hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

滅するべき煩悩とはなんでしょうか

回答数回答 4
有り難し有り難し 42

よく回転寿司に行くのでそこで気づいたことを質問です。

煩悩とは何でしょうか。

『煩悩とは苦(ドゥッカ)である』

では終わるので少し掘り下げてみたいのですが、『欲』は生存に必要なものでこれを満たさないと自分の身体の生命維持ができないもの、として『食欲』『睡眠欲』などの根本欲は煩悩ではないと仮定します。
これはブッダも否定しませんでした(否定したら弟子ができる前に死んでた。睡眠不足で目が潰れた弟子もいる)。

次に『渇愛』ですが、これは自身の生命維持には必要でない『性欲』や喜怒哀楽(動物がもっている感情)と慈悲喜捨(善行)などの心(想い)に付随するものだと考えております。

最初は『渇愛』の中に『欲』も入れていたのですが、分けて考えないと生存と平穏はないなと思うようになりました。

では、『煩悩』とは何かというところになってくるのですが、『欲』や『渇愛』に『執着』がくっ付いたものではないかなと思います。
そして煩悩はそれぞれ『貪』『瞋』『痴』に分かれる。

『執着』だけではそれに寄生にする宿主(欲or渇愛)が無ければ『煩悩』にはならない。ただ、執着は一切のものにくっつく可能性があり、一切は煩悩になりえるのではと考えています。
つまり煩悩とはいかに執着を持たないかというところにあるのかなと思うようになりました。

ここで冒頭の回転寿司の話になるのですが、
1.凄くお腹が空いたから食事をしに外に行った。回転寿司を見つけたから入って適度に食べた。
2.すごくお腹が空いたから外に出た。どうしても回転寿司が食べたかったから回転寿司を適度に食べた。
1番は食欲を満たすだけなので煩悩ではなく、2番は食欲に執着がついているので煩悩である。

同じ例えで、
1.ボランティアで被災地に救援物資を送った。
2.ボランティアで被災地に救援物資を送ったが、力足らずだと思って悲しんだ。
どちらも大悲によって行った行為ですが、2番目は足りないという執着が生じているので煩悩である。

出家者は小欲知足と、渇愛のうち動物がもっている感情を滅し、慈悲喜捨に執着が付かないようにし心を乱されることなく過ごし、在家者は欲や渇愛は滅する必要はないが執着が付かないようにする。

ちなみに、十二縁起が全く理解できなかったので、四諦と八正道から経験を踏まえて考えてみました。
アドヴァイスをお願い致します。

2017年7月12日 3:31

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

悪者探しの心を滅しましょう

十二因縁全てを理解しなくても結構ですが、ここだけ押さえて下さい。十二因縁中の煩悩は無明・渇愛・取の3つです。ここでは取(しゅ)について書いきます。ひろ様のおっしゃる執着に近いですがより広い言葉です。

取とは、これは良いもの、これは悪いものと評価し、取捨選択する行為です。

ゆえに苦のシステムを知ることは大切ですが実は、これは煩悩、あれはセーフと1つ1つレッテルを貼る行為自体が取という苦の原因になります。ここ落とし穴です。
だから本当に修行をしている人は、「今は精神統一できていて良い状態にある」というような修行の状態評価をしません。ただやるだけです。自他の修行を喜ぶということはありますけどね。

ボランティアで大悲を行うなら、それは自未得度先度他です。あえて煩悩の中で活動することで煩悩の中の人々を救わんとするわけですから、自分がいかに煩悩から離れるかを持ち込むべきではありません。
もっとも無明から離れたら当然そうするわけですから、やはり煩悩探し・悪いこと探し自体を止めましょうという話にも戻ります。

あと簡単に唯識について書いておきます。
人の感覚器官にはまず眼耳鼻舌身意の前六識があります。次にマナ識というものがあり、そしてアラヤ識があります。
マナ識とは頭でアーだコーだ考えることです。前六識の意との違いは、意が何かあったときにパッと感じる第一次的な反応であり、マナ識はその後に考える第二次的な思考です。
アラヤ識は深層心理とか進化の結果とか本源的な因縁とか誰にもよく分からんモンがイロイロです。
問題はマナ識。

例えばレゴのブロックを踏んだとします。
足の皮膚が痛む→身
足が痛いと知覚する→意
おのれ息子め、ちゃんと片付けろ!と考える→マナ識

ここで意までの前六識で生きましょう。マナ識を不活性化しましょうというのが仏道です。
回転寿しでマグロがきて「ヤッター!おいちゃんマグロ食べちゃうぞ〜」っと思ったなら思えば良いです。それは一次的な知覚です。そこにマグロは贅沢品だ!とか自分ルールを上塗りするから苦が生じます。

しかし一次的な意も、苦の少ない反応に調えた方がより楽に生きられます。私は生魚嫌いですが、好き嫌いをしない自分に調えた方が良いのは当然です。そこは身口意の習慣の力によって調えます。
ま、ワタシャそこまで立派なお坊さんじゃないから頑張りませんけど。

2017年7月12日 11:51
{{count}}
有り難し
おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み) 最近YouTubeを...

素晴らしいほど勉強をされていますね

言葉の意味としてはその通りです。
貴方の解釈で正解です。

で、終わってしまうのも少々頼りないので、貴方にアドバイスを。

視点がいささか煩悩に寄りすぎている気がします。
どう言うことかと申しますと、この煩悩論で最も大切なのは"人が煩悩によって痛みを感じていることに気づく"と言うことです。

貴方のほど勉強されているのに、十二因縁が全く理解できないと言うことはありえない。
もう少し言葉や事例に捉われず、人間の心の動きに注目することで見えて来るものがあるのではないでしょうか。

お気付きかも知れませんが、仏教の思想は現代科学の思考方法である"分析"や"統計"では理解出来ません。
あらゆる事例を包括する仏の法則を完全に捉えるのは非常に難しいですが、逆に全く理解出来ないということもないのです。
少なからず、"体感"していますからね。

貴方が知識を求めているならそのままで構いませんかが、無明を滅することが目的なら、このままだとドツボにハマる可能性を感じたので書きました。
お役に立てれば幸いです。

2017年7月12日 10:37
{{count}}
有り難し
おきもち

けいじょう
メチャクチャしてた20代も最後の年。償いにもなんとか人の役に立ちたいと思い...

悩み苦しみの原因だから滅すべき

なぜ煩悩を滅すべきなのかというと、煩悩が悩み苦しみの原因だからです。
だから、とりあえず私達は、悩み苦しみがあるときに、その原因に気づいて対処すればよいのではないでしょうか?
たとえば、高価なアクセサリーが欲しいという欲望も煩悩といえば煩悩です。
しかし、実際にそのアクセサリーを買える人は、悩み苦しみなく普通に買えば済みますよね。
問題は、自分には買えないようなアクセサリーを高望みしたり、盗んででも手に入れたいとか思うときです。
その場合は悩み苦しみが発生しています。
かりに、プロの盗人で悩みなく普通に盗める場合でも、盗まれた被害者の悩み苦しみになります。
そういう場面では、アクセサリーへの欲を滅したり制御したりするべきですね。
菩薩像なんか、たくさんのアクセサリーをつけて超オシャレです。
菩薩像は皇太子時代のお釈迦様をモチーフにしているからかもしれませんが、オシャレする財力のある人がオシャレをすることを、仏教では否定していないのです。
でも、盗んでまでオシャレしたら戒律違反なのです。

2017年7月12日 12:41
{{count}}
有り難し
おきもち

浄土宗教師。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための...

おっしゃる通り、貪瞋痴が煩悩に大きく関係しています。食欲、睡眠欲、性欲など、欲は人間には必要なものです。しかし、そこに貪瞋痴がくっつくと煩悩になります。
必要以上の食欲、睡眠欲、性欲は貪欲と言います。貪りの心なのです。こうなるといわゆる煩悩となります。さらに、この貪欲から怒りや愚痴にも繋がっていきます。
ですから、例えば阿含経典の中で、お釈迦様は貪りを捨てなさい、と言っているのです。
つまり小欲知足という事ですね。
なお、出家者も在家者も仏教徒であるなら、やるべきことは変わりません。違うのはお布施で生きるのか、何か仕事をして生きるのか、ということですよ。
お互いに小欲知足を精進しましょうね。

2017年7月12日 19:22
{{count}}
有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんをしています。 なかなか良い回答はできませんが、少しで...

質問者からのお礼

皆様、お返事ありがとうございます。
もともとは、自分の中に四苦八苦があり→苦を取りたい→諸行無常を思い出す→諸法無我に気づく→縁起に気づく→殆どの苦が消えた。という順番でしたが、
1.寿司が食べたくなって他の食べ物屋を抜いて回転寿司屋に行った。でも待ちが多くて別の食べ物屋に行った。
2.ボランティアで救援物資を被災地に送った。分かっていたはずが物資が足りていない事を悲しんだ。
という事を思い出し、1番は苦が生まれなかった、2番は苦が生まれた。
もう一度、何故苦が生まれたのか、苦とは何かを突き詰めました。
なぜ煩悩を持ったまま食事に行ったのに苦が生まれずに、苦が生まれないはずの善(ボランティア)を行ったのに苦が生まれるのか。
つまり、煩悩になる前の(楽しさも含めた)執着こそが苦の原因で、煩悩は執着が欲や渇愛とくっ付いた後のただの『名前』に過ぎない。
だから、貪瞋痴も概念としては理解していますが、滅する方法が違うわけではない(虚無主義にはならないように諸行無常・諸法無我を常にどんな時も心の中心に置いておくだけ)と感じましたので、人に教える場合は貪瞋痴を詳しく教えることはないかなと思います。

けいじょう様>>
お返事ありがとうございます。
十二因縁は複雑になってきます。
例えるなら、出〇哲郎さんが適当な英語で渡り歩いてもうまくいってしまったように、頭としっぽが繋がってるので、真ん中の文法や細かい単語(十二縁起)までは覚えなくてもやっていけてしまってる状態でございます。
もちろん、十二縁起は人に教える場合に必要だったり、今行っていることが正しいかどうかをチェックしたりする場合はあった方が良いと思います。

聖章様>>
お返事ありがとうございます。
アーガマにも色々書かれております。
十二縁起も書かれているし、八正道を実践するためには必ずいる知識ですが、概要の四諦だけで頭がいっぱいいっぱいになっています。
しかし、必ず少しずつではありますが理解をしていきます。

>>願誉浄史様
お返事ありがとうございます。
確かに、苦しみに気づいて一つ一つ対処していく。それで前に進んで行くことができますね。
だから最初から禁欲的な生活を送る必要もないですね。
ただ、このまま進めば必ず来る苦に対してどうするべきかが悩みになります。
たしかに、マッジマ・ニカーヤ(中部阿含経)の中でブッダが
『過去を追うな。未来を願うな。過去はすでに捨てられた。そして未来はまだやってこない。
だから現在のことがらをそれがあるところにおいて観察し、揺らぐことなく動ずることなく、よく見きわめて実践せよ。ただ今日なすべきことを熱心になせ。』言われています。
ただ、私は『未来の苦』を考えているのではなく、今の時点でこのままいったらきっと苦だなという『現在の苦』を考えています。
そして私のような無明者はいざその時になって、苦しんでしまう。
だから、今のうちからなすべきことをするだけです。

大慈様>>
お返事ありがとうございます。
確かにシステマチックにレッテルを張るとそれが苦の原因になりますね。
今の状態を自分で評価するのではなく、ただやるだけというのはとても共感できます。
自分のような無知な人間には一切感謝やキリスト教徒のような赦すという事はまだまだ出来そうもありません。
黙って観察する。そこにとどまらないようにする。というのは非常に現実的です。
ただ自未得度先度他はあくまで自分も相手も同じ境遇の中での大悲であり、ボランティアは自分が別の境遇であるという前提なので、ふと自分が落ち着いた瞬間に湧き出てくる煩悩があってもしょうがないのかなと思います。
普段から煩悩まみれであるという事や、菩提心や菩薩行(私はこっちをよく使いますが)の最初の障害であるという点では自未得度先度他自未得度先度他も同じだと思います。
つまり、ゴールや途中が一時的に一緒でも、スタート地点が違ってくるのではやっぱりちょっと違うのかなと思ってしまいます。
末那識・阿頼耶識は大乗の教えですね。
無知で申し訳ありません。今まで知りませんでした。勉強になりました。

「煩悩」問答一覧

煩悩も欲も消さなくていい。

煩悩も欲も消そうとする必要はない。この世の理(ことわり)だから。 煩悩や欲はありのままの心の在り方であり、決して消えるものではなく、そのままを受け入れることでその縛りから解き放たれる。 辛い苦しい悔しい腹立たしいだけでなく、ありがとうと感謝の言葉を発することも、何か良いことをするという徳を積む行動も、お念仏さえ煩悩や欲のひとつである。煩悩と欲は人として生きるには逃れられないものである。 また、煩悩は108あるという。言葉遊びではあるが永遠(とわ)とも読める。 これは、煩悩や欲などはこの世の時空間が始まる時から(科学的にはビッグバンか)終わるまでの限られた「永遠」という中に存在することを意味する。 煩悩がこの世の物理的な法則決まりごと、欲が化学結合などを起こすエネルギーとして考えるなら納得してもらえる人もいるだろう。宗教や哲学、科学などは人のごく限られた能力の中で作られたものであり、大した差はない。 別の世、違う時空間には違った煩悩や欲があるだろう。 人は人としてこの世に産まれる前から生命体(あるいは物質)として遥か昔から存在し、煩悩と欲のおかげを受けながら、産まれてからだけでなく、死んだ後も物質やエネルギーとして森羅万象の中で存在しつづける。 自分とは?自分はなぜ?ということに捕らわれず、今の状態、周りの言動はその存在を認め、自分の感情をはじめ、他人の行動や起こった出来事は仕方がないと赦して労わり、その経験をありがたしと感謝しながら、経験を活かして自分の趣くままに行動する。 そうして、普遍的に存在する煩悩や欲にも感謝しながら、うまく活用できれば、自ずとこの世も極楽と気づくことができる。 悟ることができて仏になるであろう。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1

【暴言多め】ちくしょー!私は煩悩の塊だぞ!?

乗っけから乱暴ですみません。 ここでしか言えないので。周りの人は、 「怖いと思ったら、離れなさい。 それが今あなたにできる事」 と言います。 でも、私だって楽しみたい! 他の人みたいに、安心して遊びたいし、 歩きたいし! カワイイ子いっぱいいるだろ! 何で私なんだよー! 私からは、「とても感じのいい、 人から頼られやすい雰囲気」 「内面の良さが外面に」 出ているそうです。不思議です。 正体はこのザマですよ?描く絵だって 血生臭いし。結構物騒な事も考えて ますよ? 最近は、生来の防衛本能(霊感と 呼んでます)が大暴れしています。 一歩道を歩いて、男性とすれ違えば 下を向いて横目で警戒。 目を見なくても、 「こいつ、ヤベェぞ」 と頭の中で 警報が鳴ります。 いつ絡まれないか、手を出されないか。 現実、いきなり手を振って近づいて こられそうになった事もあります。 人混みに出て、後ろに男性が来れば、 ソワソワ落ち着きがなくなり、 睨みつけたり、徐々に離れたりと言った 目立った行動をとります。 あとは、防犯ブザーをちらつかせ たり、付属のレーザーライトを カチカチ点滅させてしまったり… これで、逆に話しかけられた事も あります。怖いんだよ畜生が! 要は威嚇です。 同性もしかり。私が前を通過すると、 目で追われたり。迷惑なんだよー! 最近は、この本能大暴れのせいで 今年2度目の風邪をひきました。 暴言三昧ですみません。 聞いて欲しかった、それだけです。

有り難し有り難し 22
回答数回答 1

光合成するペット(自然と煩悩)

私の中学生の時の「将来の夢」は、「動く植物を開発すること」でした。 一番興味があったのが、『地球温暖化』全般。一番、地球温暖化を促進されるのが牛のゲップと聞けば、「ゲップし難いエサ(植物)の開発」を、生き物(動物)が出すCO2を吸収しているのは緑(植物)だと習えば、「とんな場所でも行ける緑(植物)の生き物(動物)の開発」を、と考えてきました。 自分が排出するCO2は、自分のペット(動く植物)に吸収してもらい、酸素をまかなう。そういう世の中、地球に優しい生き方が出来る社会にしていきたいと思っていました。 それで、中学生の時も高校生の時も、農学部に行きたい!新しい環境作りに貢献したい!と思い続けていましたが、幸か不幸か、何故か勝手に出された推薦入試の願書→受かったら辞退出来ない受験に合格してしまい、長年の夢を変更するしかないという形で幕を閉じました。 でも、高校1年生の時に被災(阪神淡路大震災)した記憶のせいか、医学を学ぶのも楽しかったので、新たな道を歩む決意をしたのです。 そして、「只今」違う生き方をしながらも、ふとしたことから、また「動く植物」が必要なのではないかと思い、過去の自分の夢を思い出すようになりました。 西日本豪雨災害に遭ったからからです。もちろん、根本的には『地球温暖化』が背景にありますが、今回は『豪雨による土砂崩れ』でたくさんの尊い命が失われた背景から、人の手が入らない山、森の木々たちが、自分で動いて、土砂災害を防ぐ働きをしてくれたなら、少しは亡くなる方が減らせたのではないかと思ったのです。 でも、人間が、自然・地球をこうなるまで放置し、対策を練らなかったのもまた事実。 私は有馬温泉の近くに住んでいます。避暑地でもあります。が、最近、自分の部屋にデジタル式の温度計を置くようになり、自分の部屋の温度が、冬と夏で「なぬっ!!!」と思う程、寒暖差があることが判明しました。(昔と明らかに違うと肌でも感じられますが)。 この今年の猛暑、酷暑。北の端の1番涼しいハズの部屋の温度が、35度に到達しているではないですか。この前の冬には、部屋の中なのに氷点下になっていたのにです。 何故、もっともっと『地球温暖化』のことをちゃんと考えてこなかったのかと痛感している毎日です。 お坊さま達も、お寺さんの中で熱中症になっていませんか? 地球温暖化をどう捉えていらっしゃいますか?

有り難し有り難し 28
回答数回答 4

アカウントの『私の煩悩:』の変更

初めてhasunohaを訪れた際、アカウントに『私の煩悩:』を記す欄があったので、何となく、ふと思い付いたことを書きました。 私が書いたのは、『よく「未来は自らの手で切り開くもの!」と言われるが、未来に希望が見出だせないでいる。』というもの。 ただ「解答用紙に、何か書かないと」というような思いだけで書きました。いい加減な書き方をして、すみません。 しかし、訪れて10日ぐらい経った今、「何か違う」「なら書き直そう」と思いました。ある投稿を読んだのがきっかけです。ここからが、私が未熟であるからこそ生まれた煩悩になります。 新しい『私の煩悩:』 (来世なるものを自ら決められるのだとしたら)次は男に生まれてみたい、という煩悩が生まれたこと 変更理由:①私が今、女であるから。②私は男として生きたことがないから。③なってみなきゃ分からないことがあるはずだから。 以上。 しかし、来世に、また人間として生まれてくる可能性も確率も分からぬまま、容易くそんなことを言えた義理じゃありません。もし人間になれたとしても、今の、現世の「女」の記憶が残っているものでしょうか。 以前、私は『プチトマト』というタイトルの質問を致しました。「私の前世はプチトマトだ!」と小2の私が直感的に思ったことを書きました。ですが、残念ながら「プチトマトの記憶」はありません。ただ「ハッ!」と閃いただけだったのでしょう。 今は、煩悩も「心境の変化は日常茶飯事」と同様の仕組みではないかと感じております。 哀しくも、女の私には、男のことは分かりません。それと同じように、男の人も、女のことは分からないのではないでしょうか。 「どちらが有利・不利」など、両者を経験した者にしか分からないことです。つまり、「そんなこと言っても仕方ない」「誰にも分からないのではないか」と思っています。 そんなことに腹を立てているから、「怒という煩悩」が生まれてしまうのではないか、と、只今感じております。 しかし、まず性別が「男と女しかない」と思っていること自体、『無知』であり『偏見』『差別』ではないでしょうか。 この時代に「男になりたい」「女になりたい」というのは、短絡的過ぎるような気がしてなりません。それなのに、私の頭にムダな煩悩が浮かびました。 どんなご意見でもご批判でも、受け止めます。皆様のお心の内をお聞かせ下さい。

有り難し有り難し 15
回答数回答 2

関連する問答

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ

相談カテゴリ
-四苦八苦 SickHack!▼ 全カテゴリを見る