友人が亡くなりました。
中学のころ、親しくしていただいた友人が亡くなったと先ほど共通の友人を通じて知らされました。中学の時にはかなり救われていた相手であったこともあり、かなり衝撃的ではあったと思います。
しかし卒業してからは疎遠になってたこともあり、どこかぼんやりとした気持ちで泣く友人から報告を受けました。
その上で通話が終わってから気づいたのですが自分は泣く気配が全くないのです。
かなり疎遠だったからなのでしょうか、それともそんな私は冷血なのでしょうか。かなり救われた相手だったはずの友人の死に何も感じてないようで自分の事ながら信じられません。涙を流せない自分がわからないです。
どうして泣けないのでしょうか?お坊さん方のご意見をお聞かせ願えたらと思います。厳しいご意見も是非お聞きしたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
死の直後が、悲しみの絶頂でもありません。
そぅ。。。あまりにも、早い死 だね。ご家族の気持ちを考えると、胸が苦しいです。
親しかった人の死を、受け入れていくのは、人によって違うのよ。涙が出る人もいれば、言葉にならない人や、何も考えられない人、まだ信じらない など、「死」に対して、どうしていいのか分からないのが、正直なところだと思います。
また、死の直後が、悲しみの絶頂でもありません。時間をおいて、悲しみが増したり、想いが込み上げてきたり、するものです。
感じ方、受け止め方を、誰かと比べたりしなくていいのですよ。みんな、その人との関わりは、それぞれの立場で違うのだから。
今は ただ、死を悼み、手を合わせましょう。
合掌
悲しみを受け入れることができるまで、時間が必要
いすかさん、はじめまして。質問を拝読いたしました。
いすかさんは、親しくしていた友人の訃報が届いたにもかかわらず、疎遠だったせいか、いすかさんは涙を流せないのですね。いすかさんは、もしかしたら冷血なのではないかと気にしているのですね。
結論から言いますが、いすかさんは冷血ではありません。
その理由は以下に書きます。
悲しみ、特に人が亡くなったときの喪失を受け入れるまでに人は喪失の5つの段階を越えていきます。(エリザベス・キューブラー・ロスによる死の受容モデル)
1.否認
死を認められない段階です。いすかさんの場合は、この段階にいると考えられます。「すべてはウソであり、間違いであってほしい」と現実から目をそらそうとします。
心が大きすぎるショックを受けて壊れてしまわないようにするためです。
2.怒り
否認していた気持ちが逆に振れてしまい、悲しみが怒りに転化します。
急に怒り出したり、急に泣き出したりすることがあります。
3.取引
「私が何でもするから、亡くなった彼女を生き返らせてください」と願います。
もし私が~していれば、と後悔することもあります。
4.抑うつ
否認しても、怒りの感情を持っても、取引しても、どうにもならないと分かったとき、より深い悲しみに包まれて誰とも会いたくないと感じます。何もする気が起きなくなることもあります。
5.受容
抑うつから抜け出して、悲しみを受け入れ思い出の箱の中へとしまっておくことができる時が来ます。ここでやっと友人の死という現実を受け入れることができるのです。
私が言いたいのは、いすかさんが突然怒り出したり、突然泣き出したりするような大きな感情の振れが起こりうるということを、知識として知っておいて欲しいのです。
今後、いすかさんが訳も分からず当たり散らしてしまい、自己嫌悪に陥ってしまうかもしれません。しかし、それはいすかさんが友人の死を受け入れる段階の途中なのです。
いすかさんが友人の死に対して、静かな涙を流すことができる日が来ることを祈念しております。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございます。
友人が亡くなったとは確かにまだ到底信じられなかったのかも知れません。
今年の帰省で機会があれば共通の友人とお墓参りをして友人の死を受け入れていきたいと思います。
ありがとうございます