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裁判官みたいな思考をやめたい

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有り難し有り難し 18

私は四六時中365日常に、物事に良し悪しの評価をして生きています。

精神的に疲労するのでこれをやめて、おおらかに生きたいのですが、気を抜くとついやってしまいます。

なにか、これをやめるためのお話とかはないでしょうか?たとえば二の矢を受けずのような

お願いします。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

もっと自分を自覚すればよい

大変良い傾向であると思います。
自分が苦しむかの原因がハッキリしつつあるからです。
心の中に、物事の善し悪しをつける裁判官、判定人、コメンテーターがいるのですね。
あなたの心のスタジオにそ奴らを出演させなければ良いのです。
その人たちを心の中にとどまらせることによって、どのような弊害が生まれるか。
・物事を悪しざまに言う。
・悪い所しか見ないようになる。
・その結果、心の中で悪く思ったことのしっぺ返しである、悪いガスが生まれる。
・そのガスで、ネガティブな思いや、自己嫌悪、苦しむことになる。
いいことは一つもありません。
よって、無評価、ノーコメント、無判断なマインドが必要なのです。
それが坐禅マインドです。
坐禅は、無になるとか、精神修養ではなく、物事や出来事に向かっていながら、そこに自らの思いを付け加えないで居られる心です。
思いのペンキを塗らない。
そこにそれがあるままで、そのままで居られるようになりましょう。
いつもの習慣は自分が一番知っているはずです。
それが出てきた時、プレーキをかけるだけで良いのです。
自分のクセをもっと知れば知る程、その愚かさに気づきます。
もう少し向き合って自分にどんな癖があるかを、お礼欄に書き込んでください。
それが、自分のクセにちゃんと向き合うことの一助になります。

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有り難し
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知るだけでは致し方ないと思いますが…

 全ての物事にシロクロつけないと気が済まない、という感じでしょうか。まさに「二の矢を受けず」、最適なお話だと思いますよ。
 「これはオッケー?これはNG?」と考え始めるのは、恐らく習慣というか反射的に起きていることでしょう?それを「起きないようにする」のは至難の業。起きたときに、それと気づき「”ま、いっか”という手もあるんじゃないか?」という選択肢を自分で出せれば、もう二の矢は受けない訳です。
 ですので、考え事をする場所とか、そのとき開くノートとかパソコンの壁紙とかに、「ま、いっか」と書いておいては如何でしょうか?「いつもの考え」に嵌ったときは、視野が狭くなります。その狭くなった視野でも見られる所に、「二の矢の盾」=”ま、いっか”を置いておくのです。
 これは実践練習ですので、やらないと変化はしません。知っただけでは役に立ちません。
 いかがでしょうか。

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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊...
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良くても悪くても、念仏すれば往生できます

評価の対象が何であれ、その評価がどうであれ、
南無阿弥陀仏と念仏すれば、臨終の次の瞬間にはご極楽浄土に往生できるので、人生はハッピーエンドなのです。
○○でも●●でも、念仏すれば往生できます。
善人は善人ながら、悪人は悪人ながら、生まれながらのままに念仏すればよい。
「煩悩よ のくのが嫌ならそこにおれ そちにかまわず 南無阿弥陀仏」

評価したくなるのは、自分のほうが素晴らしいと思いたいプライドの煩悩や、
損をするのは嫌だという怒りの煩悩があるからです。
煩悩は、悩み苦しみの原因だからないほうが良いのですが、他人の煩悩が見えて断罪したくなる場合もあります。
しかし、阿弥陀仏の慈悲は善人にも悪人にも平等。
阿弥陀仏の慈悲に共感して、南無阿弥陀仏と念仏してみるのもよいかも。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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外典(仏教ではない典籍)ですが

荘子の「無用の用」はいかがでしょうか
http://homepage1.nifty.com/kjf/China-koji/P-323.htm

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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「心穏やかに・優しく過ごしたい」問答一覧

悪気のない人がひたすら恐ろしい

以前、自分の落ち度でとある人にお叱りを受けたとき、いわゆる放送禁止用語(あとで調べたので確かだと思います)を使って厳しく言われたことがあります。 その言葉は、精神疾患を持っている人を揶揄するのにも使われ、実際に精神疾患を持つわたしは傷つきました。 信頼できる専門職の方にそのことを相談したところ、「もともとがあなたの落ち度といっても、傷ついた自分を認めて受け入れるのは当然のことだ」と言っていただきました。 その言葉をいただいて、70%ほどは自分の中で整理がつきましたが、どうしても本能的な恐怖心までは消えません。 お叱りを受けたとき、精神科や心療内科に通っているか聞かれましたし、「精神疾患は遺伝する」とも言われました。 怖いと思ってしまうのが、叱ってきた人が悪意ではなく「助けてあげる」という善意でこれらを発言されたことです。それなりの地位も名誉もある人で、もしその人とわたしで対立したとしたら、周囲はその人のおっしゃることを正しいとみなすでしょう。 でも、精神疾患と付き合うひとりの当事者として、どうしてもその人の発言は許せません。まったくの善意で発言されたことも恐ろしい以外の言葉が見つかりません。その人がこの世からいなくなればいいのにと願ってしまうほど、恐怖と怒りにさいなまれています。 どうすればこの恐怖と怒りに折り合いをつけ、心穏やかに日々を過ごせますか。また、どのように心をもてば、社会的に影響力のある人がこのような発言をしても、必要以上に恐怖にかられず生きていけるでしょうか。

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人と自分に優しくするにはどうすればいい

いつもお世話になっております。毎晩頭の中で堂々巡りになってしまっているため、ご相談させていただきました。 最近よく自分の心を虐めた影響か、果たして自分が他人に優しくできているのかわからなくなりました。 私は不注意や気遣いができないことなど、人が成長する上で当たり前に身につける対人スキルが欠けている感覚があります。今までそんな自分を卑下ばかりしてきました。 しかし恋人ができ、何だか周りの人達を大切にしたい気持ちが生まれてきました。けれど心を大切にするという事を、1番身近な自分の心にしてやらなかったからか、何がその人の心を慈しむ方法なのか分からなくなってしまいました。 愛してるからと近づきすぎてもそれは鬱陶しいと思われてしまうし、逆に相手自身の思うままに生きて欲しいと願うと、突き放した冷たい印象を持たれてしまいます。 もちろん人間の心なんてどれだけかかっても読めないし、わかっても変えようとは思いません。 ただ何度も知らぬ間に自分を傷つけ人を傷つけてきた今では、いつ自分が相手の心を粗末にしてしまうのかわからず恐怖しています。もう生きていくことすら投げ出したい気持ちです。 こんな私をどうか客観視して、ご意見をいただければ幸いです。 ご返答よろしくお願い致します。

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今後の心の持ち方を教えてください

これまで何かあると祖父に相談にのってもらっていましたが、今は出来ず、おじいちゃんならなんて言うかな、と想像はしても答えは出ず…誰にも相談できなくてこちらで話を聞いてもらいたいです。 会社の付き合いで飲み会に参加した夫が先月、今月と(その前にも1度)朝帰り。朝、子どもと食事してたり、出かける朝の準備をしていると帰ってくるのです。 会社での付き合いとはいえ、終電に乗れず、泊まって帰ってくるって普通の事なのでしょうか? 普段は仕事が終われば、帰ってきますが… 数回のことは目を瞑るべきですか? 私は、朝帰りは子どもにも見せるべき姿ではないと思っています。 その事を伝えると、分かったとは言いますが、結局自分がなんでこんな言われないといけないんだ、とものを投げたりします。 物を投げたりするのはやめてと、冷静に伝えました。 接待や、付き合いで行きたくなくても仕方ないのに、こんなふうに言われて…という感じで、逆ギレのような感じです。 ちなみに飲み会がダメとは言ってません。 私の伝え方が悪いのでしょうか。 こういう答えが返ってくるだろうことは、想像してましたし、想定内でした。 どうすればいいのでしょうか。 心の持ち方や、どうすればよかったか、などお声をいただけると助かります。 正直私も働いていて、疲れています。

有り難し有り難し 2
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人は優しくなくなったのでしょうか。

最近の状況とか、ニュースだけではなくて、 人は優しくなくなってしまったのでしょうか。 学校では、 わからないことを聞いているのに「そんなこともわからないなら特別支援学級に行きな」と言う先生がいると、 学校に行きたくないと感じて登校を渋っていると「わざわざ迎えに来てあげたのに、行かないってどういうこと」という養護教諭がいると、 勉強が苦手で、それでも一生懸命調べて宿題を提出したのに「答え教えてもらってんでしょう」という担任がいると言い、 子ども達は学校どころか大人を信じてくれなくなっています。 生活支援を受けながら病院に行って、病気ではないかと不安に感じている患者に「気のせいだからなんともないけど、そんなに薬飲んでどうすんの?タダだから?」という医者。 うつ病を患い不安で一人でいられない人に「甘えてんでしょう。なんでも一人でやっていかないと」という精神科医。 勇気を振り絞って助けてほしいと相談の扉を叩いてくる人に、「そのくらい自分で何とかできないもんなの?」という相談員。 それなら誰にも頼ってはいけないんですか。と、泣いている人がいます。 他人の少しのミスや問題を晒しあげて騒ぐのは、みんな。 相手のうれしい事を共に喜べず、妬んで陰口を言うのは、みんな。 寛容になれないのは何のせいですか。 そんな私も、それらが目に付いているという事は、優しくないのでしょうか。 優しさとは、何でしょう。 「相手の立場を鑑みて、許すこと・労わる事」と感じています。 それも、みんなは考えないのでしょうか。 いちいち考える私は、何でしょうか。 時には厳しい言葉も必要な時もあるのはわかります。 しかしながら、開口一番、関係性も希薄なうちに、そんな言葉を投げかけて、 傷つかないんだろうか。とか思わないんでしょうか。 それとも、そんなに偉いんですか。 先生と呼ばれる者は、相談員・支援員は、そんなに偉いんですか。 他人を否定していいほど。 そうはなりたくないという戒めも込めて、 人は優しくなくなったのでしょうか。 どうか、お言葉をお願いします。

有り難し有り難し 24
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ