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仏門に入れば戒律を守らなくてもお坊さんとよべるのでしょうか

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戦国時代の大河ドラマをみていました。
織田信長が比叡山を焼き討ちにした後、信長の奥さんがお坊さんをたくさん殺すなんてとんでもないと信長を激しく非難します。
しかし、信長は「比叡山の僧は酒をくらい女を抱き、夜盗のような暮らしをしている。あんなものは僧ではない」といいます。
だからと言って殺していいわけではないと思うのですが、確かにお坊さんなのに武器を持って武士を殺し、仏を敬わず酒色におぼれる。
お寺に住んでいるけれど、戒律を守らずに略奪ばかりしている。
とてもお坊さんと呼べるような人たちではありません。
もちろん時代劇ですので、面白いように脚色しているのはわかります。
しかし、現代でもお坊さんなのに悪いことをする人もいるし、権力闘争で世間を賑わす人たちもいます。
一度仏門に入ってしまえば、悪いことをした後でもお坊さんとしていられるのでしょうか。
お坊さんも僕らと同じ人間なので、誘惑に負けたり間違った判断をすることがあると思います。お坊さんが悪いことをするとどうなるのですか?悪いことをして死後地獄におちた場合、お坊さんだと仏様に近い生活をした分だけ罪が軽くなるのでしょうか?


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

できれば順番通りに筋道立てて仏教を学んでいただきたいです

戒律戒律と言いますが、戒と律は別物です。律は法律や律令の律であり、集団のルールです。これにつきましてはいわゆる罪状のようなものの重さに応じて罰則があります。現代のウチの宗派(曹洞宗)では宗務庁の審事院による審判がありますが、他宗派でも同様の機能があるはずです。
かつての教団追放は今では僧籍剥奪という形です。僧籍剥奪になるとお坊さんではなくなります。
どの程度から僧籍剥奪になるか?幸い私はお世話になった経験もお世話した経験も無いので存じませんが、野盗よろしく略奪したらきっと剥奪されるでしょう。
なお、律の文献の大部分は服装規定などの生活規範が占めますので、六法全書のような法律集を期待して読むとガッカリするかもしれない事を付記しておきます。

次に、戒は個人の努力目標のようなものであり、原則として罪ではありません。私は実際にタイ系の上座部で戒律主義の修行をしてきましたが、あちらも同様です。殺人のような重大事案は例外的に罰則がありますが、原則として先輩僧侶に懺悔(さんげ)したり、布薩という儀式で懺悔して終わりです。
なぜ罰則が無いか?答えは簡単です。みんな0から出発して少しづつレベルアップしていくからです。つまり戒は『破ったらいけないもの』ではなく、『生活習慣として身に付けるべき目標』というニュアンスがより正しいです。
ただしお坊さんを指導するお坊さんが降格・解任されることはあります。(一言にお坊さんと言っても幼稚園児レベルから天皇のようなレベルまで色々です。)それは模範として不適格なので当たり前ですが、お坊さんではいられなくなるということはありません。成績が悪いという理由で学校を退学させたら、学校の存在価値が無くなります。それと同じです。
また、戒は「傷付け合う生き方はお互いに足を引っ張り合うだけですよ。そんなことは止めた方が楽なのですよ」という智慧です。ゆえに「戒を破ったら罪と罰!」という方向性ではなく、戒に逆行する生き方そのものが苦の原因になっていると知りましょうという方向性です。本当はここを掘り下げたいですね。
リアルタイムで苦の悪循環が起きていれば、それを地獄と呼びます

一言でまとめるとケースバイケースです。

比叡山に関しては昔の大河よりWikipediaの方がまだ勉強になります。信長は生臭坊主成敗のために軍を動かすほど暇人ではありません。あくまで戦争です。

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おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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僧侶であっても・・

ぱんだ道雪様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

基本的に、僧侶となっても、いきなり聖者となれるわけではなく、無明(根本的な無知)・煩悩は当然にまだまだあり、時に、悪いことだってしてしまうことがあります。

でも、できるだけ悪いことをしないようにするために設けられたのが「戒律」となります。

もちろん、まだまだ未熟な者にとっては、守れることもあれば、守れないこともあります。

そのため、必ず慚愧、懺悔する機会を定期的に設けて、反省会を開くことが釈尊の時代から僧団において行われていました。

「布薩」として、月二回、満月と新月の日に行われ、日本では少なくなったものの今でも定期的にされているところはあります。

拙生の場合は、一人となりますが、毎日のお勤めの中において、懺悔・反省に努めているつもりです。

とにかく、慚愧・懺悔・反省し、できる限り悪い行いを少しずつでもなくしていけるようにすると共に、修行に励み、善行・功徳にも励んで参りたいものとなります。

また、戒律の中には、犯せば僧団追放の罪になるものや、五逆罪という地獄に落ちるような重い罪も規定されています。

戒律は、現代日本では、形骸化してしまっているものもありますが、あまりにも酷い場合においては、檀家・信徒さんや世間の厳しい道徳・倫理的な目による社会的な制裁もあってしかるべきであるかと存じております。

もちろん、例え僧侶であったとしても、その赴きは、その人自身における業・カルマによることは、他の人とは変わらないとお考え下さい。

むしろ、悪いことは悪いと知ってする罪の方が重くなることさえも十分にあり得ます。

とにかく、一歩でも前へと仏道の歩みを確実に進めて参りたいものでございます。

川口英俊 合掌

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おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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こんばんは

 そうですね。
 私は、仏門に入っていなくても、戒律を守っていれば僧と同じだと思いますし、お坊さんでも戒を守る事ができなければ、ただのコスプレだと思います。
 私もコスプレだなぁ。

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おきもち

・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoh...
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誰もが愚かな者ですから

拝読させて頂きました。あなたのおっしゃる通りお坊さんでも古今東西悪いことをした者はたくさんおります。悪い行いをした者はお坊さんであろうとなかろうと同じようにそのなした行いによってその報いを受けることとなります。
よく言われる悪いことをした、つまり戒律を破った僧侶という意味で破戒僧と呼ばれます。

当然その報いを受けることになります。
また確かにお坊さんの格好をした極悪人も今も昔も変わらずにいることは確かですね。
その様な方々はなりはお坊さんでも中身は悪業悪徳の極悪人でしょうからね。

み仏は必ずその本当の姿を見通しておられるでしょうからどんなに取り繕うとしても無理でしょう。

ただ人はどの様な者も貪りや怒りや愚かな心邪な思いがあるものです。
仏教では例え心の中で思ったことだけでもその様な愚かな思いは罪となります。

ですから私達僧侶は多少宗派によっても違いがありますが、毎日のお勤めの中で己れの犯した罪や悪業を心から仏様に懺悔させて頂いております。

それにより少しでも己れの罪とがを心から反省して、その様な愚かな思いや行いを決してしない様にと心がけております。

私も毎日生きている中で浅はかなあさましい思いがふと思い浮かんで参りますから毎日毎日朝から仏様に手を合わせて心から懺悔させて頂いております。

人の身とは誰であろうとも愚かなあさはかな救いようのない者でございます。

ですから逆に私達は全て仏様に手を合わせて仏様にお願いしお救い頂くことでしか救われない者なのです。

なかなか回答としてはいかがかとは思いますが、或いはピントが外れているかもしれません。

どうかご了承頂きます様お願い申し上げます。

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Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
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末法の世には完璧な僧侶はいない

浄土宗では、現在は末法の世と呼ばれる時代に入っているという思想があります。
お釈迦さまが亡くなってかなり時代を経ているため、仏教教団には悟る人もなくなり、正しい修行の実践もなくなり、ただ教えだけが残っている時代になった、という考え方です。
このような末法の時代にあっては、僧侶といえども戒律を守れないのです。
しかし、末法の世では、僧侶だけでなく人類全体がレベルダウンしているので、その中でもなんとか教えだけでも伝承してくれている僧侶・教団は、尊い存在なのです。
ですから浄土宗では、戒律を守れない僧侶でも僧侶として敬います。
ただし、社会的に問題のある犯罪などを犯せば、浄土宗教師の資格(住職になる資格)は失う場合があります。
浄土宗では、お坊さんに限らず、誰でも阿弥陀仏の本願力を信じて念仏をとなえれば、臨終の瞬間に阿弥陀仏が迎えに来てくれ、極楽浄土に往生できると説かれます。
極楽浄土には、地獄・餓鬼・畜生はいませんから、どんな悪人でも極楽に往生できれば、地獄道に堕ちないのです。
もちろん、悪人でも救われるからと言って悪を勧めるのはダメです。
法然上人は、浄土宗を開く前から円頓戒という戒の伝承者として有名だったので、人一倍戒を守ろうと努力していたはずです。
だからこそ、戒を守れない自分と向き合い、阿弥陀仏にすがる以外に救いはないと考えられたのでしょう。

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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

お坊さんの世界も、私がしらないだけでこれだけ広く深い秩序があったとは、本当に感心してしまいます。
みなさん丁寧にありがとうございました。

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