裁判官みたいな思考をやめたい
私は四六時中365日常に、物事に良し悪しの評価をして生きています。
精神的に疲労するのでこれをやめて、おおらかに生きたいのですが、気を抜くとついやってしまいます。
なにか、これをやめるためのお話とかはないでしょうか?たとえば二の矢を受けずのような
お願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
もっと自分を自覚すればよい
大変良い傾向であると思います。
自分が苦しむかの原因がハッキリしつつあるからです。
心の中に、物事の善し悪しをつける裁判官、判定人、コメンテーターがいるのですね。
あなたの心のスタジオにそ奴らを出演させなければ良いのです。
その人たちを心の中にとどまらせることによって、どのような弊害が生まれるか。
・物事を悪しざまに言う。
・悪い所しか見ないようになる。
・その結果、心の中で悪く思ったことのしっぺ返しである、悪いガスが生まれる。
・そのガスで、ネガティブな思いや、自己嫌悪、苦しむことになる。
いいことは一つもありません。
よって、無評価、ノーコメント、無判断なマインドが必要なのです。
それが坐禅マインドです。
坐禅は、無になるとか、精神修養ではなく、物事や出来事に向かっていながら、そこに自らの思いを付け加えないで居られる心です。
思いのペンキを塗らない。
そこにそれがあるままで、そのままで居られるようになりましょう。
いつもの習慣は自分が一番知っているはずです。
それが出てきた時、プレーキをかけるだけで良いのです。
自分のクセをもっと知れば知る程、その愚かさに気づきます。
もう少し向き合って自分にどんな癖があるかを、お礼欄に書き込んでください。
それが、自分のクセにちゃんと向き合うことの一助になります。
知るだけでは致し方ないと思いますが…
全ての物事にシロクロつけないと気が済まない、という感じでしょうか。まさに「二の矢を受けず」、最適なお話だと思いますよ。
「これはオッケー?これはNG?」と考え始めるのは、恐らく習慣というか反射的に起きていることでしょう?それを「起きないようにする」のは至難の業。起きたときに、それと気づき「”ま、いっか”という手もあるんじゃないか?」という選択肢を自分で出せれば、もう二の矢は受けない訳です。
ですので、考え事をする場所とか、そのとき開くノートとかパソコンの壁紙とかに、「ま、いっか」と書いておいては如何でしょうか?「いつもの考え」に嵌ったときは、視野が狭くなります。その狭くなった視野でも見られる所に、「二の矢の盾」=”ま、いっか”を置いておくのです。
これは実践練習ですので、やらないと変化はしません。知っただけでは役に立ちません。
いかがでしょうか。
良くても悪くても、念仏すれば往生できます
評価の対象が何であれ、その評価がどうであれ、
南無阿弥陀仏と念仏すれば、臨終の次の瞬間にはご極楽浄土に往生できるので、人生はハッピーエンドなのです。
○○でも●●でも、念仏すれば往生できます。
善人は善人ながら、悪人は悪人ながら、生まれながらのままに念仏すればよい。
「煩悩よ のくのが嫌ならそこにおれ そちにかまわず 南無阿弥陀仏」
評価したくなるのは、自分のほうが素晴らしいと思いたいプライドの煩悩や、
損をするのは嫌だという怒りの煩悩があるからです。
煩悩は、悩み苦しみの原因だからないほうが良いのですが、他人の煩悩が見えて断罪したくなる場合もあります。
しかし、阿弥陀仏の慈悲は善人にも悪人にも平等。
阿弥陀仏の慈悲に共感して、南無阿弥陀仏と念仏してみるのもよいかも。