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あっけなく死ぬこと

回答数回答 4
有り難し有り難し 46

 ある日突然、不慮の事故やアクシデントであっけなく死んでしまう命と、老衰や闘病の末の病死と、命の重さは一緒ですか?

 あっけなく死んでしまう事は、命がとても軽く感じられます。

 ほんの少し状況が変わっていれば死ななかったり、その危険さえ気づかずにすぎる事があるのに。
命は尊いと言いますが、尊いものがこんなに簡単に左右されるなんて理不尽に思います。

生前幸せならどんな最期でも幸せな一生といえるのでしょうか?
それとも、悲しい一生になってしまうのでしょうか?


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「はからい」を超えた先に平等がある

最後の迎え方のみがその人の人生ではありません。最後の在り方によってその人の人生全体を悲観的に見てしまうのは亡くなった本人ではなく残された人ではないでしょうか。

いのちは儚く、簡単に左右されてしまうものですが、そうしたものがこうして今あり得ているからこそ尊いのではないでしょう。

三帰依文の冒頭に

「人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。」

という言葉があります。機会があれば一度調べてみてください。

有難いものがこうして有り得ている今、その事実を共に仏法に聞き、目覚めてまいりましょう。

尊い平等ないのちに長短や諸々の縁によって優劣をつけているのはいのち自身ではなく私たちのはからいではないでしょうか。

南無阿弥陀仏

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おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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重さの違い?

命ってなんのことでしょう。生命?心臓?重さってあるの?考えるとよくわからない。
なぜなら実体がないから。
命という働きにより私たちは存在している。そして、生き、生かされています。

肉や魚を食べ、野菜を食べ命をいただき生きている。小さいうちの命を使い、子牛の🐂ナントカみたいな料理もある。野菜も美味しい若い時にとって食べちゃう。

命の重さはわからないけれど、全て法という働きの中で人間の手のつけようのない働きをしているのですよね。それを人の考えで、良いだの悪いだの言えないのです。

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有り難し
おきもち

禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺副住職。 悩みを吐き出す事で、ちょ...
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せっかくですから

拝読させて頂きました。
私達の命はどれも儚いものかと思います。そしてどれも尊いものかと思います。

また見方考え方にもよるとは思いますが、与えられた命をひと時ひと時生きていくことは幸せなことかと思います。
それぞれご縁を頂いてそれぞれに尊い命を頂き今ここにありますからぬ。
ですからあなたも私も共に生かされております。
とはいえ時が経つとあなたの命も私の命もまた移り変わっていきます。

仏様の目線から見ればどの様な命も等しく尊いものでしょう、仏様は全ての命をお救いなさってくださいますから仏様の慈しみは真の平等かと思います。

であるならば私達はこの日この日をいかに生きていくかですよね。

私達の命は明日かもしれません、明後日或いは一週間後かもしれません、また今年一年かもしれませんし、五年十年或いは三十年かもしれません。
それは誰しも明確にはわからないのです。
どんなに科学や医学が発達しようともわからないのです。

どうかこれからの毎日を心から健やかに充実して生きてくださいね。せっかく与えられた命ですからね。

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おきもち

Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
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全ては因縁次第

あさがお様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

全ては因縁(原因と条件)次第。

世間で良いとされることも、悪いとされることも、仏教で良いとされることも、悪いとされることも、全ては因縁次第となります。

それらの因縁と結果の流れをより良くに調えていくための教えが仏教となります。

今の命をどう活かして、更に来世へも続いていく流れをどうより良くしていくべきか、それは、吉武文法様もおっしゃられておられますように、長短の問題ではなく、質の問題となります。

是非、良い流れへと向けて、しっかりと仏教を学び修して参りたいものでございます。

川口英俊 合掌

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有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

法覚寺 吉武様    円通寺 邦元様   一向寺 kousyo kuuyo Azuma
 ご回答いただきましてありがとうございます。

今、愛するものの突然死に直面していて、命や死についてばかり考えています。

読ませていただき、勉強になり、とても考えさせられました。

ありがとうございました。

岩瀧山 往生院六萬寺 川口 様
ご回答いただきありがとうございます。
全ては因縁(原因と条件)次第。今の私には、本当の意味での理解が出来ていない気がします。
こういう今こそ、仏教を学ぶべき時なのだと自分でも感じております。
ありがとうございました。

「死について」問答一覧

死別シングルマザー

夫と死別し、半年経ちました。 死後の手続きなどでバタバタと、忙しくしていましたが、この頃PTSDの症状がでて、とうとう仕事にいくこともできなくなりました。 一ヶ月の休職ですが、休んでる間に収入の不安、子どもたちのこと…色々と考え過ぎてよけいに具合が悪くなっている気がします。 職場からは、また笑顔で戻ってくることを待ってますと温かい言葉を掛けてもらっているのですが、夫を看取った病院が職場の直ぐ側であることや、救急車が頻繁に通ることなどから、正直一ヶ月休んだところで復帰する元気があるかわかりません。何も前に進めない自分に自己嫌悪の毎日です。お金の不安と、パートナーを失くしたことから『風俗』で働いて少しでもお金を…と浅はかな考えも拭えません。時間が長く感じます。こんな姿を夫が見たらなんて思うだろう。夫じゃなくて、不器用な私が先に亡くなればよかったのにとまで考え込んでしまいます。周りには自分のように30代で配偶者を亡くした人はおらず、まるで腫れ物のように感じます。他の家庭を見ると、赤ちゃんが生まれた…家を建てる…夫婦仲良く子育てできてて自分にないものばかり目に映り、生きづらいです。

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「周りの人間の死」への向き合い方

「周りの人間の死」への向き合い方が分からず、恐らく変な方向に価値観が向かってしまい、常に一定の苦しみを抱えてしまっています。 無理やり挙げるとすれば、恐らく一番大きなきっかけは、2年前に母の母である祖母が急死されたことだと思います。大きな病気やケガもなく元気に畑で過ごしていた祖母の急死に頭が追い付かず、又様々な状況を理由にしばらく会えなかったことや、恩返しなども出来なかったと感じたことによる後悔と主に、「人は急に死ぬこともある」といった至極当然のことに恐怖を覚える様になりました。 その"急死"は脳内で"事故死"等に変換されたようで、現在は「自分が何か人に頼むことで事故死するかも」といった恐怖をもってしまっています。私が親に頼んだ買い物の道中で死ぬかも、私が選んだ待合場所のせいで、指定した時間のせいで友人が死ぬかも、と思うと、所謂"普通の価値観"で人に頼る事、あまつさえ意見や提案事の提示も難しくなってしまいました。 正直自分の死は大して怖くはありません。ただ、もしそういった状況で知人が亡くなってしまえば、仮に明らかに自分のせいではなくとも「自分がこの人を殺した」と思ってしまうに違いないと感じています。又そういった気持ちを抱えてその後の人生を全うできるとは到底思えません。 バタフライエフェクトのレベルで「人の死に関与したくない」といった気持ちが大きくなってしまい、生き苦しさを感じてしまっています。 この価値観が、俗にいう「変・ずれている・間違っている・過剰」ということは頭では理解できているつもりです。ただ、どうにも心がこういった考えを除いてくれません。 もし仏教などを用いて少しでも楽に生きることが出来るのであれば、と思い、相談させていただいている次第であります。ご意見をお伺いできますと幸いです。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 2
回答数回答 1

病気になって死を考えるようになった

現在,一人暮らしをしている中年男性です。 先日から病気をしています。病気になって,一人暮らしなので,闘病しながら食事,洗濯の家事をしないといけません。また,食事のための買い出しも必要で,誰か助けてくれないかと,常に考えています。 知り合いに食事を作って持ってきてください,といった厚かましいお願いはできないもので,そういったお願いができる知り合いがいるわけではありません。 闘病を続けながら,食欲もなく,痩せていくし,気力も失ってきています。 また,コロナ禍で,一人亡くなっていった方もこのようなつらい状況であっただろうと想像し,そのため可能であれば入院させていただいて,看病していただけないかと,勝手な思いが巡ります。 そして,こんなに苦しい状況なのに,これを乗り越えて「生きる理由」はあるのだろうかという考えが頭をよぎっています。 ある程度の人生は送ってきました。これから先もいろいろと楽しみもあると思いますが,生老病死は,四苦なので,病気を克服するのも,その後,克服した後に生きていくのも苦しいのだろうと,勝手に解釈をしたりします。 だったら,もうここでいいや,と思ったときは,死ぬことができたらいいなぁ,眠るときにこのまま目覚めなければいいな,と考えるようになっています。 自死については,以前は否定的ではありましたが,闘病の中で,それは個人個人の自由でいいのではないかと思うようになりました。 自死していった方は,苦しい中,生きることに耐えられなかったのだろうなと,共感できる心持になっています。 病気をして,手厚く看病してくれる人がいる状況であれば,それはそれで,心配してくれる人のために生きる理由があっていいのですが,そうでない私は,一人で非常に苦しい,不安です。そんな私が,命尽きるまで闘病するかもしれないという選択をして,生きる理由はなんでしょうか。 誰も助けてくれる人もいない,ただ病気と闘って,死を待つだけかもしれない。 最後は,一人,孤独死を迎えるのかもしれないと思うと,寂しく,不安です。 そういった中で,このサイトに行き当たりました。 取り留めない文章になりました。 回答をいただければ幸いです。

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死んではいけない理由を教えてください

駄文につき失礼致します。 私は大学生です。 様々なストレスが重なりうつ病を発症しました。目下治療中です。 薬を飲み始めてからは落ち着きましたが、昔は希死念慮がよくありました。漠然と死んでしまいたいと思うことがよくありました。 投薬による治療や、様々な死生観等に関する書籍を読むうちに次のような価値観が形成されました。 死んでしまっては選択肢がなくなる。 生きているうちは選択肢が無数にある。 生きる事に行き詰まって選択肢がなくなってしまったと思ったら、死ぬことを考えよう。 これは今私が生きている理由の一つですが、この考えは一見生きることに前向きなようで死ぬことを否定していないのです。 言い換えれば、いつでも死ねると言う風にも捉えられます。 私は今のところ死ぬことは勿体無いと考え自殺を踏みとどまっていますが、自殺を否定する理由は未だに見つけられていません。 生きている限りいつかは死が訪れるものであり、やがては受け入れなくてはいけないものだと考えていますが、自ら死に近づく行為はいけない事なのでしょうか? 確かに、人が皆自殺を礼讃するようになれば人間社会は成り立たなくなってしまいます。 しかしながら生きることが権利ならば死ぬこともまた同様なのではないかとも考えてしまいます。 どなたかお力添え頂ければ幸いです。

有り難し有り難し 14
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ