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浄土真宗と曹洞宗の二股はだめですか

こんにちは、宜しくおねがいします。

 生き方について悩みが多く、暴れる心をなんとか鎮めたいと最近、
浄土真宗の聞法に通っています。
 随分昔に死んだ明治生まれの祖母を思い出したからです。彼女は封建的な夫に黙々と仕え、息子に戦死されても、一人娘に急死されても、毎日の日課を黙って静かにこなし、仏壇になんまんだを唱え、老いては子に従い、右を向いていろといわれれば右を向き、左を向いていろといわれれば左を向いているような、大切にはされていたのでしょうが全く存在感のない祖母でした。無口で静かでしたから声も覚えていないのです。すっかり忘れていたのです。

 ところが、自分も老境に入り、しかしいまだ心穏やかならず、怒りや貪りに振り回され苦しむ有様で、あの諦観したのか、または阿弥陀様にお任せしきったのかのような祖母の姿が私を聞法に向かわせました。

 しかしこの身はしぶとく、聞法をいただいている間は少しは素直な気持ちになるのですが、それもなが続きしません。
 第一、近代教育を受けた私には、「はからいを捨て、お任せする」のは難しいです。はからうことばかりを目指し、学び、訓練してきたのですから。もしかすると、もっと死が近づいたら少しはそんな気持ちが持てるのかもしれませんが・・・
 ただ、三木清が言うように「自分は最後は親上人の言葉どうり、あの世で懐かしい人たちに会えることを信じている」のは私も同じです。

 問題はあの世のことでなく、日々の生活で心配や怒りや嘆きに振り回されることです。

 そんな私が禅宗の教えで行住坐臥を整えることや、禅の言葉に従うことで、少しは苦しみから離れられるように思うことがあります。
子供のころ永平寺を訪れて、「こんな風に生きている人もいるのだ」とショックを受けたことから大人になって、禅林句集や道元禅師を読むようになりました。指針になります。

 阿弥陀様にお任せできない私が曹洞宗に頼るのはいけませんか?
浄土真宗では一筋でないといけないと聞きます。お任せしきらないといけないと聞きます。浄土真宗と曹洞宗の二股みたいで罪悪感があります。

 迷える私にお言葉をいただきたいです。

 宜しくおねがいします。

 とんぼ

後悔・自己嫌悪
有り難し 56
回答 4
回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

この身・このまま・ありのままの救い

阿弥陀様に「おまかせ」するとはどういうことでしょうか。

「おまかせ」しているのに「心穏やかならず、怒りや貪りに振り回され苦しむ有様」を悩むという事は阿弥陀様を頼んでいるようで、「我が身=自力」を頼んでいるのです。
阿弥陀様は「心が穏やかになり、怒りや貪りに振り回されない様になった者を救う」とは一言もおっしゃっていません。
また阿弥陀様に救われたなら「日々の生活で心配や怒りや嘆きに振り回されなくなる」と考えるのも「我がはからい」です。

阿弥陀様の救いは「この身・このまま・ありのまま」の救いです。救われてもある意味では何も変わりません。
「日々の生活で心配や怒りや嘆きに振り回されなくなる」のではなく、「日々の生活で心配や怒りや嘆きに振り回されている姿を知らされながら」生きていけるのです。

「日々の生活で心配や怒りや嘆きに振り回されなくなるはず!」という様に「日々の悩みを悩まなくて済むはずだという態度で悩む」のではなく、「いよいよ日々の生活での心配や怒りや嘆きという悩みを真正面から悩んでいける」のです。

ありのままの救いとは「私の思い」がありのまま救われるのではありません。「私の身の事実がありのまま知らされる」のです。
悩み苦しみの原因を周りのせいにし、悩まないためにあれがよいと言われればあっちを向き、これがよいと言われればこっちを向き、自分以外のものを頼りにしているようで結局我が思いを頼りにしフラフラしているような身を知らされるのです。
その上で、そんな私を「そのまま救う」とおっしゃる阿弥陀様のお心に頭が下がり、懺悔し、御恩報謝の人生を力強く歩んで行くのです。

私が「いい人間」になって救われるのではありません。罪悪深重の身のまま救われるのです。
それからは浄土に生まれることを願い、阿弥陀様が浄土を建てられたお心にかなうにはこの世をどのように生きるのか「どこまでも問い続ける」歩みをいただくのです。
「正しさ」や「こたえ」をいただき「心がスッキリ」したり「楽になる」ようなことではないのです。
悩むべきことを悩み、苦しむべきことを苦しむことができる。それが実は私が「救われ続ける」道です。

なお、私はここhasunohaで禅僧さんの回答を拝読し、浄土真宗についての学びを深めたので二股もアリだと思います。頼むのは「我が身=我が思い」ではないということは共通項でしょう。

回答僧

大鐵

あなたの苦しみはどこからきておりますか?

 あなたの苦しみは四苦八苦です。別に信仰からではございません。落語の『宗論』で「どちらが負けても釈迦の恥」という言葉があります。今回の場合は「どちらをとっても釈迦の功徳」でしょうか?
 あなたの苦しみは愛別離苦から来るのでしょうか?念仏や禅をどちらに頼るというものではありません。信仰は頼るものではなく、自分の信心です。信仰しようがしまいが誰にでも雨は降るし、時は流れます。その状態をどう生きるかは自分次第です。先ずは自分を整えましょう。家は掃除しておりますか?仏壇の花は枯らしておりませんか?洒水(仏壇に供えるお水)は毎日替えておりますか?夜更かししてませんか?朝は決まった時間に起きておりますか?会う人に挨拶してますか?食事は適量を守り、自分が食せる分だけ作ってますか?無益な殺生をしておりませんか?モノは大切に使っておりますか?
 まずは信仰云々よりも自分の生活を見直してくださいませ。日々の日課がしっかりしていれば自ずと心も整ってきます。

回答僧

けんじゅ

今の時代の恩恵なので学ぶ事が良い事だと感じます

とんぼ様こんにちは。

とんぼさんの場合は祖母様が阿弥陀様との御縁を作ってくださったのでしょうね。私は浄土真宗にてお育てをいただいておりますが、今でも禅書は親鸞様の御教えを深く頂くためにも折に触れて読み返しております。念仏は口でする座禅。座禅は身体でする念仏だと受け取っております。

仏教とは不思議な宗教で「死ねない」教えです。苦しみは死しても終わらず永遠に意味のない転生の繰り返しです。それを終わらせる道が修行の道です。なぜ終わることがないのかと言えば煩悩(永遠の不満足の種)を抱えているからです。浄土真宗は阿弥陀様の力(他力)をいただいて浄土に生まれさせていただいて、そこで煩悩を消滅させて苦しみを終わらせていただく道です。そのためにはまず輪廻を離れる修行を完遂できない身と煩悩を抱える心をよくよく見つめる必要があります。誰でもお浄土へ参らせていただけると勘違いしている人が多いです。疑いの心を持つ者は往生はかないません。

どこかに楽があるのではないか。それは私も考えます。もっと言えばそう「思わせる」事こそ煩悩の働きです。煩悩(過去から永遠に積み重なってきた不満足の水源)という馬に乗っているが私です。ですから怒りや貪りは「私が」起こすのではなく、起こってくるものです。馬が起こしてくる。その馬を必死でしつけようとする事が「はからい」です。まして殺すことは乗っているわけですから歩むことも出来ません。「おまかせする」とは、心に起こってきたものを「つかまえて善し悪しをつける」ことではなく、「怒りが起こってきたなぁ」と感じることです。「あぁ煩悩がささやいている。だからこそ阿弥陀様が私を呼んでくださっているのだ」と感じる。馬と一緒の人生ですが、その綱を阿弥陀様がひいてくださいます。

浄土真宗は導かれる者にさせていただく道です。阿弥陀様と共に生活させていただくこと。具体的には礼拝、お念仏、お勤め、聴聞、供養(お給仕)の5つの報恩感謝行として生活すること。私が阿弥陀様をどう見ているのかではなく、阿弥陀様は私をどう見てくださっているかと思いお念仏すること。道元様のお言葉を学ぶ事に罪悪感は必要ないと思います。いろいろと学ぶ事で親鸞様のお言葉が深く感じられる事もありますよね。合掌

回答僧

一乗寺

真慧

宗教は単に体験の問題だけでなく真理の問題である

まったく回答になっていませんので、
以下、単なる坊さんのつぶやきと捨て置いて下さい。

三木清によれば
「宗教は単に体験の問題だけでなく真理の問題である」とし、
親鸞の思想が実に「体験的、人間的、現実的」であるところに極めて深い「内面性」を見出すといいます。
三木はその「内面性」を、超越的なものが内在的であり、内在的なものが超越的なところに、真の内面性がある、と遺しています。

反芻するなら、上記のことはまさに「あの世」ではなく、「今ここで」問われているものです。

同時に、私たちは先人の「今ここ」を生きた時代相に目を向けねばなりません。
三木清の時代と、貴方の祖母の生きた時代に横たわっていた死生観は、なぜか今ごろ話題の「教育勅語」の、死を身近にさせていた時代を想像します。
(三木の非業の死もまた、結果的に彼の思想と無縁ではないのかもしれません。)

最後に、三木は「末法とは死の自覚」であるとも。

死はいずれ訪れるのですから、末法の時代に宗旨宗派の違いから二股を悔やむより、
色々と飛び込んでみたらいいのにな、との感想です。


質問者からの有り難し - お礼

吉武文法先生

 ご教示有難うございました。何度も読み返しました。わが身の情けなさに泣けてきました。

 私は、お釈迦様の「生きることは苦である」ことを正面から受け入れ納得するのをいやがって七転八倒していたのだな、と気づかされました。
 家庭の中で生きてきましたので、身過ぎ世過ぎの苦労も達成感も知りません。そのうえ特別な災難や不幸に出会ったわけでもありません。
ただ、誰にでもあろう、人生の場面場面で出会う困難や苦労に、自力を磨いて努力し、諦めずに戦い、打ち勝つことで、そのあかつきには心の安心や平和は得られるもの、とそんな風に勝手に決めつけて、努力主義であったかと思います。
 ところがいくら解決したと思っても、安心など得られず、次から次へと悩みや気がかりは尽きないで起こるのです。まるで蜃気楼をおいかけていたようなものでした。
「生きるとは苦である」ということが心底から認識できていなかったのですね。
 残念なことに生まれてしまったのですね。父母のせいでもなく、誰もがそうなのですね。
自力では立ち向かえないし解決できないくせに、阿弥陀様にすっかりおまかせする無邪気さがないのです。そして、どこかですっきりひょっと楽になる助かる道があるんじゃないかと甘いこと考えているわけです。私は遠藤周作の「沈黙」のキチジローです。
 こんな、救いを拒んで逃げ惑う私さえ、追い回して救いとってくださる阿弥陀様って・・・
もしかすると、まだ苦悩の自覚が足りないのかもしれません。底を打った、打つ手はない、と思えば阿弥陀様におすがりするしかないと、どうしてもそれしかないとなりますものね。

 いろんなことに気づかされました。

こころより、有難うございました。

 とんぼ

大鉄先生(正しい字がみつからなくて失礼します)

 ご教示ありがとうございました。

 ご指摘のとおり、四苦八苦です。
 神経過敏なところがあるので、何事もゆったりと受け止めるのがむずかしいようです。
大雑把な人や、一見鈍感な人に劣等感を感じます。
 慎重といえば聞こえはいいですが、不安が強いので失敗を恐れてそのくせ完璧志向があるのです。

 早寝早起きで、散らかっているのはいやなほうです。他家を訪問して、茶菓でもてなしてくれても、散らかっていると、ちょっと気にさわります。こうして文字にすると、自分の不寛容さがよくわかります。
 早寝早起き、掃除をしても、それはきちんとするため、と合目的的にやっているので、そうではなく、手段としてでなく、やること自体を目的として、ただひたすら心をこめてやっていこうと思いました。邪念や妄想の入り込む隙のないようにやっていこうと思いました。

 苦しい苦しいといいながら、今庭先にメジロがくると、もう嬉しい。呆れた私だな、と思います。

 ありがとうございました。精進します。

 とんぼ

真急先生

 ご教示ありがとうございました。

 三木清の全集は手元にあり、折にふれ読んできましたのに、「親鸞」や宗教についての断章は軽く読み飛ばしてきました。宗教は私にあまり関係ないと思っていたのです。若くて、西洋志向だったのです。「幸福」ということはそんなに大事なテーマだと思っていなかったし、無学な年寄りたちが「念仏すれば救われる」というのを滑稽な世迷事だと、一笑に付していました。
 西洋的な二元論についていけなくなり、そこで捨象される薄暗い闇に次第に惹かれるようになりました。私の魂の渇望がありました。
 散々二元論的に分別して生きてきて、知識を増やし分類するために主体的に切り込まずに読書してきた私は軽薄な愚か者だったなと思います。
 祖母のように、きわめて平民的に浄土真宗に全身で入っていこうと思い、聴聞を大切にしたいと思っていました。

 三木清の非業の死は彼の思想と無縁ではないでしょうか。若い頃、若くて才能ある三木の非業の死が無残で、高倉テルがのうのうと90歳を超えて生きたことに憤慨したりしたことを苦笑しながら思い出します。神も仏もあるものか、なんて。私もこの時代では、90歳くらい馬齢を重ねるおそれもある、少しは真理に近づきたいです。
 先生の助言どおり、いろいろ飛び込んでみようと思いました。どうせ、祖母のようにはなれないでしょうから。

 三木清についてお話が聞けてとても嬉しかったです。もう恩師も鬼籍に入ってしまったので。

 心よりお礼申します。

 とんぼ

けんじゅ先生

ご教示ありがとうございました。

「疑っていると往生できない」・・・哀しいことにいまの私はまだ往生できない。
 以前アメリカに暮らしたとき、しばしば「おまえはキリストを信じるか?」と問い詰められ「否」と答えると「信じないと救われないぞ、地獄に落ちるぞ」と脅されました。
 浄土真宗とキリスト教は「信じる」ことが第一義ですよね。そうした宗教的雰囲気の中で育つとか、人生上でなにか予想もしないことに遭遇して思想信条がコペルニクス的転回を起こすとか、でないと凡人には難しいです。これも愚痴ですが。または、その時、人生に悩んでいるまさにその時であればそしてそのキリスト者が幸福に見えたとか。

 ところが今なら「我もはや生きるにあらず、キリスト我において生きるなり」が分かるのです。

先日このhasunohaで一乗寺の真恵先生に、どの道をいくか迷わずなんでもやってごらん、と諭され、三木清を読み返したりしました。すると、いままでいったいなにを読んでいたんだ。私の為に書かれていたのでした。
 不安と焦燥は傲慢な心のこと、静けさと安けさは謙虚な心のこと。鋭さよりも深さを、巧妙よりも純粋を。名誉心を満足させるのではなく、虚栄心を粉砕すること。
 私はいままで理想主義すぎ、完ぺき主義すぎ、と人からなだめられてきましたが、理想を引き下げるのでなく、理想が自分の現実を支配するように試みるつもりです。

 心よりありがとうございました。

とんぼ

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