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滅するべき煩悩とはなんでしょうか

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有り難し有り難し 49

よく回転寿司に行くのでそこで気づいたことを質問です。

煩悩とは何でしょうか。

『煩悩とは苦(ドゥッカ)である』

では終わるので少し掘り下げてみたいのですが、『欲』は生存に必要なものでこれを満たさないと自分の身体の生命維持ができないもの、として『食欲』『睡眠欲』などの根本欲は煩悩ではないと仮定します。
これはブッダも否定しませんでした(否定したら弟子ができる前に死んでた。睡眠不足で目が潰れた弟子もいる)。

次に『渇愛』ですが、これは自身の生命維持には必要でない『性欲』や喜怒哀楽(動物がもっている感情)と慈悲喜捨(善行)などの心(想い)に付随するものだと考えております。

最初は『渇愛』の中に『欲』も入れていたのですが、分けて考えないと生存と平穏はないなと思うようになりました。

では、『煩悩』とは何かというところになってくるのですが、『欲』や『渇愛』に『執着』がくっ付いたものではないかなと思います。
そして煩悩はそれぞれ『貪』『瞋』『痴』に分かれる。

『執着』だけではそれに寄生にする宿主(欲or渇愛)が無ければ『煩悩』にはならない。ただ、執着は一切のものにくっつく可能性があり、一切は煩悩になりえるのではと考えています。
つまり煩悩とはいかに執着を持たないかというところにあるのかなと思うようになりました。

ここで冒頭の回転寿司の話になるのですが、
1.凄くお腹が空いたから食事をしに外に行った。回転寿司を見つけたから入って適度に食べた。
2.すごくお腹が空いたから外に出た。どうしても回転寿司が食べたかったから回転寿司を適度に食べた。
1番は食欲を満たすだけなので煩悩ではなく、2番は食欲に執着がついているので煩悩である。

同じ例えで、
1.ボランティアで被災地に救援物資を送った。
2.ボランティアで被災地に救援物資を送ったが、力足らずだと思って悲しんだ。
どちらも大悲によって行った行為ですが、2番目は足りないという執着が生じているので煩悩である。

出家者は小欲知足と、渇愛のうち動物がもっている感情を滅し、慈悲喜捨に執着が付かないようにし心を乱されることなく過ごし、在家者は欲や渇愛は滅する必要はないが執着が付かないようにする。

ちなみに、十二縁起が全く理解できなかったので、四諦と八正道から経験を踏まえて考えてみました。
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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

悪者探しの心を滅しましょう

十二因縁全てを理解しなくても結構ですが、ここだけ押さえて下さい。十二因縁中の煩悩は無明・渇愛・取の3つです。ここでは取(しゅ)について書いきます。ひろ様のおっしゃる執着に近いですがより広い言葉です。

取とは、これは良いもの、これは悪いものと評価し、取捨選択する行為です。

ゆえに苦のシステムを知ることは大切ですが実は、これは煩悩、あれはセーフと1つ1つレッテルを貼る行為自体が取という苦の原因になります。ここ落とし穴です。
だから本当に修行をしている人は、「今は精神統一できていて良い状態にある」というような修行の状態評価をしません。ただやるだけです。自他の修行を喜ぶということはありますけどね。

ボランティアで大悲を行うなら、それは自未得度先度他です。あえて煩悩の中で活動することで煩悩の中の人々を救わんとするわけですから、自分がいかに煩悩から離れるかを持ち込むべきではありません。
もっとも無明から離れたら当然そうするわけですから、やはり煩悩探し・悪いこと探し自体を止めましょうという話にも戻ります。

あと簡単に唯識について書いておきます。
人の感覚器官にはまず眼耳鼻舌身意の前六識があります。次にマナ識というものがあり、そしてアラヤ識があります。
マナ識とは頭でアーだコーだ考えることです。前六識の意との違いは、意が何かあったときにパッと感じる第一次的な反応であり、マナ識はその後に考える第二次的な思考です。
アラヤ識は深層心理とか進化の結果とか本源的な因縁とか誰にもよく分からんモンがイロイロです。
問題はマナ識。

例えばレゴのブロックを踏んだとします。
足の皮膚が痛む→身
足が痛いと知覚する→意
おのれ息子め、ちゃんと片付けろ!と考える→マナ識

ここで意までの前六識で生きましょう。マナ識を不活性化しましょうというのが仏道です。
回転寿しでマグロがきて「ヤッター!おいちゃんマグロ食べちゃうぞ〜」っと思ったなら思えば良いです。それは一次的な知覚です。そこにマグロは贅沢品だ!とか自分ルールを上塗りするから苦が生じます。

しかし一次的な意も、苦の少ない反応に調えた方がより楽に生きられます。私は生魚嫌いですが、好き嫌いをしない自分に調えた方が良いのは当然です。そこは身口意の習慣の力によって調えます。
ま、ワタシャそこまで立派なお坊さんじゃないから頑張りませんけど。

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おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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素晴らしいほど勉強をされていますね

言葉の意味としてはその通りです。
貴方の解釈で正解です。

で、終わってしまうのも少々頼りないので、貴方にアドバイスを。

視点がいささか煩悩に寄りすぎている気がします。
どう言うことかと申しますと、この煩悩論で最も大切なのは"人が煩悩によって痛みを感じていることに気づく"と言うことです。

貴方のほど勉強されているのに、十二因縁が全く理解できないと言うことはありえない。
もう少し言葉や事例に捉われず、人間の心の動きに注目することで見えて来るものがあるのではないでしょうか。

お気付きかも知れませんが、仏教の思想は現代科学の思考方法である"分析"や"統計"では理解出来ません。
あらゆる事例を包括する仏の法則を完全に捉えるのは非常に難しいですが、逆に全く理解出来ないということもないのです。
少なからず、"体感"していますからね。

貴方が知識を求めているならそのままで構いませんかが、無明を滅することが目的なら、このままだとドツボにハマる可能性を感じたので書きました。
お役に立てれば幸いです。

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おきもち

けいじょう
日蓮宗の僧侶、啓誠(けいじょう)と申します。 修行に失敗し、一度は腐...
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悩み苦しみの原因だから滅すべき

なぜ煩悩を滅すべきなのかというと、煩悩が悩み苦しみの原因だからです。
だから、とりあえず私達は、悩み苦しみがあるときに、その原因に気づいて対処すればよいのではないでしょうか?
たとえば、高価なアクセサリーが欲しいという欲望も煩悩といえば煩悩です。
しかし、実際にそのアクセサリーを買える人は、悩み苦しみなく普通に買えば済みますよね。
問題は、自分には買えないようなアクセサリーを高望みしたり、盗んででも手に入れたいとか思うときです。
その場合は悩み苦しみが発生しています。
かりに、プロの盗人で悩みなく普通に盗める場合でも、盗まれた被害者の悩み苦しみになります。
そういう場面では、アクセサリーへの欲を滅したり制御したりするべきですね。
菩薩像なんか、たくさんのアクセサリーをつけて超オシャレです。
菩薩像は皇太子時代のお釈迦様をモチーフにしているからかもしれませんが、オシャレする財力のある人がオシャレをすることを、仏教では否定していないのです。
でも、盗んでまでオシャレしたら戒律違反なのです。

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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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おっしゃる通り、貪瞋痴が煩悩に大きく関係しています。食欲、睡眠欲、性欲など、欲は人間には必要なものです。しかし、そこに貪瞋痴がくっつくと煩悩になります。
必要以上の食欲、睡眠欲、性欲は貪欲と言います。貪りの心なのです。こうなるといわゆる煩悩となります。さらに、この貪欲から怒りや愚痴にも繋がっていきます。
ですから、例えば阿含経典の中で、お釈迦様は貪りを捨てなさい、と言っているのです。
つまり小欲知足という事ですね。
なお、出家者も在家者も仏教徒であるなら、やるべきことは変わりません。違うのはお布施で生きるのか、何か仕事をして生きるのか、ということですよ。
お互いに小欲知足を精進しましょうね。

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有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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質問者からのお礼

皆様、お返事ありがとうございます。
もともとは、自分の中に四苦八苦があり→苦を取りたい→諸行無常を思い出す→諸法無我に気づく→縁起に気づく→殆どの苦が消えた。という順番でしたが、
1.寿司が食べたくなって他の食べ物屋を抜いて回転寿司屋に行った。でも待ちが多くて別の食べ物屋に行った。
2.ボランティアで救援物資を被災地に送った。分かっていたはずが物資が足りていない事を悲しんだ。
という事を思い出し、1番は苦が生まれなかった、2番は苦が生まれた。
もう一度、何故苦が生まれたのか、苦とは何かを突き詰めました。
なぜ煩悩を持ったまま食事に行ったのに苦が生まれずに、苦が生まれないはずの善(ボランティア)を行ったのに苦が生まれるのか。
つまり、煩悩になる前の(楽しさも含めた)執着こそが苦の原因で、煩悩は執着が欲や渇愛とくっ付いた後のただの『名前』に過ぎない。
だから、貪瞋痴も概念としては理解していますが、滅する方法が違うわけではない(虚無主義にはならないように諸行無常・諸法無我を常にどんな時も心の中心に置いておくだけ)と感じましたので、人に教える場合は貪瞋痴を詳しく教えることはないかなと思います。

けいじょう様>>
お返事ありがとうございます。
十二因縁は複雑になってきます。
例えるなら、出〇哲郎さんが適当な英語で渡り歩いてもうまくいってしまったように、頭としっぽが繋がってるので、真ん中の文法や細かい単語(十二縁起)までは覚えなくてもやっていけてしまってる状態でございます。
もちろん、十二縁起は人に教える場合に必要だったり、今行っていることが正しいかどうかをチェックしたりする場合はあった方が良いと思います。

聖章様>>
お返事ありがとうございます。
アーガマにも色々書かれております。
十二縁起も書かれているし、八正道を実践するためには必ずいる知識ですが、概要の四諦だけで頭がいっぱいいっぱいになっています。
しかし、必ず少しずつではありますが理解をしていきます。

>>願誉浄史様
お返事ありがとうございます。
確かに、苦しみに気づいて一つ一つ対処していく。それで前に進んで行くことができますね。
だから最初から禁欲的な生活を送る必要もないですね。
ただ、このまま進めば必ず来る苦に対してどうするべきかが悩みになります。
たしかに、マッジマ・ニカーヤ(中部阿含経)の中でブッダが
『過去を追うな。未来を願うな。過去はすでに捨てられた。そして未来はまだやってこない。
だから現在のことがらをそれがあるところにおいて観察し、揺らぐことなく動ずることなく、よく見きわめて実践せよ。ただ今日なすべきことを熱心になせ。』言われています。
ただ、私は『未来の苦』を考えているのではなく、今の時点でこのままいったらきっと苦だなという『現在の苦』を考えています。
そして私のような無明者はいざその時になって、苦しんでしまう。
だから、今のうちからなすべきことをするだけです。

大慈様>>
お返事ありがとうございます。
確かにシステマチックにレッテルを張るとそれが苦の原因になりますね。
今の状態を自分で評価するのではなく、ただやるだけというのはとても共感できます。
自分のような無知な人間には一切感謝やキリスト教徒のような赦すという事はまだまだ出来そうもありません。
黙って観察する。そこにとどまらないようにする。というのは非常に現実的です。
ただ自未得度先度他はあくまで自分も相手も同じ境遇の中での大悲であり、ボランティアは自分が別の境遇であるという前提なので、ふと自分が落ち着いた瞬間に湧き出てくる煩悩があってもしょうがないのかなと思います。
普段から煩悩まみれであるという事や、菩提心や菩薩行(私はこっちをよく使いますが)の最初の障害であるという点では自未得度先度他自未得度先度他も同じだと思います。
つまり、ゴールや途中が一時的に一緒でも、スタート地点が違ってくるのではやっぱりちょっと違うのかなと思ってしまいます。
末那識・阿頼耶識は大乗の教えですね。
無知で申し訳ありません。今まで知りませんでした。勉強になりました。

「煩悩」問答一覧

「足るを知る」と「向上心」のバランス

明けましておめでとうございます。 全ての皆様にとって、健やかな一年となることを祈念いたします。   *   「足るを知る」と「向上心」をどうバランスさせるかについて質問です。   ■質問の内容 ・人間の煩悩はキリがありません ・煩悩とうまく付き合うために「知足」が重要との理解です ・一方で、より良い生を営むには、「向上心」が必要です ・しかし「知足」「向上心」は、ときに相容れないように思われます ・そこで、両者の使い分けについて、ご意見を頂戴したかったもの   ■質問の背景 ・私は肉体や精神、能力等の向上(=欲求を満たせる自分に成長すること)を目標として努力してきました ・結果、自分自身や周りの人の幸せを実現できると考えてきたためです ・しかしある時、幸福度は上昇していないことに気付きました ・そんな時に「知足」の重要性に気付き、「向上心」との折り合わせについて強い興味を抱いたものです   ・両者の使い分け方法について、下記2パターン考えました   ■仮説① 行為の目的(相手のため/自分のため)で、以下の通り使い分けるべき 【良さそうな例】 A「相手のため」×「向上心」 (例)より喜ばれる仕事をしたい B「自分のため」×「知 足」 (例)菜食で十分 【悪そうな例】 C「相手のため」×「知 足」 (例)今の仕事の質で十分 D「自分のため」×「向上心」 (例)より美味しい食事をしたい   ■仮説② ・「知足」と「向上心」のバランスを考える必要は無い。 ・自らの欲求を満たせる自分に成長する「向上心」が重要である ・逆説的だが、向上心(欲望)を満たした経験により「足るライン」を把握できるようになる ・肥大する向上心(欲望)を実現した経験が、「自らを満たさない、長く続かない」ことを体感させる ・知足は、頭で理解するものではない。体得させる必要がある    (例)お金をもっと稼ぎ、食事にお金をかける。結果、最高級の焼肉もファミチキも両方美味しいし、どっちも幸せで、(実は)どっちも大差ないことを体感する。 しかしずっと貧しいままだと、どうしてもやせ我慢での知足となる。「知足の習得」には、欲求を満たして「こんなもんか」という体験が必要不可欠。 お釈迦様が王子の頃に豊かだったことは、悟るための必須条件。。?   少し漠然とした問いで申し訳ございません。 どうぞよろしくお願い致します。

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