生きる気力がありません
ふとした時、胸が苦しくなります。涙が出ます。私はなんのために生まれてきたのか分かりません。人が苦手です。消えてしまいたい。私は必要とされない。唯一私には旦那と犬とウサギがいます。唯一私を必要としてくれます。それ以上、人から必要とされようと望むことは、ただの欲なのでしょうか。きっとそうなのかもしれませんが、夜も眠れず無意識のうちに胸が苦しくなっています。目を瞑ると孤独を感じます。私はなんなんでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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自己肯定できますか?
初めましてこんにちは。
関本和弘と申します。
生きる気力がなくなってしまう瞬間ってありますよね。誰からも必要とされないって思ってしまうとものすごく不安になるのも無理ないことだと思います。
人は誰かから必要とされたいと思う生き物です。でも、それには個人差がありますよね。
それほど誰かから必要とされなくても気にもしない人もいます。
その反面、Mimiさんのように誰かから必要とされたいと強く思う人もいます。
その両者の一番大きな違いは、自分が自分を必要としているか、いないかだと思うのです。
自分が自分に私は私でOK!って言える人は周り全てが敵でもたぶん大丈夫です。
でも自分自身が私なんてって常に自分を批判する、けなす、おとしめるような思考パターンを持つようになってしまうと、自分の中に常に敵がいるようなものです。そこには安心も安全もなくなってしまうのではないでしょうか。
そうして考えたとき、今Mimiさんはご自分に「これでいいんだよ」と言ってあげられてるでしょうか?
もしそうでないならその原因を自分の中に探してみるのも一つです。
体の支え
拝読させていただきました。
考えすぎるとおかしくなります。考えると事実から離れていきますから。考え方、解釈は十人十色。事実に貼り付けたシール、仮のものでしかありません。
自分でシールを貼って、シールであることを忘れてそのシールに怯えたりイライラしたりしてしまう。
言語、解釈は限りなくどこまでも作り上げてしまう、「過ぎ」てしまいます。考え過ぎる、頑張り過ぎる、やり過ぎる…。
中心を間違ってしまうんですね。「私」を中心に生きてしまいますが、ほんとは中心なんてありません。あるとすれば「事実」が中心です。
「私(我)」はでしゃばりなのですぐ出すぎてあーだこーだ解釈したがります。事実に対して言葉を持ち出し解釈評価してしまう。すぐ中心になってしまう。
少し頭手放し、首から下を意識して生活してみると、それでも全然生きていけます。もちろんそれでも頭なし!というわけにいかないのですが、体の頑張り、サポートを感じます。体の働きが私を支えてくれている…。孤独、孤独と頭ばかりで探していたけど、「ここ」を忘れてた。ここに一番のがんばり屋、一番の味方がいたことに気付きます。
常に変わり続ける自分を感じる。頭はすぐ「私はこういう人間」と決めつけたがりますが、それは仮のものです。はがれるものです。
「感じる」に支えられて初めて「考える」が有効につかえる。感じることで繋がりがみえてくると思いますよ。まずは体の支えを感じる。