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過去に囚われずに生きたいです

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今更言ったって仕方が無いことだと分かっているのに、過去を思い出し愚痴を言ってしまいます。

また自分を苦しめた人の名前をSNSで検索したり
(その人のことは見つけられませんでしたが)
その人の不幸を願ってしまいます。

過去を忘れて幸せになりたいです。どうしたら過去に囚われずに生きられるのでしょうか。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

思い出す暇をなくす

過去の嫌なことを思い出すことは誰しもあることです。

でも、それを思い出すのは,誰かと楽しくしている時でもなければ、何かに熱中している時でもなく、一人で何もすることが無い時や、気分が前向きになっていない時ではないですか?

囚われているのでは無く、思い出しているだけ。

思い出す暇を自分に与えるから思い出すのです。
要は,あなたが前向きに歩いていないだけ。

今すぐ、何でも良いから熱中出来ることや楽しめることを見つけて、そこに意識を持っていきましょう。

気分が前向きな時には、嫌な過去は出てこないものですし、もし出てきても前向きに転換出来るはずです。

あなたを苦しめた相手が,もし意地悪な人ならば、意地悪なことをすれば、放っておいても意地悪な結果が相手に訪れます。
あなたがわざわざ願う必要はありません。

逆に、相手の不幸を願うことは、あなたが自分で悪い業を積んでしまうだけ。
あなたにとって良いことは何一つありません。

腹が立つなら、今すぐに不幸を願うことをやめて下さい。
どうしても思い出すなら、その人のことをかわいそうな人だと思って下さい。
意地悪をしないと自分の存在を誇示出来ない人はかわいそうな人ですから、その人が意地悪なことをやめて,まともに生きてくれることを願ってあげれば良いのです。
そうすれば、今後、あなたがしたような嫌な思いをする人も減ることでしょう。

その人の人生は、あなたには関係ありません。

あなたは、今目の前にあることだけを考えていれば良いのですよ。

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過去にはとらわれてませんよ

もうすでにあなたは今を生きています。誰がどう見てもあなたは今この瞬間を生きているはずです。

過去にとらわれている気がしているかもしれませんが、それは頭の中だけの話、事実に目を向けてください。今目に映るもの。聞こえる音。匂い。食事の時は味。何かに触れたら触れたようになっていることに気づいてください。

過去を嫌い逃れようとすると、しつこく付いてくるものです。今の現実のみを見ればいいのです。
意識的にやってみてください。

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個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

目玉は過去をみていない

「さっきまでは、ここにガリガリ君があったのに」
「でも、今はもう溶けてなくなっているじゃないですか(^<^)」

「さっきまではシートベルトしてただ」
「今の私の眼にはそれは映っていません(^<^)」

「さっきまでは12時だったズラ」
「今はもう三時四十五分ですよ(^<^)」

人間の眼って不思議ですね。
絶対に過去のものは見れないのです。
眼だけではありません。耳も鼻も口も身体も。
だから、あなたの一生の友は、自身の目、耳、鼻、口、身体です。
この5人の友は決してあなたを裏切りません。
ちゃんと現在をみてくれるからです。
頭は違います。
DVDプレイヤーのように、過去を巻き戻したり、まだ観てもいないシーンを勝手に想像したりします。
目玉はさっきの事や、これから先の事を移すでしょうか。
もし過去や未来が見えるとしたら、それは、目を閉じてみてください。
頭がそれを映し出しているのです。
人間は、ここを混同してしまう生き物です。
目と耳と鼻と口と体という五感は、一生貴女を裏切りません。
ちゃんと苦しかった、嫌だった過去も切り捨てて行ってくれます。
この五人の友の大切さに目覚めれば、過去を振り返らなくなります。
単純なようですが、禅仏教の根本はここにあります。
記憶と未来は考えでしかない。つまりそれは存在しないもの。
今は永遠に新しい。認識に置き換えればすぐに過去になる。
一秒前の事は、引っ張り出してくる必要性すらない。
過去を引っ張り出せば、今を無くしてしまうことになるのだから。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

回答ありがとうございます。
確かに私はちゃんと今を生きていました。
前向きになれました。
皆様ありがとうございました!

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