素がわからない
自分は、その人によって自然と人が変わってしまうような気がします。
ある人には、お調子者のように振る舞い
またある人には、静かで落ち着いたように振舞っていたり
その一人一人によってその人からの見える自分が違っているのではないかと、最近考えました。
そう考えているうちに、自分の素の状態がわからなくなってきました。
苦であるわけではないのですが、ちゃんと自分を知って、その素の自分で他人と接してみたいという気持ちになりました。
どうすれば、ありのままの自分を知ることができますか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
それでいいのだ
苦でないのならそれが素じゃないでしょうか?
人間の心は鏡に喩えられます。Aさんと向かい合えばAさんが映りますし、Bさんと向かい合えばBさんが映ります。それでよいのだと思います。私には実体がなく、常に変化するのが私です。そこに駆け引きがなく、自然と自分が変わるのであれば、それはとても自然なことです。
おかしなことがあるから考えるのではなく、考えることがおかしくするんだ、というような言葉を何かで読みましたが、一理あるなと思いました。
自然が一番です。合掌
仏教を心棒に
こんばんは
私も同じです。
私はお坊さんですが、お坊さん仲間といる時と、檀家さまの前にいる時は違います。
また、両親の前にいるときは子として、自分の子供に対しては父親として、妻の前では夫として、違う私です。
あなたも様々なあなたを振る舞っているようですが、これが全く同じという訳にはいかないですよね?立場があり、役割があるからです。
全部をひっくるめてあなたなのです。
実は私もあなたと同じような悩みを持っていましたが、ある時、仏教という心棒を持てばいいじゃんと気付き、これに沿って振る舞うようにしています。
あなたも仏教を学んでそれに沿って生きる事で、あなた自身に一貫性が出ると思いますよ。
「上善如水」
こは様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「上善如水」と申しますが、人に応じて振舞いを変えるのは必要なことであると存じます。
仏教も「対機説法」、「善巧方便」と申しまして、相手のことを配慮した上で、教えを説かないといけないものとなります。
相手に応じて、良いご縁、良い一期一会、良いお付き合いとして参りたいものでありますね。
「どうすれば、ありのままの自分を知ることができますか?」・・
これだと決めて言えるような「ありのままの自分」という実体的なものは、仏教では、まあ、あり得ないと考えるものとなります。
「私という存在」は、色々なご縁によってこそ成り立っているものですから。
ですので、良いご縁を大切に、感謝して過ごして参りたいところでございます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
ありがとうございました。
自分はこのままでいいのだと、お二方のおかげで気づくことができました。
立場や役割、自然に自分を変えるということが、できていないと感じたら、自分に正直になり、その人から見た自分を出したいと思います。