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必要ですか?

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私はこの世の中に必要として産まれて来たのですか?
誰かにその答えを教えて欲しいです。
こんなに毎日が苦しくて辛い。

正直誰からも愛されてないし、必要とされていないと思います。

昔どこかのお寺で、神も仏もきちんと見てるから…みたいな言葉を頂きました。
でも、みんなにはそうであっても私には誰も見ていてくれる人はいないんです。
私がきっと悪い子だから…お願いですから誰か私に、私がどんな悪い事したか教えて下さい。自分では分からないです。

生きる事がこんなに辛いなら、生きる意味は?
その答えが見つかりません。

私、もう疲れました。1人になりたい。
でも、周りの人がいなくなるのは辛い事だから、いっそ私が消えてしまえばいいのに…。
こんな内容ばかりですいません。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

必然です

必要というのでは無く、必然だから生まれてきたのです。
例えば、ロウソクにライターの火を近づけるとします。するとロウソクに火が点き、その火はしばらくの間燃え続けます。
私たちの命も同じです。
命の火が点く様々な条件が整った時に、まさに命の火が点きます。そして、しばらくの間燃え続ける、生き続けるのです。
それが必然という事です。
ただ、私達人間にはロウソクとは違って知恵があります。生きる理由や自身の必要性を考えたり、見つけたり、作ったり、気がついたりするのです。
あなたが家族のために生きると思えば、それはあなたが生きる理由となるでしょう。
あるいは、あなたが他にやりたい事があり、その為に生きると思うなら、家族を捨て、その道に進む事であなたが生きる理由になるでしょう。
あるいは、あなたが生きる理由と思えることに、今後巡り会うことがあるのかもしれません。
私にはあなたに生きる意味を教えることはできません。
しかし、あなたが消えてしまうことは、私は寂しく悲しく思います。

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私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答していますが、無知未熟ゆえに質問を読ませていただくことしかできないことも多々ありますがお許しください。 回答は私個人の意見や解釈もあり、場合によっては浄土宗の教義とは少し異なることもあるということをご了承ください。 また、寺の紹介ページに電話相談についても紹介していますのでどなたでも気兼ねなくご利用ください。 ハスノハのお坊さんがもっと増えますように。 合掌 南無阿弥陀仏

人から必要とされるのは一時的なものと思います。
人から愛されるのも一時的なものと思います。
神も仏もきちんと見ているというのは、あなたの中の真の人間性はごまかせないという事です。
表面的に必要とされている・いない、愛されている・いないと思ったり、考えるのはオモテの側の人間の判断・知識です。人間は掘ってみるともっと深い生き物。
あなたはそれを自身に見つけると良いでしょう。
お釈迦様も歴代祖師もみんなそうした。
別にあなたが悪いことをしたといったって、だからと言って救われないわけではありません。
人間が心底救われるためには自分の中でそういう考えに陥ってしまう、間違った思考・思惟を正せばよいだけです。モノを考える時あなたはつい自分を悪く言ったり、責めてしまうのでしょう。それが邪魔をしているだけです。
私はそれを「ドラマチック思考」と名づけています。
ストーリーを持たせたり、自分の悲劇のヒロインになっちゃったり、主観、感情が強くなってしまう思考です。
たとえば、この状態で坐禅や念仏をしても「ああ、私は何故こんな足の痛いことをわざわざしなければならないのだろうか、意味があるのだろうか。」「何回念仏を唱えただろうか。こんなことをしていて本当に意味があるのだろうか。」と言った思考が始まり、NEXTストーリーが継続していくのです。
私も死にたいと思う程、凹んだり落ち込んだことはあります。
本当の一人になるという事がかえって効果的であったりします。
本当の一人はあなたを見てくる人や責める人もいなくなります。
評価する人も、観察する人もいなくなります。
私は今窓の外の木をみていますが、気が付いたら木がそこにあるだけで、心の中で立ち上がる自分がいないのです。心がスワっていると、ものをみるにも、騒がないのです。
心がスワるをテーマに坐禅をしていくと、座禅をしていなくても24時間心が坐っているので、何をするにも無問題になります。
ネガティブな考えが生じた時も心がスワっているので心が動じないのです。
参禅に興味があったらフェイスブック経由でページをご覧ください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

本当はどっち?

本当に一人になりたいのなら、ここには来ないと思うのです。

だってここに来るということは…ねぇ? 誰かとの繋がりを一時的にでも欲しいからでしょう?

まわりがどうであろうと、あなた自身は自然と、ここで「他」を求めてる。

あとね、気付かないだけであなたのことを必要としているひとは、必ずいます。

生きているって、そういうこと。

もし本当は寂しくてどうしようもなくて、「誰かに愛されたい」と本気で願うならば、

先ずは自分を愛し、そして同時に自分以外の誰かを愛してみましょう。

そうすると、不思議なことが起こりますよ。

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有り難し
おきもち

現代は実に「背負い込んでる」人が多いと思う。 別に自分が背負い込まなくても良いようなものまでも、率先して背負い込んでる。 で、結局悩んでる。自らの意志で背負い込んだのにね。 そこのあなた、身に覚えありでしょう? ほら、そうやって決めつけちゃうの、やめませんか? 立ち止まるのが早すぎやしませんか? 40代半ば愚僧の超個人的なボヤキだと思ってくだされば幸いです。 私の回答が誰かの人生の潤滑油になればうれしいな。 常にいろいろ勉強中!死ぬまで修行中!ここhasunohaも道場のひとつです! お付き合いのほど、よろしくお願いいたしますm(__)m

質問者からのお礼

回答して下さりありがとうございました。
必要ではなく必然…深く考えさせられました。
私の生きる意味は、私が決めることなんですね。

1人になりたいのではなく、誰かに気付いて欲しいだけなのかも知れませんね。
今はまだ、自分の事が大嫌いです。
少しでも、こんな自分を愛せる様になったら、何か見えてくるんですかね…そうなったらいいな。

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