動物の命の尊厳について
この間ネットサーフィンしていましたら、人間は生き物の犠牲の上で生きている。その現実を知るべきだ。というページを見つけてしまい、見てしまいました。
日本の屠殺施設、中国の食用犬の最後など。
なんと人間は残酷なのかと眩暈に襲われました。
もちろん、私も命を頂いて生きているとは理解していましたが、惨たらしい現実に涙が止まりませんでした。
屠殺場に入りたがらない豚をスタンガンで追い立て、
屠殺場に入りたがらない牛の尻尾を折り、力任せに鼻を引っ張る。
中国では犬を失神させ生きたまま首を切る。
こんな悲しい最後を迎えた生き物たちは、輪廻転生してくるのですか?
それとも、その輪から離れ安楽浄土の世界で幸せになれるのですか?
そんな最後を迎えさせた人間は輪廻転生して、殺される側に回るのでしょうか?
もちろん、その命を頂いた私も含めて…
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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悲しい現実
仰る通り、私たち生物は他の命をいただいて、己の命を守っています。
「他の命を絶って、自分の命を繋ぐ」、ここに関しては、良い悪いではなく「生き物としての悲しきサガ」であります。これはベジタリアンやヴィーガンならどうなるとかではなくて、生きとし生けるもの全てが命あるものとした上での「命をいただく」という意味です。
残る問題点は、それら命の「絶ち方・いただき方」なんですよね。
現代の屠殺施設の実体や食肉加工の現場を詳しくは存じ上げませんが、業態というかシステムというか、世の中のニーズに合わせて、そして最後は「商売」という大義名分が盾になって、このような惨いかたちでのいわゆる「処理」が常態化して為されてしまっているのだと思います。
そうまでして命を絶たねば供給が追いつかない程、人類は増えすぎたということにもなるのでしょう。
さて、食料としてこの世を終えた彼らは、はたして輪廻転生するのか安楽浄土の世界へ行けるのか、そしてそんな最後を迎えさせた人間は輪廻転生して、終には殺される側に回ってしまうのか…私にはわかりません。
ですが私達は、食事に対して最低限の礼を尽くすことができます。「いただきます」に始まり「ごちそうさまでした」に終わる。食べるときは食べることに身も心も投じる。そしていただいたものは残さない。これら基本的なことが実は如何に大事なことか。
南米の奥地の秘境に住まうある原住民は、弓矢で狩りをするとき、まず初めにその獲物一匹一匹へお祈りをあげてから、矢を射るそうです。我ら都会の現代人にも、こういった「いただく命」への真摯な姿勢が、常に求められて然るべきだと、私は思います。
蚊を殺すのと同じ
いずれにせよ、人間もいつか死にます。
殺される場合もあります。
殺したり殺されたりしなくてすむのは、「成仏」して輪廻転生から卒業した者だけです。
成仏するためには、煩悩をなくす必要があります。
だから仏教を学ぶのです。
動物達も輪廻転生します。
動物達が、来世で仏教を学べるチャンスに巡り会えたらよいですね。
牛や犬を殺すのも 蚊を殺すのも、同じです。
大型の哺乳類だから感情移入してしまうだけです。
蚊を殺すときも、牛や犬が殺されるのと同じだと思って、できるだけ殺さないようにしてください。
私達にできることは、殺生する数を減らすことくらいではないでしょうか。
そういう意味では、牛1頭でたくさんの人のお腹を満たせますが、しらす丼だったら1人前のためにかなりの数のお魚を殺す必要がありますね。
だから、クジラや牛など、大型動物の肉を食べる方が、殺生される個体数は少なくて済みます。
食べ物で言うと、乳製品なんかは、牛乳はもともと子牛に飲まれるものだから、殺生は少なくて済む食べ物かもしれませんね。
あと、怒りなど煩悩は成仏の妨げになります。
ネットを見て悲しくなるのもまた、怒りの一種です。
怒りの感情に飲み込まれないように気をつけてください。