お布施とは?
お布施については既に回答して頂いている中に見ることできます。また、他のホームページにも沢山書かれいることなのですが、それでも解らない愚か者にご教授をお願い致します。
お布施とは三施のことである、といって間違いないと思います。
お布施は対価として支払うものではなく己の為の修行です、というのは理解できます。
しかし一方で、お布施はお礼ですと多くの方が仰っています。
また、お布施は謝礼ではありませんと仰る方もおられます。
謝礼は対価であるのか対価ではないのかということも、意見の分かれるところだと思います。
教えを説くことや読経も三施の中の法施ですから、見返りを求めないことが大前提でありますので、謝礼を受け取って良いのだろうか? と思います。
謝礼を要求することはしていませんと仰っても、謝礼を受けることはほぼ確実なので未必の故意というものです。
しかし私のような凡夫は、お布施をする時にお礼の気持ちを込めて無いのか?と問われれば、有りますと答えざる負えません。
お布施はお坊様が受け取るのではなくお寺に納めるものですと仰られますが、お坊様がお寺で生活をしたり給与を受けていれば、お布施を受け取っていないとは言えないと思います。
などと言ってますが、お寺やお坊様がお金を必要とすることを否定するつもりでは全く有りません。(重要)
お坊様が畑を耕しているお寺もございますが、お釈迦様はそのようなことを推奨しなかったと信じています。むしろお布施を施したり受けることを積極的に推奨したと思っています。
しかし、新宗教の中には物欲を捨てるためにと言って多額のお布施を求めるものもございます。ここでは是非を問う事ができませんが、その様なことも考慮に入れてのご回答をお願いしたいと思います。
厳しいことを問うているように思われるかも知れませんが、「仏教しっかり頑張れよ!」っていう応援メッセージだと思ってください。
正しい気持ちでお布施できるようにご回答お願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ガチガチに白黒つけて誰か救われるのでしょうか?
減点方式の発想を捨てましょう。仏教はお受験のような合否を問う採点基準ではありません。見返りを求めたら0点!このように敷居を上げれば、一握りの仏教マニアしか着いて行けません。そこには優しさがありません。
その点は上座部の托鉢で顕著です。なぜ人々は毎朝ご飯を供養するか?布施によって功徳を積み、来世でより良い所に生れるためです。民間レベルでは明らかに見返りを求めています。その時点で仏教への入口を狭くするのではなく、仏教に親しむ中でどう学んでいくかが大切だからです。
減点式で間違い探しをする発想ではなく、加点式で布施が布施になったら共に喜ぶ発想に切り替えましょう。間違い探しをし合う人が増えれば増えた分だけ、社会に諍いが増え、暮らしにくくなります。それは悪因悪果です。そこで大切なのはバランスですが、今の日本社会はあまりにも病的です。
0か100かで考えると身動きが取れません。肩の力を抜きましょう。二重カッコで強調して繰り返します。『0か100かで考えれば誰のためにもなりません』
実際に信徒さんのお宅にお呼ばれしてご馳走になり、お坊さんが法話をする法事は原始教団の時点で確認できています。
さて、「布施とは」で検索してみましたが、私のタブレットが表示する範囲でヤフーの一覧に見える説明は、上から順に施し、施し、親切、施し、施し(お礼も含む)、対価ではない、修行法の1つ、対価ではない、地名、あまねくほどこす、やさしい言葉(心がけでできる布施)となっています。グーグルでもほぼ同じ結果です。一例だけお礼と言い切る説明がありますが、終活業者による説明です。私にはどう見ても対価ではないという立場が圧倒的多数に見えます(全てを変えるのは望みすぎです)。
また、前回の私へのご返信に「自浄作用が無ければ、人々の信仰心が薄れるのは仕方がない」とおっしゃっています。しかし「宗教離れは団塊の世代に最も顕著で、若くなるにつれ宗教に関心のある割合は増えている」ことがNHKの調査で分かっています。メディアの扱いも一昔前とは劇的に変化しました。これらは自浄作用の成果ではないでしょうか。
日本仏教の未来のために厳しいこと申し上げます。このような固定観念が『仏教は胡散臭い』というイメージのカサブタ『の1つ』と私は痛感しています。チヤホヤして欲しいとは思いませんが、今を固定観念抜きで見ていただければ幸いです
三輪清浄
こんにちは。
「三輪清浄」という言葉があります。
施す人、受け取る人、施す物がいずれも清浄でなければならない、というものです。
まず、施す人が見返りを期待してはいけない。
次に、受け取る人が欲望にとらわれていてはいけない。
最後に、施す物が盗んだ物や、邪な物であってはいけません。
これが「三輪清浄」です。お布施は「三輪清浄」でなくてはいけません。
お布施についてお釈迦さまは『涅槃経』の中で、「布施をした人、布施を受けた人、施した物、その三つを瞬時にお互いが忘れることが最上の布施である」と説かれています。布施をした人が、「出し過ぎてしまった。無駄なことをした」とか「少なすぎて世間体が悪いな」「少なすぎたがお坊さん怒ってないかな」とか「これには一体どんな意味があるんだ?」とか「どんな気持ちで受け取ったんだ?」などと思っていたのではお布施としては正しくないということになります。私たち受け取る側も頂いたものに対し「たくさん頂いたなぁ」とか「すくないぞケチ」などと思ってしまうと布施として正しくありませんので、そのような気持ちはおこしません。お経をするときもそのような気持ちではおこないません。
また財産でも財産でなくても、お坊さんじゃない人に対してでも、何かしてあげるのが「布施」です。
他人に対する親切も「布施」の一種だよ、って事です。
あなたは親切な言葉をかけてもらったり、って事がありますか?きっとあると思います。あなたは布施を受け取ったということです。
またここhasunohaも、私たち僧侶から質問者のみなさまへの布施行為ともいえます。
あなたも様々な形で「布施」を行い、様々な形で「布施」を頂いているのです。あなたはそれをどのような気持ちで行い、また受け取りますか?
お布施は人それぞれ無理のない範囲でいいですよ。
昔々、インドで大金持ちの人が町中の人々に多額の施しをして、その果報として天人に生まれました。また同じ頃、貧しい人が自分が食すのを我慢してひと匙のスープを仏道修行中の長老に差し上げ、その果報として天人に生まれました。しかも、後者の人が前者の人より位の高い天人に生まれたのでした。
このような逸話もありますからね。
また、現代の日本ではお布施にお礼の気持ちを込めてもいいと思います。ご自由になさってください。私としてはお布施を受け取ったら、「ありがとうございます」、と言いますし、受布施偈を唱えます。「財法ニ施 功徳無量 檀波羅蜜 具足円満 乃至法界 平等利益」(財施と法施の功徳は計り知れません。仏道修行の1つの布施波羅蜜が十分に満たされ、全世界の生きとし生けるものへの平等の利益になりますように。)
これを書きながら、最近手抜きして最初の二句しか唱えていない事に気がつきました。お恥ずかしい限りです。反省します。今後は六句までしっかり唱えます。気づかせてくれてありがとうございます。
また、物欲を捨てる為に多額のお布施をしろという話ですが、物欲を捨てる為なら、その教団に出さなくても、他の所に寄付という形で布施してもいいはずですよね。もしそれを咎めるような教団なら物欲を捨てる為という事も偽りだということだと思います。
尊いもの、聖なるものとしてお受けできるように・・
キムコ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
応援、誠にありがとうございます。
確かに対価、御礼と捉えられても仕方がない現実があるかと存じます。
去年一年間受講致しました「未来の住職塾」にて、学びの成果として拙生が作成致しました「寺業計画書」における「お寺のビジョン」の一節には、下記のように書かせて頂きました。
「・・仏教・仏法を確かに扱い実践しているお寺・僧侶であるということにより、真に人々への救いや癒し、幸せ、安心のお役に立てることができている、尊いもの、聖なるものということによって、お布施や寄付を、自然に快くに頂けるようになり、人々がこれからも存続を願って、恭敬と応援の思いをもって、協力、支援、感謝をして頂けるようなお寺にしていきたい。・・」
このようになれますように、日々精進して参りたいと存じます。
川口英俊 合掌