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執着を捨てたい、自分の心をコントロールできない

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有り難し有り難し 20

初めて相談します。
些末なことにとらわれ、いまの幸せを感じることができず苦しんでいます。

*過去の仕事のこと
大好きだった仕事。現在、鬱病で休職中です。パワハラを受けて第一勢力からハブられ、人間関係がうまくいきませんでした。

本当は皆と仲良くしたかった。でもできなかった。そもそも仲良しごっこをしに行くわけじゃないから、自分の仕事を進めていけばいいだけなのに、取るに足らないことで心がざわつきます。復職後の不安もあります。

見方を変えれば、せっかく子供と一緒にいられる時間を得たのに、いつまでも引きずっていて情けないです。うまく自分の心をコントロールできません。

*大嫌いな人のこと
鬱病の原因になった同僚です。いまは離れていますが、その人と他の同僚が仲よさそうにし、いい先輩ヅラしているのを見聞きするだけでやるせなくなり、過去を思い出しては鬱状態になります。

私への仕打ちを罪とも感じない人が私の心のなかにいるということが不愉快で仕方がありません。

*大好きな人のこと
恥ずかしながら夫以外の人に好意を持ちました。その人も私のことを好きだと言って優しくしてくれて、話をするだけで心地よさを感じていましたが、他に肉体関係がある女性が複数人いることを知り、いまはその人のことを考えるだけでドス黒い気持ちが湧いてきます。なお私は体の関係はありません。

仕事の関係上、縁を切るのは難しいのですが、苦しいだけで誰にも何のプラスにもならないこの気持ちをなくしたい。もはや好きではなく、ただの執着な気がしてなりません。捨てて楽になりたいです
(メリットがあるとしたら彼だけですね。慕ってきてもう一歩でヤレそうな女がいる…といったところだと想像します)

私の悩みは「執着」とか「過去にとらわれている」ことに端を発すると思います。

目の前にある幸せを大切にしたい。こんな私を気にかけてくれる夫に心配をかけたくないし、子供に鬱状態で接したくありません。私が沈んでいると子供も悲しそうにします。

どうすればいいかわからず、出口の見えないトンネルから抜け出せずにいます。

どうかご助言をお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

切り捨てる

みずきさん、はじめまして。質問を拝読いたしました。

みずきさんは、過去のことや仕事のこと、大好きな人のことに対して些細なこととわかっていながら囚われ、幸せを感じることができないのですね。

私もみずきさんの言われるとおり「執着」に端を発しているとおもいます。
では、執着をどうすればいいのか。

はっきり言いますが、冷徹になり切り捨ててください。
みずきさんは優しすぎるのです。優しいことは、誰もが真似をすることができないみずきさんの大切な宝です。
しかし、優しすぎることは百害あって一利はありません。

お釈迦さまは「執着があれば受け流せ」と言いました。私はそれだけでは足りないと思います。冷徹なほどに切り捨てる必要があります。

私も、「おまえは優しすぎるんだよ」と言われ続けてきました。
優しさは自分にとって損であると考えて、人に厳しく当たったこともありました。でも、人に厳しく当たることで私らしさはどんどん無くなりました。

結果として、優しさは私の中にある宝だと思い当たりました。しかし、優しすぎることは優柔不断なだけで、自分を殺しているだけでした。それ以降、私はどちらともつかないことや、やりたくないことはすっぱりやめることにしました。周りの人がびっくりするぐらい、スパッと切ってしまいます。

私はスパッと切り捨てることができるようになって、執着から離れることができました。
みずきさんにとって、本当に大事なことは何ですか?

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徳島県の高野山真言宗寺院で住職をしています。 本山布教師心得として自坊の...
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執着について

みづき様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「執着」を捨てられたいというお気持ち、誠に理解ができます。

しかし、仏教的に言われる元々の「執着」とは、「対象への実体視」のことで、世間的に使われるものとは少し異なるものとなります。それを説明し出しますと煩雑になりますのでここでは辞めておきますが、とにかく、対象は対象として確かに存在はしています。ただ、存在はしていますが、それらは、様々な因縁(原因と条件)により変化していくものであります。

問題は、これから先へと向けて、自分にとって、それが善い結果へ向けた善い因縁となりうるのかどうか、それとも悪い因縁であるのか、その見極めとなって参ります。

何でもかんでもを執着として悪いものと見るのではなく、それらがこれからへと向けた善い因縁として有効かどうかということを判断していくことが大切となります。

まあ、少ない情報ではこざいますが、拙生の思うところ、ご家庭、お子様とのことを優先されたい、大切にされたいとなれば、その職場のことはもう辞められて、転職を考えられるのも一つであるかとは存じます。

川口英俊 合掌

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おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

中村太釈さま

ありがとうございます。しばらく伏せっておりまして、お礼が遅くなり申し訳ありません。

ご経験に基づくご助言、本当にありがたいです。そうですね。私は優柔不断で捨てることができないのだと思います。つくづく自分が嫌になります。

この怒りというかネガテイブな感情は、相手にもありますが、過去に嫌なことをされたとき相手に抗議したり怒ったりできなかった自分に向けてのものなのかもしれません。

会社に相談はしましたが、所詮他人事ですもんね……無駄な仕事は増やしたくないでしょうから、私が弱いのが悪いみたいな感じで対応されてしまいました。

昨晩もいろんなことを思い出して泣きじゃくってしまいました。

起こってしまったことは、もうどうにもなりません。捨てて前に進みたいです。しかし、スパッと捨てるというのも難しいですね。できたと思ったのに突然フラッシュバックします。

川口英俊さま

仏教的観点からのご助言、ありがとうございます。しばらく伏せっておりお礼が遅くなって申し訳ありません。

善い因縁だったか悪い因縁だったか……この苦しい気持ちも何かの糧になってくれるといいのですが……

辞職もひとつの手ですね。ですが好きな仕事はなので、辞めてしまうと彼らの活躍を見るたびにまた不愉快な思いが爆発しそうです。いまはまだ時ではないのかもしれませんが、心の片隅には退路として置いておこうと思います。

ありがとうございました

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