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自分の負の気持ちとの向き合い方

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有り難し有り難し 34

夫は、とても良い人です。いつも気負うとこなく、一歳半すぎた息子もそんな夫が大好きで、いつも夫をおっかけて、少しでも見えなくなると泣いてます。
私は、細かいことに、すぐイライラしまいます。それを、つい表にだしてしまいます。
夫や、息子をみていると、私はだめな人間のように思えて、さらにイライラしてきます。

ものは考えよう、良いように考えようと、頭では色々考えてみるのですが、
一度でた嫌な気持ちや、イライラからなかなか抜け出せません。
思えは、今に始まったことではなく、ただ逃げることができただけ、子育てが始まって、それが顕著に出たように思います。

たったいまも、表に出さないように、歯をくいしばってみましたが、この自分の気持ちが苦しくてたまらない。この気持ちが続くと、夫や、息子にそれを向けてしまうのです。どうしたらよいのでしょうか…


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

怒りをおさめるよりも良い方法

まず、ものをみる時、聞くときに、そこに自分のルールを強いないことです。
ものをみるにも聞くにも、子供が何か粗相をするにしても、ご主人が手伝ってくれなくても、
「ただ、そのとおりにみる」ということがあなたにとって一番の修行となるでしょう。
「ただ、その通りにみる」ということは、自分のカラーやルールをもたないこと。
わたくししないこと。

私は先日妻が湯呑を7つほどがちゃんと割ってしまったのですが、
「妻が割った」ではなく
「茶碗が割れた」という事実ビジョンなのです。
思考ビジョンや私ビジョンだと
「ああ、もったいない」「なにをやってるの」ということが起こるのです。
あなたの目玉や耳は子供がどんな粗相をしても決して、目玉や耳は怒ることは無いはずです。
眼や耳は声を出せませんし。(笑)

「この世界に起こる出来事のすべては、私共の願いや求めとはまるで無縁にオフィシャルな活動をしている。」これを分かるまでここ一週間、毎日10回位唱えてください。
この世界のすべては、全部自分の理想とは別のカタチなのです。
それは人間も同じなのです。
子供は子供が主人公。
ご主人はご主人が主人公。
あなたのお城の住人ではなく、それぞれが皆別々の存在です。

小さなわたくしルールが女子力を低下させる、ということがあります。
女性は笑顔であると、家庭は明るくなります。
私のルールはこの世に通じない、ということをまず、改めてよーく、思惟してみてください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

親の弱さはダメじゃない。だから我が子もダメじゃない

優等生になんてなるモンじゃありません。私も3歳半と1歳半の育児をしておりますが、お坊さんだってイライラします。

この前の父の日に3世代でお食事に行きました。駐車場で子供たちを車から降ろし、荷物を出していたら下の子がフラ〜っと離れて行きました。私は安全が確認できていたので焦らず荷物を優先していたのですが、焦ったのはお兄ちゃん。

「あ〜!ダメェー!!」と叫んで妹ちゃんの前に回り込み、しがみついて止めました。偉い!と言いたい所ですが、それで止まらないのが3歳児。そのまま妹ちゃんを引っ張り倒し、連れて帰ろうとアスファルトで引きずり出します!妹ちゃんは大泣き!これは痛い…

瞬間、私は声を張り上げて止めさせます。「コラぁ!何をしとるかあぁぁぁ!!!」

駆け寄って見てみると妹ちゃんの膝はまだ血が出るほどではありませんでした。このくらいで済んで良かった。間に合ったかとホッとすると、今度は服に意識がいきます。バーバに買ってもらって、今日お披露目しようと着せていたワンピが真っ黒…私の胸にドス黒いモノがモヤモヤモヤ…また大声を張り上げてしまいます。

納得のいかない顔をするお兄ちゃんを見てハッとします。(あぁまたやってしまった。良かれと思ってやったんだもんな。冷静に伝わるように教えてやらんとダメだよな。)そして私はお兄ちゃんに言い過ぎたと謝り、改めて褒めつつ諭しました。

お坊さんだってそんなモンです。育児は常にイライラです。でもそれを否定せんのです。悟りを開いたお釈迦さまだってイライラしたのですから。最初期の経典のお釈迦さまは悟った後もしょっちゅう悪魔と出会っています。悪魔と出会い、そのつど智慧の詩を詠んで追い払うのが定番です。悪魔は煩悩の象徴。つまりお釈迦さまも心が揺らぎ、そのつど自分に言い聞かせて自分を調えたわけです。
そりゃそうです。お釈迦さまだって人間だもの。人間はイライラするように進化しとるんです。

だからね、イライラする自分を反省しても、否定はせんのです。親でさえイライラするのだから、子がイライラしても当たり前でしょう?親が自分の弱さを受け入れてこそ、親は我が子の幼さを当然受け入れるしか無くなるんじゃないかなって思うんです。
イライラすれば良いんです。常に優等生な親であるのではなく、育児を通じて親も学ぶんです。そうして自分と向き合う背中を子供に見せてやりましょう。

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有り難し
おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

質問者からのお礼

大慈さま
ありがとうございます。
お坊さんも、そして、お釈迦さまであっても、そうだったんですね。

自分のなかで、こうあるべき母親像があって、そればかりを見てるのかもしれません

だからか、人に言えなくて、
でも自分のなかのもやもやを人にだしたくて…
今回…読んでいただき、それに答えてくれる、
涙がでるほど、ありがたかったです

自分に向きあってみたいと思います、行きつ、戻りつであってもー

丹下覚元さま
ありがとうございます。
おっしゃってること、そのとおりだと思います。
例えば、小さい子どもだって一人の人間、頭の中では思うのですが、なかなか自分ルールから抜け出せない…

そうですね、私の修行。
ほんとは、そんなこと言ったって…
と思わなくもない(ごめんなさい)
でも、それではなんにも変わりませんね…
今から唱えて、明日を迎えてみたいと思います

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ