死への羨望が捨てられません。
ずっと私が考えている事です。
死後人間はどうなるのでしょうか。
私は特に今は鬱とかでもなく、生活に困っている訳でもなく、幸せだと思います。
ですが死に対する強烈な羨望を持ちながら生きています。
理由はよく分かりませんが、人ならざる幽霊のような存在になってこの世に留まっていたい
という思いでいっぱいです。
もっと簡略して言うと、肉体を持つということにものすごく縛られている感覚で、
肉体を捨てて自由にこの世に留まっていたいという思いです。
人から認識されないけど自己はあるという状態を寂しいとよく表現されますが、
むしろ個人的には憧れの対象になっています。
生死に対してそこまで拘りがないので、幽体離脱でもかなり羨ましく思います。
ですがなかなかそんな経験は出来ないので結局行き着く所に自殺もしくは生命を全うしての死とあります。
よく自殺は悪いことと言われていますが、苦しい事から逃げ出すという訳ではなく、
死後の世界を想って自殺するのはやはり悪い事なのでしょうか。
そもそも死ぬのは怖いことなのでしょうか。私には輝かしい未来の様に思えます。
私の目的は死にあるので現在生を受けている状態での出来事(楽しみ、苦しみ、憎しみ、愛情、等の感情)
というものが、かなり薄く感じます。
こんな変なこと考えているから無気力でつまらない人間と言われるのでしょうか。
死を想ってこの世に生きるのはやはり罰当たりでしょうか。
拙い文章で大変申し訳ございません。
皆様のそれぞれの意見を聞けたらなと思い投稿しました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
わからないものはわからない
死後はどうなるかわかりません。
わからないものに「きっとこうだろう!」「こうあってほしい!」と一方的に期待を投げかけて、それをもって死を羨望しても、
じゃあ期待と違ったらどうするの?
ということになります。死後の問題は結局今の問題なんですよねえ。今の問題の解決は今にやはり課題があるんだと思います。問題の本質は「今」にあるのではないでしょうか?
本当に幸せですか?
一般的幸せというレベルとか言う話ではありません。あなた自身があなたの今をどう感じていますか?という問題です。
さて、私の話をすると「そもそも死ぬのは怖いことなのでしょうか」と問われると「怖いです」と答えます。
それは「死後が怖い」のではなく、「死ぬ事が怖い」です。まあ肉体的な痛みとか恐怖心とか苦しみとか、あとは愛別離苦とかそんなヤツです。
死後についてはなんだっていいと思ってます。仏教の教え、あるいは浄土真宗の教えによってそのように至りました。そこに「こうじゃなきゃ嫌だ!」という固執はありません。
なお、「死後の世界を想って自殺する」ということは昔の高僧でもあったようです。ですからそれを悪い事だとは思いません。
そもそも仏教では善悪の分別を超えます。そして煩悩まみれの私には何が善で何が悪かなどわかりません。
またわかったとしても善だからする、悪だからしないとはできないのが人間です。「わかる」ことと「できる」ことは別なのです。
ですから死ぬ事が善だと仮に自分なりに答えを出したとしても、自分の力だけでは死ねないわけです。ご縁が整わないとそうならない。死にたくてもしねない。あるいは死にたくないのに死ななければならない…これがなんとも辛いものです。
ええと脱線したかもしれませんが最後にまとめると、死後を美化するのは片思いの恋愛で妄想を膨らませるのと一緒で、ある時現実に幻滅してしまうのではないでしょうか。妄想は妄想、事実は事実。
死後の問題は今の問題。死後を問わなければならないあなたの今の問題を是非ともまたお聞かせください。
死にきる
仏教では、生きながらに死にきるということがあります。あなたが考えているようなこととは大きく違いますが、自分(自我)が死にきることで、ひとは自由になれます。こだわりがなくなり、軽やかに生きることができます。つまりは悟りです。
死後の世界は人間の考えた世界。ないとも言えない代わりにあるとも言えない。つまり死んで戻ってきたひとはいないということです。想像の世界です。
想像は間違えなく想像でしかなく、リアルからは遠いものです。
しかし、そのリアル事実に生きることで人はねばならない思考や◯◯べき思考から解放され、素直で素敵な人になれます。
生命の死ではなく、こだわりを死に切らせる修行にシフトし、生きながらにしにきる道を模索してみたらどうですか。お寺に実際に行き仏道を学ぶのです。
思考優先の生き方からリアル優先の生き方にシフトしてみましょう^ ^
より善い死後へ向けて
こよみ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
なるほど、死への羨望ですか・・
もちろん、いずれは死ぬことになりますので、早い内から死について準備、覚悟しておくことに越したことはありません。そして、できるだけ善い死を迎えたいものとなります。
しかし、全てのモノ・コトの結果というものには、必ずそれぞれ因縁(原因と条件)がありますように、善い死を迎えるためにも、善い因縁(原因と条件)が必要となります。
その善い因縁を着実に調えるための教えが、まさに仏教となります。
できれば、生きてある内に、しっかりと仏教をできる限りに修した上にて死を迎えたいものでございます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
生きている内は死という終着点がありますが、死後は次がないと言うか輪廻転生といいますか…
もし、死後の世界がイメージしているものと違えばそれはそれで納得せざるを得ない=諦めに繋げることができます。
なのできっと幻滅はしないと思います。
私がこの考えに取り憑かれる今の原因は、もしかしたら生きる目的意識が薄いのかも知れません。
目先のことを考えるだけではなく、今の時間を大事に出来るような人間になれるよう頑張らなくてはいけないですね。
いつか本当の自由を手に入れる為に辛抱します。
ご返答ありがとうございました。