心の拠り所
十年ほど前に、作家の玄侑宗久さんの般若心経の解説本で、初めて仏教的な物の見方を知りました。
息苦しい日々に、涼しい風が吹き込んだ様な気がしました。以来、少しでも仏教的な悟りや心の安心に近付きたく、仏教書(仏教関係のエッセイなど)を読んだり、座禅に通ったり、欲を捨てる事を心掛け、諸行無常、諸法無我を心に留めてきましたが、相変わらず心弱く、煩悩に振り回され続けてます。
心の安心を仏教から得るには、どのようにしたら良いのでしょうか?座禅会では、座っていれば自然に気付くと聞きましたが、何も分かる気がしないのです。信仰ではなく考え方としてしか仏教を見ていないからでしょうか?
寂しい気持ち 不安 恐怖
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
解釈が違うから救われないのです
諸行無常、諸法無我。
本当に悟ればこれで救われるのです。
ところが世に流布している仏教書の多くは【解釈が違う】から、根柢から救われないのです。
たとえば諸行無常にしても、およそ世間の仏教書の多くは、ざっくりこんなことが書かれています。
(ノД`)「一切は、オイオイオイ(泣)桜が切っていくように、紅葉が散っていくように、常に変化して変わらぬものなど何一つない。おれもオメ~もいつかこーなる、あー変化変化、流転流転、オイオイオイ(無常感)」
さらに日本仏教の多くは教科書に書かれている「もののあはれ」のようなネガティブ仏教思想ですから、あんなの誰が救われるっちゅうんですかいな。
そういうものは仏教でも何でもありません。悲惨な仏教❝思想家❞のたわごとです。
人を悲観的な気持ちにさせるだけ。いつ、だれがそんなネガティブな仏教にしたんでしょうかね。それは、人がそこに『解釈』を入れてしまったからなのです。
仏教も解釈する人次第で、滅茶苦茶にされてしまう。
私も大学時代「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静」の解釈をいろんな文献で調べて「だからどうした!」と怒りすら覚えました。
どれも、そこに何の救いもないからです。
ほとんどが、単なる現象論的な解釈だからです。
ですが、それは解釈した仏教学者さんや私がパーデンネンなだけだったのです。
悟りを得ていない人によって解釈された仏教は、悟り・救いがないので単なる思想なのです。文字通り❝救いようもない❞仏教なのです。そういう仏教はワンサカありますからご用心。
大学という処は、悟った人がいる所ではなく、仏教を材料に、自論を展開させる机上の空論仏教思想センターであって、そこに活きた救いがあるかといえば、私にとってはZEROでした。
では、悟った人が諸行無常を解釈するとどうなるか。
一切は、常に新しくあり続けているから、あなたは既にそのことから解き放たれて、自由になっている。さっきまで考えていたことも、あれこれ考えていたことも、そこで尽きているから、今はたった今の目の前の事しかない。
私たちの心も、さっきまでの事を離れて、いつでも前の事から離れて救われている。
毎秒、細胞レベルで生まれ変わっている。この身心がいつでも❝救われている❞ことを説かれるのです。救いのある活きた諸行無常、諸法無我、涅槃寂静を知りたければ、ヒマな時に当山の坐禅会にお越しください。
お茶を一杯飲んでみましょう
色はいかがでしたか?透き通った黄金色でしたでしょうか?それともホッとする茶色でしたか?
香りはいかがでしょう?爽やか?芳ばしい?
では味は?甘い?旨い?それとも渋い?
色んな言葉が頭を駆け巡りますね。それを捨てるのです。
お茶から発せられる色ビームとミケさまの目がピコーンと合体しているまさにその時が色です。お茶からホワ~とただよってきた香りとミケさまの鼻がスッと合体しているその時が香りです。お茶とミケさまの口がチャポンと合体したその時が味です。
お茶を口に含んだその瞬間、「あ、美味しい!」これであなたは救われているのです。逆に「渋!」でも救われているのです。そこに「もっと飲みたい!」とか「私だったらもっと上手に淹れるけどね!」というように心を一歩進めるから、心に引っかかりが生まれます。
坐禅会で何に気付くかといえば、そういう「あ、美味しい!」とか「渋!」というありのままを気付くのですよ。相対性理論みたいな究極の考え方がポーンと頭に浮かぶわけではありません。あるがままの姿がもともと真理を体現しているのです。そういうのが悟りです。諸行無常も諸法無我もお茶の中にぜ~んぶ入ってますから、それをそのまま頂くのです。
ちょっとキレイな事を書きましたが、渋すぎるとどうしても嫌ですから最初から上手に淹れましょうねという話になります。そこで環境を大切にすることもある程度必要になります。
何か新しいことをしようとするのではない。
「坐禅会でただ座っていれば・・・」というのは、よくある間違った教えであると思います。ただ座っていても、ボーっとしているだけ。坐禅になっていません。
足を組んで坐禅堂で座っていれば悟れるというものではありません。坐禅とは、座ることだけではありません。自分をとことん学び知ることです。そしてそのありように従い生きること。座っている時だけでなく24時間坐禅です。食事、お風呂、トイレ、テレビを見ている時間も坐禅です。
目を向ければ向けた方向のモノがそのまま見えます。そこには、過去も未来もなく「今」の様子がそのままにあるだけです。損も得もありません。善も悪もありません。苦しみもありません。「今」と認識した瞬間に過去になります。
目の働きと同じように、心の動きもそのようになっています。日ごろ悩みだとか苦しみだとか思っているものも、事実に参じてよくよく見てみれば、すぐにぱっと消えていることに気がつきます。思いを取り扱うと苦しみとなるわけですが、そのままにしておけば消えていくのです。
そうしたことが「自分の中で事実としてある。」ということに気付き、そこをとことん生きることが救われる道です。考え方でどうにかするのではありません。自分自身の事実に気付くことがまずは大切なことになります。
安心にも心配にも原因と結果がある
安心したいということは、安心していない時間があるということでしょう。
心は無常であり、感情は時間とともに変化します。
感情が生じるのにも原因があり、滅するのにも原因があります。
安心とか心配とかは結果です。結果を変えたければ原因を変えればよいのです。
また、原因を変えるのが難しい場合も、とりあえず、原因を知ると、結果の見え方が、正体不明の怪物から自然現象に変わります。
例えば、どんなに心配ごとがある人でも、別のことを考えている時は心配が消えており、
心配なことを思い出している時だけ嫌な気分になるのです。
思考という原因が、「安心じゃない」感情という結果を生んでいる。
例えは悪いですが、常にテロリストと戦っている米軍でも、休暇中の兵士はバカンスできる。
台風が来たときだけ雨戸を閉めれば窓ガラスは守れる。
座禅は兵士の休暇、念仏は雨戸。
心は場所を選ばず、あなたは、わずか数秒でも、好きなときに心に休憩をとらせてあげられます。
また、心に台風が接近してると知るだけでも、知らないで襲われるよりマシです。
なお、仏教には信心で救われる道もありますが、頭で理解して納得する道もあります。
質問者からのお礼
とりとめのない質問に回答して頂き、感謝してます。
願誉浄史様
幸せな時間もたくさんあるのに、不安ばかりに気を取られてるのは、自然な感情の表れではないと我ながら思います。
考えても仕方ないと分かっていても、とらわれていたり、心は自分にとってさえ正体不明の怪物のようです。
念仏は、雨戸に例えられるのですね。念仏の雨戸に 守られたいですが、接する機会があまりありませんでした。念仏
について知る機会が欲しいです。
大慈様
判断をせずに感じるままでよいのですね。我を無くして、感じるままに対象と一体化してくようなのびやかなイメージが
本当によいです。確かに座っていると自分が消えるような気がする事もありますが、その場限りの気分で、心の安心とは
違う気もします。きちんとした修行もしてないのに高望みしてるのかもしれませんが、望んでるものが見えているのに
手に入れられないような歯がゆさが仏教にはあり、ついこのような質問をしてしまいました。お茶でも飲みながら、この
ような話を聞きたいです。
邦元様
以前、歩く坐禅というのを聞いた事があります。日常生活すべてが修行という事かもしれません。
思いを取り扱わず、そのままにしておけば消えていくという言葉、かみしめたいです。
ごちゃごちゃ思い煩うのは、事実から目を背けたくてもがいてるのかもしれません。回答を読み、今という現実を逃げずに
とことん生きる事が、救いに通じてくという事なのかナと思いました。単純な事のようでいて、難しいです、、。
丹下覚元様
悟りとか救いとか、何なのだろうと私も時々考えます。そのようなものが本当にあるのかしらと思ったりもします。
諸行無常は、変わらぬものなど何も無いのだとセンチメンタルに流されてしまうより、だから常に新しくあり続けること
自由に開かれていく事だと思うと、確かに勇気が湧いてくるし、元気になれますね。悟りなど開けなくとも、生きてく
事に役立つ仏教、活きた仏教がよいです。