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他人とのコミュニケーションが上手く取れない

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有り難し有り難し 33

私は小さい頃から人見知りで大人になった今でもそれを引きずっているのか、自分から他人に話しかけるということやコミュニケーションがすごく苦手です。営業のような仕事をしているので困ってます。
挨拶をするのも抵抗感がありますが、なんとか出来ます。そんな自分がなぜこんな仕事をと思われるかもしれませんが、こういう自分を変えたい思いがあり、あえて就きました。
もっとお客さんと話をしろと注意されることもあり、どうしたものかと悩んでおります。
目の前を通りかかるお客さんに挨拶をし、いつもそこで終わってしまいます。そこから呼び止めたり、話しかけて営業をかけたりとしなきゃいけないのだと思うのですが、自分のなかで引っかかりというか抵抗感があります。どうしたらいいかわからないというのも大きいのだと思います。
まとまりのない文章で申し訳ないですが、よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

営業スマイルなき営業こそ、真の営業。

人生は一生自己の営業です。ここでいう営業とは、いとなみ、なりわい。
あなたがあなたをやるよりほかはないという事。
あなたがあなた自身の自己活動をいつでもしているという事。
デパートに行くととても愛想の良い女性がインフォメーションでちょっと作りっぽい声でにこやかな作りっぽいトークで対応してくださいます。
ところが、中には素のままの人もいるのです。
仕事を忘れて普通に話をされる方もおられます。
私はそういう人の方がむしろ好感が持てます。
あなたが苦手なのは「営業トーク」「営業スマイル」というUSOくさいことじゃないですか?
それは普通の人であれば、誰でも苦手ですよ。
完全になりきってキャラづくりでもすればできることですが、無理にする必要はないと思います。
坊さん業界でも法話の時はそれっぽい方がそれっぽいですが、あくびが出ます。
そこに血が通ってなくて作りっぽいからです。
勿論、そういう「それっぽさ」が好きな方もおられるでしょう。
ですが、お釈迦様は作りっぽい新興宗教の勧誘トークや営業トーク、営業スマイル、作りっぽい法話なんてしませんでした。
あなたの中で「それっぽくしなければ」と思い込んでおられる営業マンっぽさ、業務っぽさを思い切ってアダマスの鎌で刈り取って、新しい畑を耕してみてください。
素の自分でお客様なり人とお話してみるのです。
素の自分であることは無駄な力が要りません。
自分を本当に変えたいのであれば、ご採用頂ければありがたいです。
自分の中の「営業らしさ」を「クロノス・チェーンジ☆」してみましょう。
キン肉マンのペンタゴンみたいに羽が生えて出世できるかもしれません。 

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

習う、ゆだねる、慣れる

営業職ですか!あえて苦手な分野に飛び込んでいかれたわけですね!その心意気に敬意を表します。そして応援しております。

さて、「習うより慣れよ」なんて言葉もあり、とにかくがむしゃらにチャレンジするのもいいのでしょうが、私としては「習う」ことはとても大切だと思います。

上手な人を見習ったり、テクニックを盗んだりするわけですね。
一番身近なところではやはり上司や同僚でしょう。上手な人の会話をよく見聞きして習いましょう。
あるいはオシャベリのプロといえば夜の世界のおねえ様たちです。飲み屋のおねえさん方はおしゃべりのプロです。はじめてあったお客さんでも楽しい会話で盛り上げないといけないわけですからね。上司に「勉強したいんです!」なんて言って連れていってもらうのも一つの手ではないでしょうか。

なんて偉そうに言っている私ですが、実はそういう私もそんなに得意ではないんですよ、おしゃべりが。
お坊さんですからね、色んな方のお宅にお邪魔して会話をするわけですがなかなか上手におしゃべりを続けられませんね。そういう時は少し黙って相手が気を遣って話を振ってくれるなんてこともあります(笑
苦手な事を認めて苦手なりにやる方法もあるのです。

「私会話が苦手なんですよ。それなのに営業職やってるんですよ、おかしいですよね~笑」

なんて自虐的にさらけ出していってもいいのですよ。思ったより皆さん許してくださいます。会話は相手とするものです。相手をよく見る、時には相手にゆだねる、とにかく相手に興味関心と敬意を持つことですね。

お互いに精進しましょう。習ったうえでどんどんチャレンジして慣れていきましょう。

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個別相談可能
はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
基本的には平日13時~15時のみ対応可能です。お寺の行事、急な法務で対応できない場合もあります。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
素の自分を出すというのもなかなか難しいところではありますが、肩の力を抜いてもっとまわりの話し方などを見て聞いて真似するところから初めていきたいと思います。

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