あっけなく死ぬこと
ある日突然、不慮の事故やアクシデントであっけなく死んでしまう命と、老衰や闘病の末の病死と、命の重さは一緒ですか?
あっけなく死んでしまう事は、命がとても軽く感じられます。
ほんの少し状況が変わっていれば死ななかったり、その危険さえ気づかずにすぎる事があるのに。
命は尊いと言いますが、尊いものがこんなに簡単に左右されるなんて理不尽に思います。
生前幸せならどんな最期でも幸せな一生といえるのでしょうか?
それとも、悲しい一生になってしまうのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「はからい」を超えた先に平等がある
最後の迎え方のみがその人の人生ではありません。最後の在り方によってその人の人生全体を悲観的に見てしまうのは亡くなった本人ではなく残された人ではないでしょうか。
いのちは儚く、簡単に左右されてしまうものですが、そうしたものがこうして今あり得ているからこそ尊いのではないでしょう。
三帰依文の冒頭に
「人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。」
という言葉があります。機会があれば一度調べてみてください。
有難いものがこうして有り得ている今、その事実を共に仏法に聞き、目覚めてまいりましょう。
尊い平等ないのちに長短や諸々の縁によって優劣をつけているのはいのち自身ではなく私たちのはからいではないでしょうか。
南無阿弥陀仏
重さの違い?
命ってなんのことでしょう。生命?心臓?重さってあるの?考えるとよくわからない。
なぜなら実体がないから。
命という働きにより私たちは存在している。そして、生き、生かされています。
肉や魚を食べ、野菜を食べ命をいただき生きている。小さいうちの命を使い、子牛の🐂ナントカみたいな料理もある。野菜も美味しい若い時にとって食べちゃう。
命の重さはわからないけれど、全て法という働きの中で人間の手のつけようのない働きをしているのですよね。それを人の考えで、良いだの悪いだの言えないのです。
せっかくですから
拝読させて頂きました。
私達の命はどれも儚いものかと思います。そしてどれも尊いものかと思います。
また見方考え方にもよるとは思いますが、与えられた命をひと時ひと時生きていくことは幸せなことかと思います。
それぞれご縁を頂いてそれぞれに尊い命を頂き今ここにありますからぬ。
ですからあなたも私も共に生かされております。
とはいえ時が経つとあなたの命も私の命もまた移り変わっていきます。
仏様の目線から見ればどの様な命も等しく尊いものでしょう、仏様は全ての命をお救いなさってくださいますから仏様の慈しみは真の平等かと思います。
であるならば私達はこの日この日をいかに生きていくかですよね。
私達の命は明日かもしれません、明後日或いは一週間後かもしれません、また今年一年かもしれませんし、五年十年或いは三十年かもしれません。
それは誰しも明確にはわからないのです。
どんなに科学や医学が発達しようともわからないのです。
どうかこれからの毎日を心から健やかに充実して生きてくださいね。せっかく与えられた命ですからね。
全ては因縁次第
あさがお様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
全ては因縁(原因と条件)次第。
世間で良いとされることも、悪いとされることも、仏教で良いとされることも、悪いとされることも、全ては因縁次第となります。
それらの因縁と結果の流れをより良くに調えていくための教えが仏教となります。
今の命をどう活かして、更に来世へも続いていく流れをどうより良くしていくべきか、それは、吉武文法様もおっしゃられておられますように、長短の問題ではなく、質の問題となります。
是非、良い流れへと向けて、しっかりと仏教を学び修して参りたいものでございます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
法覚寺 吉武様 円通寺 邦元様 一向寺 kousyo kuuyo Azuma
ご回答いただきましてありがとうございます。
今、愛するものの突然死に直面していて、命や死についてばかり考えています。
読ませていただき、勉強になり、とても考えさせられました。
ありがとうございました。
岩瀧山 往生院六萬寺 川口 様
ご回答いただきありがとうございます。
全ては因縁(原因と条件)次第。今の私には、本当の意味での理解が出来ていない気がします。
こういう今こそ、仏教を学ぶべき時なのだと自分でも感じております。
ありがとうございました。