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只管打坐について

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只管打坐についてお尋ねします。

私は本をテキストに家で坐り、週一お寺様の坐禅会に参加させて頂いて8が月経ちます。
それで、このごろ疑問に思うのは、私の坐禅は習禅(トレーニング)で坐禅(安楽の法門)ではないのでは?という事です。

この問いをベースに以下三点をお尋ねいたします。

1.習禅と坐禅の違いは?

2.お寺と家の環境を近づける工夫を教えてください。
 家では早朝に坐るとか線香を焚くなど、僧堂のマネをするのですが坐禅の深まりが違いすぎます。毎日坐る家でのクオリティーを上げたいのです(ちなみに片道一時間以内で参加出来るお寺はここだけです)

3.妄想や眠気が出てきてそれに気づく、その後の戻り所はどうでしょうか?
本に「思いの手放しは骨組と筋肉でねらう」とあったので、坐相を整えていますが...

只管打坐は手応えが無いと言うか、達成感が無いと言うか「本当にこれでいいのだろうか」と悩みながら続けていますが、道元さんが「あまねく勧める」坐禅をコムズカシク考えすぎかな、とも思います。

以上、ご指導宜しくお願いいたします。 


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

曹洞宗は「只管打坐」宗ではなく「脱落身心」宗である。

Q1
⇒習禅とは、坐禅トレーニングしてステージアップしようという狙いのある図式坐禅です。
本来の坐禅は、そこで完結。他に向かう所が無い。
坐禅というオスワリ🐩だけの坐禅ではなく日常生活24時間の禅定(非思量)で、何事に向かうにも無我ゆえにノープロブレムで一生の救いとなります。
習禅スタンスの人は、坐禅して向かう所を持った状態で坐禅しているから決着・決定(けつじょう)がつかないのです。待悟禅、狙い禅。
最上の禅定には坐禅の始まりと終わりという区切りがない。自己の無為、無我、無作為の活動ですからON、OFFがない。
坐禅は、それが人間の心理状態で、一番最上の状態であるという意味合いです。
坐禅はするのではなく、しようとする「私活動」を放棄することでオートマティックに坐・禅なる様子に転ぜられていく。 

Q2
⇒人目があるか無いかの違い、坐禅のスタイル。型式よりも坐禅の実質面に目を向けてください。修行は時と場所と人を選ばず。

Q3
坐禅業界には坐禅というスポーツを上手にさせるような指導書があります。
澤木興道・内山興正らは「只管打坐」をするための坐禅という坐禅指導であって、道元禅とは異なるものであると感じています。
坐禅というスポーツをするかのような坐禅。
私は個人的にそういう坐禅は正直、おススメできません。
悟りも否定してただ坐るとかいう坐禅で最終的に生老病死からの解脱も何もない日常の苦しみすらも何の解決にもならない坐禅であるならば、それこそ本当に「ただ無益にむやみに坐る」ことにこだわった邪禅です。
坐禅が終わった途端日常に戻ってしまうような生老病死苦からの解脱が無い坐禅は力になりません。
道元禅師は「只管打坐をしろ」と言っていません。「只管に打坐して❝心身脱落すること(悟り・涅槃)❞を得よ」と説かれました。
宗旨は一つであっても、その解釈は人の数だけあります。
曹洞宗のここ近年の歴史の中で坐禅をしない仏教学者たちが都合よく曹洞宗の坐禅は「只管打坐だ」と勝手にトリミングしてしまったことがあります。

坐禅で、非思量になれば、そこからが修行・修証の始まりです。
常に無我、無為の脱落の身心が自己の本性であると覚すれば常に安楽です。
道=最上無為、この上ない心のありよう。
だからこそ、その状態にならなければ修行が始まらず、観念の虜に過ぎないのです。

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有り難し
おきもち

良い悪いを持ち込まないのが安楽

>習禅と坐禅
難しく考えないほうがいいですよ。

坐禅は習禅に非ずと言いましても、何でもかんでも習禅を嫌えばいいというものではないと私は考えています。道元さんの一番のお弟子の懐奘さんによると「玉は琢磨によりて器となる。人は練磨によりて仁となる。いづれの玉か初より光りある。誰人か初心より利なる。必ずすべからくこれ琢磨し練磨すべし。自ら卑下して學道をゆるくすることなかれ。古人の云く、光陰空くわたることなかれ」と道元禅師に教わったそうです。つまり、トレーニングを怠るなとおっしゃったということです。

この辺は私の卒論のテーマでしたが(笑)、道元さんが否定されたのは「機関」という「これで誰でも悟れる!修行の4ステップ!!」みたいな流行禅です。当時の中国ではこの4ステップが最強!いやこっちの3ステップが…みたいなシステム競争がありました。そこで道元さんは「大切なのはシステムがどうかじゃなくて今現在の自分自身がどうかだろ!!」と主張なさったという話なのです。
だからトレーニングして良いのですよ。8ヶ月目でしたら特に坐相に気を付けるべき時期でしょう。今の時期にできた癖は一生ものになりかねませんので。

>お寺と家の環境を
心のどこかでお寺の環境に憧れ、ご自宅の環境を嫌っていらっしゃる所はありませんか?坐禅は自分の中に入り込んで一点に集中することではありません。四方八方上下から飛び込んでくる世界を全て無条件に敬い、共に在るのが坐禅です。

おっしゃりたいことはよくよく分かります。確かに心の状態が良い感じに深まる時と、どうにもしっくりこない時は私にもあります。でも、そのような心のあり方に段階を付けて、これは良いこれは悪いと仕分けすることこそが習禅です。調子の良い自分も思わしくない自分も無条件に受け入れて、良い悪いと評価をつけないのが坐禅ですよ。
入って来るのは拒まない、でも、そこに自分の考えを乗っけないのです。

お寺とご自宅の環境の違い、確かにそれもあるでしょうが、一番違うのはお寺にいるAYUさんと、ご自宅にいるAYUさんの心ではないでしょうか?そこに気付かなければ何をどう変えても、犬が自分の尻尾を追いかけてクルクル回り続けるような輪廻の内側です。そしてそこを掘り下げていけば、坐らなくても坐禅というよく分からん悟りの世界が垣間見えてきます。

字数制限のため、3は申し訳ありません…

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有り難し
おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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坐禅とは座るばかりじゃない

AYUさま

坐禅について真剣に向き合っているとのこと、素晴らしいです。
私にどこまでお答えできるかわかりませんが、
坐禅というのは形を習いだんだん上手になるとかいう、習い事とはちがい、
座ったその瞬間に坐禅となります。もっと言うと、座らなくても坐禅になってます。

生活の中でいかに活かせるかが重要だと思います。ですから、無理に環境を整えようとしなくてもいいと思います。それだけされていれば十分です。
そもそもお寺だと、ともに座る仲間がいますよね。そうしたこともとても重要な要素です。

生活のなかで座らない坐禅をすることの方が、環境をお寺っぽくするより大切だと思います。
五感に意識を向け今を見て聞いて感じます。電車の中、ベットで横になって、お風呂で、仕事中になどなどどこでもできます。

眠気についてですが、眠い時は気持ちが今から離れ出している時です。深呼吸をして、今に気持ちを戻すと、目が覚めてきます。足の痛み、目の前の畳のヘリ、外から聞こえる蝉の声、などに気づくでしょう。

それらをただそのままに眺めます。捕まえずそっとしておくのです。
そのように自分の体を使い観察見つめてみてください。いつでもできると思いますよ。

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有り難し
おきもち

禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺副住職。 悩みを吐き出す事で、ちょ...
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質問者からのお礼

とにかく回答が早かった事に感謝します!
初めての質問だったのでずいぶん考えて「送信」したつもりでしたが、その後の待ち時間に起こる後悔(^^)のほうが数段大きいのですね(私はですが)

さて、お二人に共通した所は、形より本質を見なさいという事と、曹洞宗の一つのツールとしての只管打坐をご説明下さったと理解しました。

ですが私は曹洞宗を知りません。私は只管打坐Only oneでお尋ねしたつもりでした。
しかし、これらのアドバイスから新しい視点を頂き、私がどこに魅かれて何を深めていきたいかかえってクリアになりました。

お時間を割いていただき、また言葉の足りない質問に丁寧にご回答いただきまして、ほんとにほんとにありがとうございました。

大慈 様
長文のアドバイスありがとうございました。
大慈様はトレーニングOKとお考えなのですね。それなら続けられるとホッとしています。出来れば指導者について坐相も整え続けていきたいと思います。

また、環境についてのコメントは熟読させていただきました。禅堂は私の聖域なのでつい他と比べてしまいますし、目標(憧れ)達成のために比較検討して差を無くすというスタンス今までおりましたが、ジャッジせず、条件(禅堂)ではなくありのまま(自室)を愛い受け入れなさい、と言われている気がしました。

「坐禅について」問答一覧

アドラー心理学と禅

法律事務所を経営しています。 顧客も案件もたくさんあるのですが、儲からず忙しいばかり。儲からない案件もお金を取らないで受けてしまうからです。 結果、大量の仕事に追われ、催促の電話に怯え、無力感や罪悪感で死にたくなる毎日です。月に1~2回、本当に自殺しそうになって思いとどまるようなことが1年くらい続いててかなりツラいです。 そんなときに、ベストセラーになった「嫌われる勇気」(アドラー心理学の本)を読みました。そのなかに、 「自分がした善行に相手の配慮を期待するのは筋違い」 「受けた善行に返報しないことに罪悪感を覚えるのも筋違い」 「助けを求められてそれに応えないことに、罪悪感を覚えるのも筋違い」 「自分が何をすべきかは「自分の課題」であり、それを相手がどう感じてどう対応するかは「相手の課題」だから」 「自分の課題と相手の課題を混同してはいけない。相手の課題を勝手に自分の課題にするから苦しくなる」 というようなことが書かれてました。 自分は誰かの役に立つことは好きなのですが、そのことでお金を請求するのが苦手です。一方で、役に立つことをしてるのに相手から配慮して貰えないと苛立ったりします。また、何かを頼まれて断ることに罪悪感を覚えます。断ったら「嫌なヤツ」と思われるかもしれないという恐怖もあります。 アドラーの指摘するように、自分の課題と相手の課題を切り分け、「お金を請求して、支払うかどうかは相手の課題だから、気にせず請求すればいい」「相手の役に立つことをしても、それにどう応じるかは相手の課題だから、相手の配慮を期待するほうがおかしい」「頼まれ事を断ったとして、それをどう感じるかは相手の課題だから、どう思われようと気にすることはない」と考えれば確かに楽なんですが、お坊さん的にはこうした考え方ってどうなんでしょうか? そう考えると楽なのは分かるんですが、なんとなく腑に落ちないのです。 以前聞きかじった禅の思想(教え?)で、「一時の結果や他人の評価など気にしても仕方ない(どうせ本来無一物/諸行無常)」「自分は自分。他人は他人(主人公)」みたいなのがあった気がします。うろ覚えですが。 禅にも似ている考え方があるんじゃないかと思い質問してみました。 実は人に相談するのもとても苦手です。 ご回答頂ければとても嬉しいです。

有り難し有り難し 34
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ