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うつ病が治らない

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今日は初めまして。

私は三十代の男ですが、三年前から病院からうつ病と診断されて通院していますがいっこうに治る気配がありません。

仕事は会社員ですが上司とも馬が合わず日々、ストレスが溜まるばかりです。うつ病になってからは希望が持てず夜も眠れない状態が続き、薬を飲んでいますが頭がぼーっとするようでかえってうつ病が悪化しているのではないかと思っています。

何卒よろしくお願い致します


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

頑張ろうとしないでください。

鬱病の方は年々増加しています。
世の中のスピードアップが人間にストレスを与えているのだという学者さんもおられます。

お仕事はやらなければ仕方がありませんからやるしかないでしょうが、そうでない時には「何かやらなければ」という気持ちを抑えて下さい。

みんな「なんとかしなければ」「何かやらなければ」という気持ちを戦わせるから、思うように出来ない自分や、やる気の出ない自分との間にストレスを感じて、余計に鬱を増長してしまいます。

仕事の人間関係は仕事上のこと、あなたの私生活ではないのですから、分離して考えましょう。

出勤時間は、自分を人に預けて使ってもらっている時間、お金をもらっているのですからそのくらいおおらかに考えて、自我を出さない。
指示された通りにやっているのであれば、それさえ一生懸命やれば、人間関係のことなど考える必要はないはずです。

「頑張っているのに」「何故解ってくれない?」

これが実は鬱の大敵なのです。

解ってくれない人に解らせることは、健康な人にも至難の業。
解らないなら解らなきゃいい。

出来る時には思いっきりやって、出来ない時には文句を言われない程度にこなす術を覚えることも、鬱から脱却する1つの方法です。

抗うつ剤を飲んでいらっしゃるようですが、合わないと思う時には、様子を見ながら飲んだ方が良いかもしれません。

抗うつ剤には、セロトニンやノルアドレナリンを増やすものが多いので、それほど鬱状態でない時に飲むと、返って脳が興奮状態を引き起こすこともあります。
お医者さんとしっかり相談して下さいね。

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おきもち

真面目すぎです

さかもとさん、はじめまして。
徳島県の法話と天井絵の寺 觀音寺 中村太釈です。

さかもとさんは3年前にうつ病と診断され、薬を飲んでもぼーっとするだけで治った気がしないのですね。
私は薬剤師でもあるので、薬の話をします。
さかもとさんが飲んでいる薬の種類は分かりませんが、うつ病の薬を飲むと多かれ少なかれぼんやりします。脳の活動を少し抑えているからです。

さかもとさんは、とても真面目な方と拝察いたします。そうでなければうつ病の診断をもらうことはありません。毎日笑ってばかりいる人は、うつ病になりません。

笑いは何にも勝る薬です。一日に3つ、つまらないダジャレを考えてみてください。できれば誰かに言ってみてください。さかもとさんのキャラクターにイメージチェンジが起こって、周りの人が笑ってくれます。一日一笑ですよ。

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おきもち

徳島県の高野山真言宗寺院で住職をしています。 本山布教師心得として自坊の月例法話の他に、地域の出張法話の依頼もあります。 出張法話で寺のある地域の特産品「梨」を紹介するので、「梨のおじゅっさん」として有名になりました。 ホームページ http://houwa-kanonji.com/

物事の捉え方を正してみましょう

さかもとさま

うつ病とのこと、お薬を処方してもらっているわけですね。
うつ病はもともとのさかもとさまの優しいまじめな性格が原因になることが考えられます。
お薬だけでは正直良くなりにくいように思います。もちろん合う薬を処方していただいていれば、症状が軽いうちであれば薬だけでも良いのかもしれませんが、まず、上手に薬を処方できるお医者さんが少ないことがよく言われています。さかもとさまの体に合う薬を出してもらうよう、合わなければ何度でもお医者さんに行きお話をするべきです。

もう一方で、物事の捉え方を学んだ方がいいと思います。
これは、想像ですが、さかもとさまのまじめな性格から、様々な問題を自分のせいだとして抱え込んでしまう癖があるのかもしれませんね。ネガティブな思考につなぎやすい癖なども考えられます。

思考の世界から離れる練習をするといいと思います。
苦手な上司を、過去の出来事や、さかもとさまの思いなどをすべて取っ払って、そのままに見るようにする。ただ眼に見えたこと、聞こえたことをそのままに見聞きしてください。そこに「うざい」「いやだなあ」「うるさいなあ」などといった感情を付け加えないように。

上司が声を発し耳に届いた時には、まだこの「うるさいなあ」の感情は出てきていません。その直後に反射的に出てきているはずです。これが出ないように声はこえのままそのままに聞く練習をするといいと思います。

坐禅について学ばれるといいかと思います。

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おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

うつは坐禅で治せる

悩み多き丹下さん(仮名)は、いつも考え事がベースでした。
自分の考え事、解釈を中心としたものの見方ばかりしていました。
お笑い番組を見ても、批判や批評、コメント、ツッコミがメインで純粋に楽しめません。
まるで、番組の審査員かお前は、と突っ込みを入れたくなる目線です。
人と接するにも自分の思い込みが強いです。
あの人はきっとこう思っているに違いあるめぇと、自分のネガティブ判断を信じ込んでいます。
一方、覚元さん(仮名)は、悟りを求めて坐禅をはじめました。
坐禅って、足で坐るものかと思っていましたが、簡単に言えば心の周波数を変える事です。
ラジオのチャンネルを変えるように、いつもは思考チャンネル、評価チャンネル、良し悪しチャンネル、採点チャンネルばかり選んでいましたが、有料でスカパーと契約するように、特別なチャンネルがある事を知りました。
それは、考え事から離れるチャンネル「非思量マインド」「ノン・シンキングマインド」というチャンネルなのです。(これはあくまで喩え)
最初の内は、坐禅中もシンキングマインドばかりで、妄想が中心でした。
老師「悟りたきゃ思考の自転車のペダルこげば考え事止まらないヨ。汝、思考の自転車を降り、事実の自転車ペダルこぐべし」と言われ、新しいチャリに乗りかえました。
事実のペダルをこぐというのは、扇風機を眺めている時に思考マインドであれば右・左という分別をします、扇風機がどっちを向いていても見た通り、そのまま、そうある通りに眺めることです。
既読スルーという言葉がありますが、事実に対して、まさにそれをするのです。
自分の善し悪しやネガティブな判断を入れずに、既読スルー=事のなりゆきを最後まで見届ける=一つのパッセージを最後まで黙って見、聞く。
これが坐禅マインドなのです。坐っていることばかりではありません。
ネットで調べて、ちゃんと悟っていると評判のある方を探してみてください。
禅友に送る書 浜松で禅修行 を ご検索ください。

考えで考えグセを治すことは、泥で泥の大根を洗うようなものである。
人は、考えのファ〇リーズでは救われない。
そこに考えのファブ〇ーズを塗りたくる以前の、そのままの事実を受け取ることではじめて救われるのです。
まずはお近くの扇風機でお試しください。
必ず、右と左すら思っていない時節があります。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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