自意識過剰から開放されたい
自意識過剰から開放されたい
容姿についてどこへ行っても褒められて来ました。どこへ行っても初対面の人にもまず容姿のことばかり言及されて、そのせいでいつも皆に見られているような気がします。それで外を歩くたび、今の自分は変に見えないかとか笑われてないかとかずっと考えてしまいます。
外に出るのが苦痛です。地味な格好をしても派手な格好をしても常に自分だけが浮いているように思えます。誰に相談しても気のせいだから気にするなと言われ、自分でもそう思うのですが、自意識過剰はおさまりません。誰に見られても堂々としていたいと思って1年間逃げずに必ず毎日外に出て歩くようにしたのに、未だ人の目を気にして怯えています。もう疲れました。
一体どういうふうに考えれば楽になれるのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
カラフル
外に出て歩いているとき人の目に気を取られているならば、あなたは『外』に出ていないのです。人間以外にもたくさんのものが広がっているというのに。興味ないですか?
あなたが外を歩けるのは、空気があるからであり、ちゃんと陽が上って沈むからであり、治安が保たれているからであり、、色んなことに気づいていますか。灰色さん。そしてめいっぱい感じていますか。人の目なんて感じる暇もない世界がきっと広がっているはずです。人の目ん玉なんて人体の何分の一かわかりません。まして世界全て含めたら、
ただの豆粒でしょう?たぶん
もしくは
私もそうなんですけれど、自意識過剰というのはだいたい誰にでもあると思うんです。そんなに困ることばかりでもないので、ついつい自意識過剰になっちゃうのではありませんか。しょっちゅう我を忘れられる方がかえって困りますし。
その反対がおせっかいの「気持ち」だと私は考えているので、自分以外の誰かのためを思って行動すると、少しは収まると思いますよ。
今自分のことどう思われているのか考えるのをやめなくていいので
その代わり、気づいてほしいことがあります。
同じくらい周りの人の悩みやつらさを見てそれを思い、たとえば胸が苦しくなるとき、
人の喜ぶ姿を見てうれしくなったりあるいはうらやましくなったりするとき、
自意識はだいぶ忘れられているはずです。
あなたがほんの些細なことでも人のためにできることを思うとき、少しは自分のことを忘れたりしませんか?
「行動を起こす」のはまた別の話にするとして。「思う」だけで構いません。
幼い頃を思い出してみてください。人生でもっとも頻繁に「気持ち」に出会っていた時代です。
灰色さんにはもっともっといろんな「気持ち」に出会ってほしい。あるいは思い出してほしい。あなた自身の「気持ち」はあなたが思ってらっしゃるよりずっと繊細で広大で『カラフル』なんだと、私は思います。
そういう時間、気づける時間を少しずつ持っていただきたいです。
きっと楽になりますよ。
どこ見てんのよ!
見てもないのに叱られる。こんなことあります。
目は開いてそちらを向いていても、見ていない。認識が働いていない。そんなことあります。道を歩いていて景色を見ている時は、案外人のこともそんな感じで景色の一部として見ています。
あなたの方を見ていても見ていないようなもんです。
私たちは一生、自分の体でしか生きられない。他の人の目で見ることすらできない。人がどう考えていてもそれと関係ない生活ができているのに、気にするというのは、無意味な気がしませんか。
全て妄想、幻想、想像の世界。リアル、真実とは全く違う世界を頭の中だけでこねくり回し自ら苦しんでいるのですね。
その事実に気付く必要があります。
私は天下〇品というラーメン屋さんが好きです。その味を、他の誰が嫌いでも、私にはその味が間違えなくします。20000000000人の人が嫌いと言っても、やっぱりその味がします。それぐらい自分の事実というものはしっかりしています。そして、人の気持ちに左右されることはありません。それなのに、想像してそれを真(マコト)のように考え始めると体にまで影響が出たりします。「みんなが嫌いと言っているしまずいのかも、こってりとかマジキモイ」とかいって嫌いになってしまうことも・・・。
きちんと自分の体の機能に学ぶのです。自分の気持ちや考え方はあやしいものです。その味がしているというと事で事実は完結。そこで満足すればいいのに。その先の想像の世界の方を大事にするから変なことになってしまうのです。事実は人を苦しめません。ただそのことがそのようにあるだけ。
あなたはどちらを信じますか。事実と考え方。