子供の頃の事を懺悔したいです
小学生の時に隣の男の子を虐めていました。
男の子はおとなしくとても勉強のできる子でした。
私はクラスでも目立たず勉強も苦手でした。
男の子には口でも意地悪を言ったのかもしれませんが、その辺りは全く覚えていません。
ただ覚えているのは、私が男の子の右ももを何度もつねった事により、痣になり男の子のお母さんが気が付きビックリされて、先生から私の母親と男の子とその母親、勿論私も含めて謝罪と話し合いの場が有ったのを覚えています。
その時は私も反省をしたんだと思いますが、とにかくその頃の私は性格が歪んでいたのか、それからも補導されたりもしました。
その度に母親が呼び出されていましたが、今思うとどうしてあんなに悪い事ばっかりをやっていたのでしょうか。
とにかく心が暗かったように思います。
隣の席の男の子の自宅はもう有りませんが、もし会う事が出来れば心から謝罪したいと思っています。
テレビで子供の頃にいじめられたのが原因で、社会生活や人間関係が上手くいかず辛い思いをしてる人達の番組がよく特集されています。
そのような番組を観る度に心が締め付けられる気持ちになります。
私は虐めの加害者の立場なのですが、過去に人を傷つけた事に対して深い闇を抱えて生きてきました。
勿論 自業自得なので仕方ないのですが、この年齢になっても上手く人と関われないのは、そういう闇があるからだと常に思っています。
社会人になってからは不器用ながらも人と関わりながら何とか生きてきましたが、年齢が重なる事に闇への想いが深くなって来る事がとても苦しいのです。
自己肯定が異常に低いのもそれが原因でなったのか、それとも低いから虐めや悪い事ばっかりをしたのか私にはよくわかりません。
これから生きて行く上で、何かお言葉がいただければありがたいと思います。
よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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端坐して人我の見の無き所を見極める
曹洞宗の大本山総持寺貫首であられた渡辺玄宗禅師はご自身が幼少の頃、貧しくて畑の芋を無断で持ち帰って食べてしまったことを晩年になられてから、思い出し申し訳なかったと、お詫びのお手紙を書かれましたという逸話があります。
その事が思い起こされるという事はご自分の日に向き合われた素晴らしいお姿です。
ああ、悪いことをしたー、と素直に自身に向き合っているのです。
世間様はその真逆です。
合っても何ごともなかったように、オレが正しい、私が正しい、あれをしたのはそうせざるを得なかったからだ、言い訳を尽くし、罪を犯しても裁判で勝手でも無かったこととして過ごされているのが90%以上の人たちではないでしょうか。
それは自己ありき、自我ありきで、ものを眺める時にどうしても自分が優先されているからです。
だからこそ、裁く人はものを公正に見極め、どちらにも与しない姿勢が大切なのですが、いまの時代の弁護士の多くは悪いことでも金さえもらえれば嘘を並べてチャラにしようとします。これはある種の大罪なのであろうと思います。
それは自分を認めたものの捉え方なのです。
純粋に、ただ純粋に、
「悪かったー。」
そこに徹して、詫びるべきを詫びて手紙などを書いてみてはいかがでしょうか。
それをしない限りはあなたは自責の念や後ろめたさでずっと自分を苦しめ続けるのではないでしょうか。
人間は小罪無量な存在です。あれもこれ無自覚の内にやって沢山の罪作りをしています。
どんな行為にしても、言いがかりをつければすべて罪にさえなります。
歩いているだけで、虫も殺し、生きをしているだけで菌を吸い込み、胃酸で殺しているものです。だからと言って何でもかんでも罪、罪で、自らを罪悪なる者として責め続ければ暗い人生です。
「もし人、懺悔せんと欲さば端坐して実相を観ぜよ。」
懺悔とは悪いことも良いことすらも、相手も己も投げ捨ててしまうことです。
何をもって罪となす。
何をもって良しとなす。
誰かの偏った「わたし(人間の我見)」を立てて、その上でものを裁けばすべてが悪です。
坐禅をしてものの本来性を見極めてどちらにも偏らない「わたし」「吾我」を離れ切った純粋な心に立ち返った時、本当に懺悔ができるものです。
後悔と反省(懺悔)
過去の過ちについて謝罪したい
このお悩みはhasunohaではよくお見かけします。もう何十年も前の事をずっと引きずって苦しんでおられる。ご相談を拝読すると「自業自得」「因果応報」とは正にあるのだなあと痛感させられます。(このへんの解釈については詳しく語るとややこしいので割愛します。)
もちろん、他でもないこの私もやはり、「何と申し訳ない事をしたものだ」という出来事が一つや二つあるものです。
さて、人はやはりそうした出来事について後悔・反省し謝罪したいという思いが生ずるものですが、その思いをよくよく深く考察するとどういうものなのか何ともあやしいところがございます。
すなはちそれが
反省(懺悔)として、「自らがした行いを恥じ相手に申し訳ないと思う」のならよいのですが
後悔として、「自らがした行いにより私がどう思われているかを悔やむ」という在り方になるところがあります。
本当に相手のために謝りたいのか、自分が許されて楽になりたい・スッキリしたいから謝りたいのか、ということです。
もちろんお会いできる機会があるならば懇切丁寧に謝罪すべきでしょう。しかし実際の相手はもう顔も見たくもないかもしれません。
私が本当に懺悔するとは、相手には許されない・世間には許されない、それであっても自らがした行いを天に恥じ、人に恥じる。自らに恥じ、他に恥じることです。その心を慙愧(ざんき)と呼びます。
「無慙愧」は名づけて 「人」とせず、名づけて「畜生」とす。
と教えにも説かれております。人として大切な心です。
そして慙愧する時、相手も世間も許してくれなくとも、許してくれる世界が仏の世界です。仏様が許してくださるからこそ私はこの私の身の在り方を恥じる。私が私の思いで私の身を恥じるのではなく、教えから私の罪を言い当てられる。
その私が許されるからこそ力をいただいて立ち上がっていけるのです。謝罪する機会は得られないかもしれません。これからも世間に許されないこともあるかもしれません。
それでも私を絶対的に許す世界があるのです。それを知るならば私は何があろうと安心して生きていけます。それは開き直る生き方ではなく、いよいよこの身の在り方を深く問いながら地に足をつけて歩んで行ける生き方です。
とらのこ様が慙愧心により懺悔するならば、それは相手がどうこうに関わらず尊い事だと思います。
拝読させて頂きました。幼少の頃のご自分の行いについて今深く後悔なさっておられるのかとお察し申し上げます。
あなたがその様な行いをなしたのには恐らく何らかの理由があったのではないでしょうか。家庭でのご両親との関係や生活環境が少なからず影響を及ぼしていたのではないかと思います。
ただ人が人をいじめたり、差別することは良くない行いです。悪業です。
どのような理由があっても人が人をいじめ傷つける行いは悪業であることに変わりはありません。いじめた側もいじめられた側も深い心の傷を負うことになります。普段表面上は人の心の内側はわかりませんが、その受けた傷は心の底でいつもうずいていて毎日の生活の中でも支障をきたしていることでしょう。
あなたがもしそう深く後悔していらっしゃるのであるならばあなたのその後悔のお気持ちを仏様にありのままお伝えなさってください。
もしお仏壇があるならばお仏壇の仏様やご先祖様に向かって、なければ菩提寺のお寺にお参りなさった折御本堂の仏様やお墓参りなさってご先祖様に向かって、もし菩提寺やお墓がないならばそのまま仏様を心に描きながら心から自分の犯した罪をお伝えなさり、心から懺悔なさってください、そして心からその罪を謝罪なさってくださいね。幼少の時いじめた方お伝えすることは今では難しいでしょうから心にその方を思い出して真心こめて謝罪なさってください。
あなたのその思いは必ずや仏様やご先祖様に届きます。そしてその方へも何らかの形で伝わっていくのではないかと思います。またその方に通じます様にと仏様にお願いなさってみてくださいね。
丹下師のおっしゃる通り人は大なり小なり罪を作りながら生きています。
逆に罪を作ってしまうような愚かな存在なのが人でもあります。
私達僧侶は宗派によっても違いますが毎日朝のお勤めにて仏様に自分が犯した罪を懺悔しております。
懺悔偈というお経をおとなえして仏様にその罪を告白して反省し、一切の罪を懺悔しているのです。
仏様はその全ての罪をお聞き届けなさってくださり受け入れてくださいます。
あなたもどうか心から仏様にお聞き届け頂き、これからの人生でその様な行いを決してしないようにお心がけくださいね。
あなたの未来がこれから明るく開かれて参ります様に心から仏様にご祈念申し上げます。
質問者からのお礼
皆様ありがとうございます。
確かに私自身が苦しみから逃れる為に懺悔したいのかもしれません。
益々苦しくなりました。
でもこれからは仏様にお参りする時はお話しを聞いて頂くようにします。