hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

死 って悪い事ですか?

回答数回答 4
有り難し有り難し 51

こんにちは。
一年半ほど前愛猫を病気で亡くした際、こちらでお言葉をいただき、大変感謝しております。

実はもう一匹猫がおりまして、亡くなった子の姉妹なのですが、この子も9歳になりまして
猫の初老にさしかかっております。今は特に問題なく元気にやっております。
ですが、そう遠くないうちに別れの日がまたやってくるかと思うと、辛くて涙が出てきます。
うちには子供がおりませんので、子供の代わりとは言いませんが、多分愛しすぎて愚かになっているのだと思うのです。
執着しすぎる事はよくない、と頭ではわかっているつもりですが、気持ちがついていかないのです。
もしくは、猫を失った後辛い思いをする自分が可愛いだけなのでしょう。
先に自分が死んでしまいたいとすらおもいます。

もっと冷静に、理性のある人間になりたいのですが、どういう心構えで〔死〕を受け止めればいいのでしょうか。
〔死〕は悪い事、よくない事と考えるのがいけないのでしょうか?

まとまりのない文章失礼いたしました。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

いずれ必ず来る死別を想うと悲しくなりますよね。

もし「死」が悪いことなら、
人間はじめ生き物全ての一生は、
悪いことで終わることになります。
それでは空し過ぎます。

お釈迦様は、
人生の苦を四苦八苦と申して、
生・老・病・死・
愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦・
に分けましたが、
それらを「悪」とは仰いませんでした。

「死」は辛く悲しいことではありますが、
決して悪いことではありません。

{{count}}
有り難し
おきもち

和田隆恩
 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生ま...
このお坊さんを応援する

死はその苦痛すら開放する あなたからも ネコ本人からも

こんニャちは。🐱
幼少期から寺でネコを飼っているのにネコアレルギー、
ネコアレルギーなのに現在もお寺で猫を飼っている寺務モリソン丹下です。
今日も沢山の猫や人の死のドア―ズが開かれています。
ですが、そのドアの先は終局と同時に始まり・継続のドアーズ🚪も開かれています。
隣のドアも開けてみれば違った角度で世界が新たに開かれるものです。
悲しいですが、いつかネコもあなたも死にます。
ですが、本当は死は悲しいことではありません。
死は「苦痛からの解放」という一面もあります。
それは詩人、哲学者の世界観かもしれませんが、仏教的見地、仏陀のまなざしでモノをみつめていけば死には「善し悪し」すらないことを悟り(理解し、応用され、その通りになり)苦しみにすらなりません。
ものの本当の有りよう(法相)をみる目が開かれれば心は善悪・苦楽に支配されないのです。
それが俗にいう悟りが開かれたという事です。
それは思考を通した眺めではなく、事実をダイレクトに眺めた視線です。
感受を大事・大切にしていて、想念をそこに添加しない眺めなのです。
ァーストフードにトッピングをしないで食べるようになれると言った方が分かりやすいかもしれません。
そこで起こっている事をその通りに授かるという事を、人類はこの体で誰の命令も無しにやっています。
ところが、人間は人知で命令違反が生じるのです。
有る通りのことをそのまますれば何の害も起こらないのに、命令違反でアダムのリンゴを勝手にかじって知恵の眺めでものをみるようになるのです。その方が刺激的でドラマチックだからでしょう。
何でもない名画を傷つけるのは何者でしょうか。
お寺に油をひっかけて人を不快な思いにさせるのは「誰」でしょうか。
そういう心は「何」によって生じるのでしょうか。
それが人間の中の「にんげん」です。その「にんげん」とは「エゴ・自利・我」。
「にんげんだもの」という言い訳すら成り立たない万人が向き合わなければいけない、世界中の人間を苦しめる「にんが(人我)」の見解です。
それを外せば、ものをその通りに眺めるようになり、思考を付随させず、自分を思考によって苦しめない有り方「さとり」が得られるのです。
死のみならず、全ての物事に「善し悪し」がないと悟るのが仏教です。
あなたのその考えも。
誰がその考えを作り出して、是非をジャッジしているのですか?

{{count}}
有り難し
おきもち

この世からの「卒業」だから「おめでとう」で

死は必ず起きるライフイベントです。
必ず起きるライフイベントの際は、「おめでとう」とお祝いすればよいのです。
入学も「おめでとう」、卒業も「おめでとう」
就職も「おめでとう」、退職も「おめでとう」

出生も誕生日も毎回「おめでとう」。
だったら、亡くなるときも「おめでとう」と言って、この世からの卒業を祝ってあげるほうが素敵ではないでしょうか。
卒業は別れだから淋しさもありますが、しかし、悲しむ(嫌がる)よりもお祝いして送り出す方が良いでしょう。

{{count}}
有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
このお坊さんを応援する

死は一時の別れ

拝読させて頂きました。大切なものとの別れは本当に辛いですよね。その悲しみに心は閉ざされてしまいそうになりますよね。あなたのお気持ちをお察し申し上げます。
それでもあなたはあなたの生命が全うされるときに必ず仏様のもとにて愛する家族やその猫ちゃんたちと再びめぐり会います。
仏様は全てのひとや生き物を正しく仏様の極楽へと導いてくださいます。

死は一時の別れです。必ずや仏様が導いてくださり再会させてくださります。

どうぞあなたは再会の日を待ちながらこれからお念仏おとなえなさってその子たちが仏様に導かれます様にとそしてあなたが仏様のもとでそのこたちと再会できます様にと心からお念仏おとなえなさりお願いなさってくださいね。
南無阿弥陀仏

あなたとそのこたちのご縁はこれからもずーーーっと続きますからね。

{{count}}
有り難し
おきもち

Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
このお坊さんを応援する

質問者からのお礼

丹下様、和田様、願誉様、kousyo Kuuyo Azuma様

ご回答本当にありがとうございます。
一言一言噛み締めながら読ませていただきました。
少し心が軽くなりました。

「死について」問答一覧

死別シングルマザー

夫と死別し、半年経ちました。 死後の手続きなどでバタバタと、忙しくしていましたが、この頃PTSDの症状がでて、とうとう仕事にいくこともできなくなりました。 一ヶ月の休職ですが、休んでる間に収入の不安、子どもたちのこと…色々と考え過ぎてよけいに具合が悪くなっている気がします。 職場からは、また笑顔で戻ってくることを待ってますと温かい言葉を掛けてもらっているのですが、夫を看取った病院が職場の直ぐ側であることや、救急車が頻繁に通ることなどから、正直一ヶ月休んだところで復帰する元気があるかわかりません。何も前に進めない自分に自己嫌悪の毎日です。お金の不安と、パートナーを失くしたことから『風俗』で働いて少しでもお金を…と浅はかな考えも拭えません。時間が長く感じます。こんな姿を夫が見たらなんて思うだろう。夫じゃなくて、不器用な私が先に亡くなればよかったのにとまで考え込んでしまいます。周りには自分のように30代で配偶者を亡くした人はおらず、まるで腫れ物のように感じます。他の家庭を見ると、赤ちゃんが生まれた…家を建てる…夫婦仲良く子育てできてて自分にないものばかり目に映り、生きづらいです。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1

「周りの人間の死」への向き合い方

「周りの人間の死」への向き合い方が分からず、恐らく変な方向に価値観が向かってしまい、常に一定の苦しみを抱えてしまっています。 無理やり挙げるとすれば、恐らく一番大きなきっかけは、2年前に母の母である祖母が急死されたことだと思います。大きな病気やケガもなく元気に畑で過ごしていた祖母の急死に頭が追い付かず、又様々な状況を理由にしばらく会えなかったことや、恩返しなども出来なかったと感じたことによる後悔と主に、「人は急に死ぬこともある」といった至極当然のことに恐怖を覚える様になりました。 その"急死"は脳内で"事故死"等に変換されたようで、現在は「自分が何か人に頼むことで事故死するかも」といった恐怖をもってしまっています。私が親に頼んだ買い物の道中で死ぬかも、私が選んだ待合場所のせいで、指定した時間のせいで友人が死ぬかも、と思うと、所謂"普通の価値観"で人に頼る事、あまつさえ意見や提案事の提示も難しくなってしまいました。 正直自分の死は大して怖くはありません。ただ、もしそういった状況で知人が亡くなってしまえば、仮に明らかに自分のせいではなくとも「自分がこの人を殺した」と思ってしまうに違いないと感じています。又そういった気持ちを抱えてその後の人生を全うできるとは到底思えません。 バタフライエフェクトのレベルで「人の死に関与したくない」といった気持ちが大きくなってしまい、生き苦しさを感じてしまっています。 この価値観が、俗にいう「変・ずれている・間違っている・過剰」ということは頭では理解できているつもりです。ただ、どうにも心がこういった考えを除いてくれません。 もし仏教などを用いて少しでも楽に生きることが出来るのであれば、と思い、相談させていただいている次第であります。ご意見をお伺いできますと幸いです。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 2
回答数回答 1

病気になって死を考えるようになった

現在,一人暮らしをしている中年男性です。 先日から病気をしています。病気になって,一人暮らしなので,闘病しながら食事,洗濯の家事をしないといけません。また,食事のための買い出しも必要で,誰か助けてくれないかと,常に考えています。 知り合いに食事を作って持ってきてください,といった厚かましいお願いはできないもので,そういったお願いができる知り合いがいるわけではありません。 闘病を続けながら,食欲もなく,痩せていくし,気力も失ってきています。 また,コロナ禍で,一人亡くなっていった方もこのようなつらい状況であっただろうと想像し,そのため可能であれば入院させていただいて,看病していただけないかと,勝手な思いが巡ります。 そして,こんなに苦しい状況なのに,これを乗り越えて「生きる理由」はあるのだろうかという考えが頭をよぎっています。 ある程度の人生は送ってきました。これから先もいろいろと楽しみもあると思いますが,生老病死は,四苦なので,病気を克服するのも,その後,克服した後に生きていくのも苦しいのだろうと,勝手に解釈をしたりします。 だったら,もうここでいいや,と思ったときは,死ぬことができたらいいなぁ,眠るときにこのまま目覚めなければいいな,と考えるようになっています。 自死については,以前は否定的ではありましたが,闘病の中で,それは個人個人の自由でいいのではないかと思うようになりました。 自死していった方は,苦しい中,生きることに耐えられなかったのだろうなと,共感できる心持になっています。 病気をして,手厚く看病してくれる人がいる状況であれば,それはそれで,心配してくれる人のために生きる理由があっていいのですが,そうでない私は,一人で非常に苦しい,不安です。そんな私が,命尽きるまで闘病するかもしれないという選択をして,生きる理由はなんでしょうか。 誰も助けてくれる人もいない,ただ病気と闘って,死を待つだけかもしれない。 最後は,一人,孤独死を迎えるのかもしれないと思うと,寂しく,不安です。 そういった中で,このサイトに行き当たりました。 取り留めない文章になりました。 回答をいただければ幸いです。

有り難し有り難し 13
回答数回答 2

死んではいけない理由を教えてください

駄文につき失礼致します。 私は大学生です。 様々なストレスが重なりうつ病を発症しました。目下治療中です。 薬を飲み始めてからは落ち着きましたが、昔は希死念慮がよくありました。漠然と死んでしまいたいと思うことがよくありました。 投薬による治療や、様々な死生観等に関する書籍を読むうちに次のような価値観が形成されました。 死んでしまっては選択肢がなくなる。 生きているうちは選択肢が無数にある。 生きる事に行き詰まって選択肢がなくなってしまったと思ったら、死ぬことを考えよう。 これは今私が生きている理由の一つですが、この考えは一見生きることに前向きなようで死ぬことを否定していないのです。 言い換えれば、いつでも死ねると言う風にも捉えられます。 私は今のところ死ぬことは勿体無いと考え自殺を踏みとどまっていますが、自殺を否定する理由は未だに見つけられていません。 生きている限りいつかは死が訪れるものであり、やがては受け入れなくてはいけないものだと考えていますが、自ら死に近づく行為はいけない事なのでしょうか? 確かに、人が皆自殺を礼讃するようになれば人間社会は成り立たなくなってしまいます。 しかしながら生きることが権利ならば死ぬこともまた同様なのではないかとも考えてしまいます。 どなたかお力添え頂ければ幸いです。

有り難し有り難し 14
回答数回答 3

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ