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今の自分が嫌いです。

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有り難し有り難し 20

私は無職です。
人の視線が気になり、どうしても一人で外に出れません。
家族や友達と一緒でも、見られてる気がして怖くて不安になります。
自分の行動や発言、一挙手一投足に注目されている気がして、息苦しくてたまりません。
こんな自分が大嫌いです。
精神科に行きたい気持ちはあるのですが、母は私が精神的な病であると信じたくないらしく、育て方が悪かったのだと自分を責めます。
それを見ているのも苦しくて、私がいなければ、生まれて来なければよかったのにと毎日辛くてたまりません。
正直、思い残すことはないんです。役立たずな自分なんて死んでしまえと何度も思っていますが、自分で死ぬこともできません。
どうしたらここから抜け出せるんでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ここから抜け出すべき「ここ」とは、心のなかのこと。
自分が自分のマイワールドで自分をいじめる設定をしている「アタマの中」から出てみましょう。
人間は自分の頭の中で考えたことは残念ながら自己責任。
考えたくないことでも考えてしまえば、それに頭が染まっていく。
わたしも修行道場時代、ずっと頭の中に志村けんと研ナオコがでてきて45分間志村&ケンまみれになったことがあります。
太宰治の人間失格を読んだ時「ワザワザ」のシーンで凍り付き、自意識過剰を自覚した時期もありました。
ですが、ある時「人の目を気にするというのは、自分の事なんてそんな細かーいところまで誰もゼンッゼン気にしていないのに、自分だけが❝あの人わたしの事を見ているんじゃないか❞と思ってるだけじゃないか。」ときづきました。
これを「あの人が気にしているんじゃないかという自分の思い」に悩んだ自分と致しましょう。
ここを煮詰めていきます。
すると「ああ、人というものは、こちらも相手のことがさほど細かいことが気にならないということは他人さまもこちらのことなんてさほど気にしてないんだ」ということがわかり、丹下のように頭にハエがたかっていようが、肩に鳥のフンがついていようが、背中にセミの抜けがらがついていようが、顔にご飯つぶがへばりついていようが、気にならなくなるものです。
「ああ、本当だ。誰もそんなふうに見ちゃいないんだなぁ」と分かります。
――――――
追伸:
精神科医にかかりますと、保険などキャリアに傷がついてしまうことがありますので、一度坐禅会にお越しいただくか、お電話ください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

こだわり、考えを捨てる道

人って不思議なんですよね。
人に見られてると思うと身動きが鈍くなるんですよね。何ででしょう。

こんなことしていいのか不安になったり逆に自信があるときはみんなが自分を見ていると思い込みさらに自信過剰なほどになったりしてしまうのですよね。

しかも、犬や猫、赤ちゃんに見られていても、問題にならないのに、何が違うのでしょうかねー。
人にどうこう思われても一切傷つくこともないのが現実なんです。そこを冷静に捉えることができるかどうかで、仏道を歩めるのか、悩みの道を進むのかが決まります。
あなたが本当に変わりたいなら、真理、真実を知るべきです。
考え方や思いを手放し事実に生きる道を学ぶ必要があるのです。
是非、禅を学んでいただきたいです。丹下さんが言われているように、実際にお話を聞いてみる必要があると思いますよ。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

質問者からのお礼

早速のご回答、ありがとうございます。
やはり自意識過剰なだけなのでしょうか…。
ですが確かに自分は他人の事をそこまで気にしたことはないなと思いました。
すぐには無理でしょうが、今一度考え直してみます。
目下の目標は精神科に行くことですね。
お話聞いていただいて本当にありがとうございました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ