万人受けしない自分を認めたい。認められたいです。
「理解されない」という惨めな気持ちが、年々強くなります。
音楽をやっており、私は比較的マイナーな楽器を主に演奏します。
華やかな楽器を演奏し、いつも目立っている女性から、以前馬鹿にされたように笑われたことが、未だに傷ついて頭にこびりついています。
その人はどんどん人前に立ち、どんどんきれいに、みんなから人気を集めています。
それに比べ私はどんどん人前から遠ざかり、楽器も手にしなくなりました。
理由は自分でもハッキリとはよく分かりませんが、欝っぽくなって「どうせ私なんか」と自分を責めたり「どうせこんな人たちなんか」と周りのせいにしたり、し始めた頃からです。
なのに、昔は大学で優秀な成績だったことや、小さい頃からずっと音楽が得意で皆から褒められていたという過去の栄光に、どこかですがっています。
「私は上手なのに皆は私を理解してくれない」などと、物凄く醜く卑屈な考え方をします。
人前で演奏しないから上手かどうかなんて誰も知らないのは当然で、何も努力せず理解してもらおうなんて、甘いにもほどがある…それでこの春から気持ちを切り替え、練習を再開したりしているのですが、どうしても、華やかな人と自分を比較してしまうんです。
たぶんこのままだと、もし自分が以前のように人前で演奏するようになっても、他者と自分を比較しては惨めになる繰り返しで、一生悩まされる気がします。
みんな違ってみんないいはずと言い聞かせてみても、「でも私の周りの人は、目立つ人、万人受けする人の事しか褒めない。周りの人に認められなかったら何の意味があるのか」という思考がすぐに打ち消してしまいます。
なぜ年を経るごとに酷くなっていくのかは分かりません。
子供っぽい悩みのようで、周りの人に相談することもなかなかできず、投稿させていただきました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
先の見通しをつける
私も人に理解されないタイプです。大学で禅学を習っていた時、私は「酒と文化と芸能の仏教」のゼミに入りました。それを聞いたいかにも真面目そうな人は嫌味ったらしく言いました。「優秀な生臭坊主の誕生だな。」
でも私は気にしませんでした。優秀な仏教離れの担い手はアイツだし。
ウチのゼミは名前は突飛ですが内容は、お寺の周囲の寺町や文化まで広い範囲の『仏教』を扱い、元気だった頃の『仏教』を学びます。そこから日本史上、最大の仏教離れを引き起こした20世紀の仏教を蘇らせるヒントを探るという内容です。至って真面目です。と言いつつ、実際の第一目標は仏教漢文を辞書無しで読む訓練です。
なぜ酒が絡んでいるか?江戸の文化人が洒落で書いたお酒のお経を、ゼミの教授が図書館から発掘しました。それを楽しみながら読み、大学受験みたいなカッチリしていない、強引な漢文も読む訓練というだけのことです。
それをあの人は名前だけで「お坊さんがお酒を飲む言い訳を研究するゼミ」と思い込んだ。アホか。
坐禅の要術は思慮分別を離れること。なのに名前だけで思慮分別を振り回し、他人にまで押し付ける人は禅を根本からはき違えています。そんな人は坐禅で箔をつけただけの、ただの禿頭です。
あんな人が正統派ヅラして価値観を発信するからエセ仏教が世に蔓延する。人々が宗教をアヤシイものだと誤解する。メディアが平気で嘘をつき、クレーマーがはびこる社会になる。なんと優秀な生臭坊主か。
私がここまで言い切れるのは将来のビジョンがあるからです。正しい仏教とは何か。正しい『仏教』とはどんなものか。そこへ向けて、私はカサブタとなっている娑婆の既成概念をブチ壊す。そのためにまだまだ勉強して、菩薩の三十三化身のような多彩な引き出しを目指し続ける。それが私の信念です。
彼のことも方便の1つとして利用させてもらいます。
他人の目を気にせず、ただ自分とだけ向き合うことは、とても智慧に満ち尊い行いです。しかしその一方で、本当にこれが正しい努力なのかという問いから逃げてはいけません。最近の一流アスリートも口を揃えて言っています
http://grapee.jp/108944
今の楽器を止めるのも1つの選択肢ではありますが、続けるならご自身でそのジャンルの魅力をPRする方策であるとか、様々なルートを探してみましょう。ただ闇雲に練習するだけが努力ではありません
今の楽器との出会いはご縁です。
周囲に認められたい欲求は人なら誰でも持っています。
みんなから認められるという要因も、自分の価値を感じる事ができ、やりがいが出てきます。
確かに、音楽には目立って華やかなパート、地味で目立たないパートがありますよね。
すいさんは、華やかな楽器に対して劣等感を感じ、どうせマイナーな楽器なんて、と考え悩んでおられますが.....
でも、本当はそれぞれに個性があり、すべてのパートに魅力があると、一番思われているのは、すいさんご自身ではないでしょうか。
あなたは、華やかな楽器に転向する選択肢もあります。
ではなぜ、そうされないのでしょうか。
それは、あなたが扱う楽器に、魅力を感じているからではありませんか?
その楽器を選ばれたのは、最終的にはすいさん自身の決定です。
あなた自身、一番肌に合う楽器ではなかったのでしょうか。
これは「ご縁」というものです。
その「ご縁」のある楽器との関わりを、目立たないし劣等感を感じてしまうと思われるのも、何かご自身や楽器を傷つけられているように、私は感じてしまいます。
嫌な事もたくさん経験し、だから一旦手にしなくなった楽器を、この春から再度持ち直しているのも、心から音楽が好きだからではないでしょうか。
評価されないからといって、否定されている訳ではありません。
すいさんは、華やかな方がいいのだと、「本来存在しない優劣」をご自身で作り出しておられます。
小さな頃から努力を積み重ねておられたのですから、聴く人の中にも、素敵だと感じる方がおられる可能性は充分にあります。
特に、同じ楽器を演奏する方が観客でおられたなら、注目しているのではないでしょうか。
今、自分の出来る精一杯の事をこなして下さい。
音楽が好きであるならば、目の前の事だけに集中して続けて下さい。
認めてもらうのは仏さまだけでいいのです。
すいさん、こんにちは。
なかなか自分の音楽が相手に認めてもらえず、卑屈になっているのですね。たくさんの人から持てたいという悩みと同じで、結婚相手は一人しかできないのです。あなたの音楽を理解してもらえる人がまずは一人いればいいのです。そのことであなたは強く生きていくことができるのです。音楽は自分の思いの表現です。それが万人が認めるかどうかは関係ありません。すいさんの音楽を理解してくれる友人は一人もいないのですか?彼氏は?そんなことはないと思いますが。そのすいさんお音楽を理解できる一人のために音楽を作りましょう。そしてその人が幸せになるような音楽を作って演奏していきましょう。するとその音楽に大衆性があれば広まるものです。卑屈になることはありません。
そしてその一人もいなければ、仏さまに認めてもらいましょう。友達のいない私はそうやって生きてきました。仏さまは努力する私を心から認め喜んでくださいます。信仰をすると仏さまとのコミュニケーションがお経を通してできるようになります。一所懸命してるのに社会は認めてくれなくとも、仏さまは認めてくれます。仏さまのために奏でましょう。それだけで十分。他人の評価を気にしている暇はないのです。
是非、音楽を始めてください。仏さまの歌として奏でてください。そして私に聞かせてください。私が音楽挫折組なため、自分の歌を表現できるミュージシャン大好きです(笑)
がんばって!いつでも辛かったら電話でもメールでもご相談くださいね。合掌
すいさま
ご自分の楽器に触ったり、演奏したりすることきっと
楽しかったり、嬉しかったりすると思うんです。
今は、色々と悩んでしまって、目がそっちにいっている
かもしれませんが。
「昔は大学で優秀な成績だったことや、小さい頃からずっと
音楽が得意で皆から褒められていた」
実力は十分あるのは間違いないと思うんです。
練習というより、楽器を演奏していて
楽しくてしょうがない、面白くて面白くて・・
とご自分の音楽の世界にもう一度どっぷり浸かると
何か見えてくるのではないかと思います。
音楽とか芸術のことはよくわかりません。
練習とか厳しく、苦しいこともきっとあるのでしょうが、
基本には、根底にはやっぱり何か楽しい、嬉しいもの
幸せを感じるものがあると思うんです。
そこに一度戻られたらいいのではと思います。
質問者からのお礼
今の私は、音楽の楽しさよりも、他人の評価や、馬鹿にしてきた(と思っている)人への恨みつらみ、そればかりが気になっています。
まず今は取り組んでいる曲に集中し、楽しさを追求して、それらを続ける努力をしてみます。
お返事を読ませていただいて、その地点に立って初めてこの無意味な優劣から脱却できそうな気がしてきました。
心が軽くなりました。ありがとうございました。