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人が変わる僧侶

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こんにちは
私は とても親しくさせて頂いている僧侶の方がいるのですが、 会っている時は凄く優しい僧侶なのですが
電話やメールになると もの凄く 冷たい対応をします。
シカトも されたりします。
「私、何か失礼な事をしたのかな?」と考えてしまいます
私には何が何だか さっぱり分かりません。
一体、どうしてなのでしょうか…。
友達は 「ツンデレなのよ」と言います。
本当に そうだと いいのですが…。
ていうか そうだと嬉しいです。
ご意見をお聞かせください。ツンデレだと思いますか?
それとも、私の事が嫌いなのでしょうか…。
ちなみに、私は、5年前から好きです。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

実際に会っている時に人間性がわかるのでしょう

かんなさま

お坊さんでもそうでない人も同じではなかと思いますよ。その人の性格によるのかもしれません。
ただ、実際にあっている時に、相手のことが一番わかるのではないですか。

メールや電話は、ちょうどその時の相手の生活の様子が見えないものですので、なにか他に気持ちがいってしまっている時なのかもしれませんね。忙しい時間とか、静かに過ごしている時間とか。

とにかく、相手のことを想像しすぎないようにしましょう。心配になるとどんどん膨らんでいくものです。聞こえた声、読んだも文字そのまんまだけをとらえましょう。

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個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

コミュニケーションの軸

時々、電話が苦手、という方がおられます。
私は、ラインやメールが指が太いので、好きではありません。
お持ちのケータイの企画が本人にとってサイズが小さすぎる、入力方法が不都合であると入力するのが嫌になって、返信しない既読スルーな人は割といます。
みんな自分の小さなルールがあるものです。
あなたはあなたで彼に対して、自分のルールを当てはめてしまっている部分があるのかもしれません。
直接会う。
これに勝るコミュニケーションはありません。
この場でも文字制限もありますし、私は今超ハイテンションでしょうか、沈んだ気持ちでしょうか?文字だけだと、これっぽちもニュアンスが伝わっていないと思います。直接会わない、というコミュニケーション以外は、実感が薄いものであるということを忘れてはいけません。(^<^)

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

あなたの直感が一番正しい

まりもさん、はじめまして。
徳島県の法話と天井絵の寺 觀音寺 中村太釈です。

直接会うとすごく優しいけれど、電話やメールではとても冷たい彼。まりもさんは彼のことが好きだけれど、ちょっと気になる...

私の意見ですが、まりもさんがちょっと引っかかっている直感が一番正しいのではないでしょうか。理由は分かりません。私も違和感があります。何でしょうね。

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おきもち

徳島県の高野山真言宗寺院で住職をしています。 本山布教師心得として自坊の月例法話の他に、地域の出張法話の依頼もあります。 出張法話で寺のある地域の特産品「梨」を紹介するので、「梨のおじゅっさん」として有名になりました。 ホームページ http://houwa-kanonji.com/

質問者からのお礼

アドバイス ありがとうございます。
あまり、深く考えない様にします。

丹下さん ありがとうございます。

でも、私以外の人にはちゃんと返信しています。

どうして 私にだけスルーするのでしょうか?

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