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死ぬことが頭から離れない

回答数回答 4
有り難し有り難し 87

私は完璧主義者です。でも何事も完璧にやりきれるだけの能力はありません。
完璧な秩序のある生活や思ったことを完璧なやりきることへの執着心がとても強い人間です。だから一度のつまづきで全てを放棄したくなります。

ただ、現実に社会は混沌としています。それだけでなく、身の回りのことや仕事に完璧な秩序を保つことの能力が私には欠如しています。そのギャップにとても苦しめられています。自分で作ったルールを遵守できないこと、予想外のアクシデントで自分の計画が狂うこと、このようなことが本当に本当に苦痛です。

こんな混とんとした世界で生きることが果たして幸せなのか。娘や家族への情だってもちろんありますが、それを感じる主体がいなくなればすくなくとも私の気にすることではなくなります。おまけに私は利己的な人間です。考える私がいなくなればそれで残された人への想いも断ち切れます。

死んだら思考する私はいなくなります。苦痛を感じる器官もなくなります。それだけでこの世界を離脱することが大きな救いになると感じるのです。
死ぬことは怖いです。でもなぜ死んではいけないのか、よくわかりません。残された人は悲しむかもしれませんが、死んだ私にはそんなこと関係ないとも思うのです。

生きるか死ぬか、そのことが頭をぐるぐるしています。死んではいけないような気もしますが、とにかく死にたさが頭を覆って、でもそんな勇気はなくて、生きることに手がつきません。
死ぬことは果たして救済なのでしょうか。死後の世界については信じることはできません。それにこんな相談をするくらいですので生きたいという気持ちもないわけではないと思うのですが、この先もっと大きな挫折を味わった時、そのような自分を許すこともできないと思うのです。

この場でこんなことを質問していいかもわかりません。ただ、なんとか生きやすく生きていける方策があれば楽になれるとも思うのです。死と生について私なんかよりも深く考えておられるお坊さまに何か知恵をお借りできないかと考えています。

まとまらない文章で申し訳ありません。何卒よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

すごくわかります。

勝手な事を言いますが、私も同じように思った事があります。
「子供がかわいそう」とか「残された家族」とか言われると「じゃあ私は?私が今苦しいのに、母親としての責任とか社会がどうとか…そんな事考えられるなら死のうなんて思わないし」と、余計に悲しくなりました。
全部自分なりに考えておられるんですよね。
投げやりではなく現実的に。例えば、自分の家族が死んでも、24時間365日悲しみ続けることは出来ない(そうしたくても)。だから自分が死んでも周りもそう。どうにか生きていく。
むしろ私がいない方がシンプルに物事がいく。
私はそう思い、hasunohaをしながら自殺する方法を検索していました(笑)
真剣に、100%実行するつもりでした。ではなぜ今日私は生きているか…「○日はお弁当の日だった。○日は子供の△△。○日はお寺の用事…」というように、何かしら引き留める予定があったからです。
そうやってだらだら生きていたら、子供が「ママと一緒にいたい」と言ってくれた。
全然関係のない会話で言われた言葉が「あぁ、私も一緒にいたいんだな」と、なんの理由もなく「死にたい」という思いをシューっと小さくしてくれました。
そして「自分で死を選べるって、産まれたことと同じくらい奇跡で幸せなことだ」と不謹慎にも感じました。さようならも言えずに、明日も会えると思って死ぬのとは違う。さようならも自分の思いも伝えて死ねるんです。だったら「今」じゃなくてもいい。明日事故や天災で死ぬかもしれない、私達はいつでも「死」の一歩前にいるんだから今は生きようと思いました。
自死を私は否定しません。自己嫌悪の反対は上昇思考。死の反対は生きること。
生きながら死を考え続けてみませんか?ある日「だから生きてるんだ」と単純で簡単な理由が見つかると思います。
私の場合は、他人からの言葉や責任を省いた「子供といたい」という感情でした。
その後も私は私で、変えられないこともありますが(笑)でも、悪い部分も含めて認めてくれた子供がいるんだから堂々と生きるつもりです。
こんな私でも誰かと繋がっている。私が欠けたら世界は少し変わる。人の命はすごく価値がある。自分には分からない、周りの目を通して初めて価値ある命になるんです。だから、私だけの命、人生ではないと仏教で説かれる。あなたが自分をどんなにダメだと思っても、私の目には大切な命に見えます。

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おきもち

普通のOLから、結婚をきっかけに仏教に興味を抱きお坊さんになりました。 ...
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執着を捨てる

楽に生きたいなら執着を捨てることです。
あなたは完璧主義に執着していますね。
それを捨てなければいけません。
世の中は白と黒だけではないのです。
いろんな色があるのです。
勝ちと負けだけではないのです。
引き分けもあるのです。
成功と失敗だけではないのです。
成功するために努力する過程も大切なのです。

あなたがその執着を捨てたならば、世の中が混沌とした世界では無く、彩り豊かな世界に見えることと思います。

なぜ死んではいけないか?
一つは、お子さんを育てるためです。
二つめは、今までお世話になった社会に、あなたの周りの人達に恩返しするためです。
三つめは、あなたの心が成長するためです。
仏教的に言えば仏になるよう修行するためです。

お釈迦様は言われました。
「努力している人は死ぬことがない。
努力しない人は既に死んでいる。」
あなたが努力するべき事は執着を捨てることだと思います。

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有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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死後の世界をあると仮定してみる

ぬ子さん

ご自分で理解しているように完璧主義や利己主義が苦しみの原因であると思います。別の言い方をすると、この世を自分で「コントールしたい」という気持ちがあるけど、それがうまくいかなくて混乱しているのだと思います。

生きるか死ぬかで混乱しているようですが、それは生きることが思うようにコントロールできないからであって、死にたいわけではないことがあなたの文章からもわかります。

死ぬことは怖いと言っているように生まれた以上、生きることが「本能」だからです。日々の営みはすべて「死なないため」の行為です。食べること、寝ること、排泄すること、入浴すること、衣服を着ること・・・全部、生きるためです。死なないためにやっていることです。
これが生きたいと願う本能です。

いのちあるものは、人間も犬も猫もアリも毛虫もゴキブリもみんな生きる本能に従っています。人間に追いかけられたゴキブリは必死に逃げるでしょう。「なんとしても生きのびるぞ」というプログラムが埋め込まれています。だから死にたいと言いながらも死ぬことは怖いし勇気もないのです。あなたの中に埋め込まれた「なんとしても生きのびる」プログラムが正常に作動している証拠です。

自分の作ったルールや予想外のアクシデントで自分の計画が狂うことが苦痛・・・でもそもそもこの世は人間のルールで動いてはいません。明日の天気も決められないし、変えることもできません。電車が遅れることや止まることもあなたの意思とは違う意図で起こってきます。

最初からそういものと思っていればいいのではないでしょうか。すべて予想外、想定外なのです。そう思っていれば、たまたま自分の思い通りになったら「感謝」が生じます。ラッキーと思います。

死後の世界があるかないかは証明できないから、信じなくてもいいです。でも、わたしは「あると仮定して」生きています。その方が自分のためだからです。死後の世界があるのなら、悪いことはできません。罰が怖いからです。あの世で叱られないようにまじめに生きておこうと思います。善いことをしたら、褒めてもらって何かご褒美がもらえるかも・・・と期待もできます。ぬ子さんも死後の世界があると仮定してみたらどうでしょうか。いろいろなことのみかたが少し変わるかもしれません。参考までにご提案です。
混乱から抜けでて楽に生きることができますように。仙如

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おきもち

お釈迦様の教えと瞑想法は苦悩の多いこの世を生きるための「船」のようなもので...
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「上善如水」

ぬ子様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏教では、死して無になるとは考えません。それは断見として退けられるものとなります。

かと言って、常住の何か実体的な「私」というものが有るとするのも、断見として退けられるものとなります。

では死後、どのようなありようとなるのか、それは、今私たちにあるような粗い肉体や物質に左右されることのない微細な意識(心)の存続の問題について扱うものとなります。

微細なる心の連続体、心相続とも申しますが、そのありようの因縁(原因と条件)により、大抵は、輪廻(迷い苦しみのループ)するものとなります。その因縁となるのは、煩悩や無明(根本的な無知)、それらに基づく行いの集積である業・カルマとなります。

ですから、煩悩、無明もそのままで、悪い行いを積むままでは、次の行き先の結果も、迷い苦しみの世界へと赴いてしまうことなります。

その行き先を仏教を学び修することにより、現世における安心や救い、幸せと共に、死後にも何とかより善き赴きへと向けて参りたいところでございます。

とにかく、「上善如水」ですよ。お酒じゃなくて、無理に周りを自分に合わせようとさせようとするのではなく(それはどのみち不可能でかなりしんどいことです。裸足の者が、全ての地面に歩いても痛くないように革を敷き詰めるようなものです。そうじゃなくて、自分の裸足に革、つまり靴を履かせてあげればよいのですよ。)、何事にも柔軟に、周りに合わせて対応できることを自分なりにしていくのです。

物事の流れの中で、自分はどうあるべきか。お近くの川の水の流れを是非ゆっくりと一度観察なされてみて下さいませ。

川口英俊 合掌

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おきもち

Eishun Kawaguchi
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