煩悩の消し方について
最近ことあるごとに怒りや傲慢さ、プライドの高さを感じうんざりしております
こういうことがあるとまず頭の中に親だったり知人だったり他人の顔をした人間が私のとこにきて「あーしろこーしろ」「こうしなさいよー」
「こんなことをするなんてなんてひどい奴だ」
とかなんとか言ってきます
そこで僕は「お前の悩みはお前のとこに帰れ。俺にふるな」と一喝したり蹴り飛ばしたりしております。
こういう煩悩と付き合いかたは間違っていますか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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いつ煩悩になるの?
煩悩って元々煩悩じゃないんです。
良い子だったのが親があれこれ押し付けたりいじり過ぎて暴走族になっちゃったようなもんです。
ほっといてあげれば、草木だって場所が良ければ素直に育つ。
あなたがものを見て、聞いて。
素直にそこで終われば煩悩はない。
起こってきたものにエフェクト欠けたりカスタムするから別モンになる。
それが煩悩化したもの。
もともと純粋無垢のまっさらな思い。
人が手を加えすぎると名画も台無しになる。
煩悩を対治するには・・
ben hym様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
煩悩を消す、無くすためには、その親分である無明(根本的な無知、愚かさ)を対治する必要がございます。
その無明というのは、簡単には、モノ・コトへの実体視執着というものとなります。
実体視執着というのは、顕現しているもの(認識主体の自分も含めて)に対して、あたかも、それがそれたらしめているものが、そのものの側において、独立自存なる実体としてあるかの如くに現れていることを、そのまま承認してしまっているということになります。
なんのこっちゃ、となりますでしょうから、また仏教をこれから本格的に学ばれる中で、是非、考えていってほしいと存じますが、まあ、全てのモノ・コトは、それぞれ必ず他に依存して成り立っており、その依存している最たるものが、因縁(原因と条件)というものとなります。
全ては、必ず因縁に依って成り立っているというものとなります。
つまり、煩悩もまた、その親玉の無明も、必ず因縁に依って成り立っているということであります。まだまだ煩悩が出て、迷い苦しんでいるのであれば、それは、その因縁が全然治まっていないということであります。
ですから、その因縁を断ち切ってやり、悟り・涅槃へと向かうための因縁、つまり、仏道を実践していくことによって、煩悩・無明を対治して参りたいものとなるのであります。
是非、これを機縁に仏教をより学び修していって頂けましたら有り難くに存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
そういうもんなんですか、どうも