hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

裁判官みたいな思考をやめたい

回答数回答 4
有り難し有り難し 18

私は四六時中365日常に、物事に良し悪しの評価をして生きています。

精神的に疲労するのでこれをやめて、おおらかに生きたいのですが、気を抜くとついやってしまいます。

なにか、これをやめるためのお話とかはないでしょうか?たとえば二の矢を受けずのような

お願いします。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

もっと自分を自覚すればよい

大変良い傾向であると思います。
自分が苦しむかの原因がハッキリしつつあるからです。
心の中に、物事の善し悪しをつける裁判官、判定人、コメンテーターがいるのですね。
あなたの心のスタジオにそ奴らを出演させなければ良いのです。
その人たちを心の中にとどまらせることによって、どのような弊害が生まれるか。
・物事を悪しざまに言う。
・悪い所しか見ないようになる。
・その結果、心の中で悪く思ったことのしっぺ返しである、悪いガスが生まれる。
・そのガスで、ネガティブな思いや、自己嫌悪、苦しむことになる。
いいことは一つもありません。
よって、無評価、ノーコメント、無判断なマインドが必要なのです。
それが坐禅マインドです。
坐禅は、無になるとか、精神修養ではなく、物事や出来事に向かっていながら、そこに自らの思いを付け加えないで居られる心です。
思いのペンキを塗らない。
そこにそれがあるままで、そのままで居られるようになりましょう。
いつもの習慣は自分が一番知っているはずです。
それが出てきた時、プレーキをかけるだけで良いのです。
自分のクセをもっと知れば知る程、その愚かさに気づきます。
もう少し向き合って自分にどんな癖があるかを、お礼欄に書き込んでください。
それが、自分のクセにちゃんと向き合うことの一助になります。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

知るだけでは致し方ないと思いますが…

 全ての物事にシロクロつけないと気が済まない、という感じでしょうか。まさに「二の矢を受けず」、最適なお話だと思いますよ。
 「これはオッケー?これはNG?」と考え始めるのは、恐らく習慣というか反射的に起きていることでしょう?それを「起きないようにする」のは至難の業。起きたときに、それと気づき「”ま、いっか”という手もあるんじゃないか?」という選択肢を自分で出せれば、もう二の矢は受けない訳です。
 ですので、考え事をする場所とか、そのとき開くノートとかパソコンの壁紙とかに、「ま、いっか」と書いておいては如何でしょうか?「いつもの考え」に嵌ったときは、視野が狭くなります。その狭くなった視野でも見られる所に、「二の矢の盾」=”ま、いっか”を置いておくのです。
 これは実践練習ですので、やらないと変化はしません。知っただけでは役に立ちません。
 いかがでしょうか。

{{count}}
有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

良くても悪くても、念仏すれば往生できます

評価の対象が何であれ、その評価がどうであれ、
南無阿弥陀仏と念仏すれば、臨終の次の瞬間にはご極楽浄土に往生できるので、人生はハッピーエンドなのです。
○○でも●●でも、念仏すれば往生できます。
善人は善人ながら、悪人は悪人ながら、生まれながらのままに念仏すればよい。
「煩悩よ のくのが嫌ならそこにおれ そちにかまわず 南無阿弥陀仏」

評価したくなるのは、自分のほうが素晴らしいと思いたいプライドの煩悩や、
損をするのは嫌だという怒りの煩悩があるからです。
煩悩は、悩み苦しみの原因だからないほうが良いのですが、他人の煩悩が見えて断罪したくなる場合もあります。
しかし、阿弥陀仏の慈悲は善人にも悪人にも平等。
阿弥陀仏の慈悲に共感して、南無阿弥陀仏と念仏してみるのもよいかも。

{{count}}
有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

外典(仏教ではない典籍)ですが

荘子の「無用の用」はいかがでしょうか
http://homepage1.nifty.com/kjf/China-koji/P-323.htm

{{count}}
有り難し
おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ