを形にしてまいりましょう。

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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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