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般若心経と宗派の違い

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先日、亡き主人が幼少の頃からとてもお世話になっていた近所のおばさんが御参りに来てくださいました。

その方は般若心経を唱えていらしてました。おそらく全て唱えていたと思います。
凄い!とその時は素直に思ったのですが、後になって少し疑問が・・・

我が家は真宗大谷派。般若心経は確か別の宗派。
いいのかな?悪いことはないやろうけど、教えが違うと伝わらないとかないのかな?と思ったのです。

それ言ったらキリスト教の人なんか御参り行かれへんやん、とも思ったのですが(((^^;)

お坊さんはどのようにお考えなのか知りたく質問させていただきました。

くだらない質問ですがよろしくお願いしますm(_ _)m

2017年8月20日 8:24

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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

お釈迦様に宗派はありません

宗派が異なるのは乗り物が違うだけで行先は同じです。
バスでもバイクでも自転車でも徒歩でも新幹線でも特急でも各駅でも行先は同じ。
今いるところ以外にありません。
私たちの口は緑茶も紅茶もウーロン茶もコーン茶もチャイもジャスミン茶もコーラもサイダーも何でも飲み込めます。それが本当のおおらかな宗教心です。
あいつはウーロン茶だからダメだというのは人間を狭くする考え方ですから仏教的ではありません。

2017年8月21日 9:35
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おきもち

丹下覚元(たんげかくげん)
☎お悩み相談 📞08020659278 法話禅会 毎週日曜3時より...

悟り・涅槃へと向けて

ゆかぽんたす様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「般若心経」は、仏教の目的である「悟り・涅槃」へと向けて修習すべき二つの資糧である「智慧と福徳」のうちの、「智慧」における「空」を理解するための重要な内容が扱われております。

あくまでも私見となりますが、阿弥陀如来様の極楽への「往生」を重視される浄土真宗さんにおいては、「往生」にとって「般若心経」(の内容)は必要のないものである(あるいは、往生の妨げとなる、または、自力にあたる、更には、浄土真宗さんにおいて否定されるべき呪術にあたる)と考えられてはいても、最終目的となる「悟り・涅槃」へと至るためには必要になるものであるのではないだろうかと解しております。

まあ、現世では扱わないとしても、いずれにせよ、極楽に往生してから、阿弥陀如来様による教化によって、「般若心経」の内容についても修習することになるのではないかとは存じます。

確かに、中途半端にこの凡俗の身のままで「般若心経」の内実の理解を目指すよりも、極楽で阿弥陀如来様の教化を直接に受ける中であれば、完全な理解に近づくことになるということで、何よりも「往生」を優先させるということも、もちろん理解できなくはないのですが・・

とにかく、「悟り・涅槃」へと向けては確実に「般若心経」の内容は必須となりますので、「智慧」の向上のために、できる限り、その理解に努めて参りたいものとなります。

さて、ご質問の回答となりますが、「般若心経」読経による功徳を、亡くなられた方へと(だけではなく、全ての衆生が救われるためにとしても)回向することは、亡くなられた方(のみならず、全ての衆生)が、悟り・涅槃へと至れるための智慧と福徳へと資するものとして大切となるのではないだろうかと存じます。

ですので、拙見解では問題ないと考えております。

また、「般若心経」に関しましては、読誦と共に、何よりもその内容の理解も必要となります。下記拙論も少しくご参照を下さいましたら有り難くに存じます。

『般若心経における「空」について』
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/93cd51b49c2264eb00fcc00a904a3392

川口英俊 合掌

2017年8月20日 20:13
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おきもち

川口 英俊
「僧侶は、悩む人に正しいくすりを調剤できる薬剤師であれ」 http:...

改めて

拝読させて頂きました。
おっしゃるとおり真宗さんでは既に阿弥陀様に救われております。ですから報恩感謝のお念仏おとなえすることが何よりでしょうから基本的には般若心経おとなえなさらないでしょうね。(教義的には真宗大谷派のお坊様から教えて頂くことが最善と思います。)

私は浄土宗僧侶ですからくだらない回答かもしれませんが…。
般若心経は大乗仏教の大変重要な経典ですからおとなえなさることでその功徳は充分あります。まして亡き人を供養する為におとなえなさるのであれば大変功徳はあると私は思いますよ。

真宗さんも大乗仏教の教えを持った教団ですからね。

大切なことは親しい方がお亡くなりなさった方を真心こめてご供養なさるその心や行いです。
それは大変有難いことです。
そのお気持ちや行いを素直なお気持ちでお受け取りなさることが大切ではないでしょうか。
そしてきっとご主人様にその方のお気持ちや行いは伝わっていますからね。
きっとその方がご供養なさってご主人様は本当にお喜びなさり感謝なさっていらっしゃるでしょうからね。

いかがでしょうかね。あなたはどう思われますか?

改めて

きっとご主人様は極楽浄土からおばさんに微笑みかけてお喜びなさってくださっていますね。どうかご安心なさってくださいね。
心より南無阿弥陀仏 合掌

2017年8月20日 13:31
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Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして9年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラー...

基本は同じ

これはあの宗派とは違うからダメなんじゃないの?とか、いろいろ宗教、宗派あるけど何で分かれてるの?など、ごもっともなコト。よく聞かれます。
こういう時、私は以下のように答えております。

「皆さんがお乗りになる車、いろんなメーカーが出してますけど、どれも同じ『車』ですよね」と。

基本性能である「走る&曲がる&止まる」という条件を満たした上で、世界中のメーカー各社は様々な種類の車を作っていますが、そのどれもがそれら基本性能は同じであります。どれに乗っても根本的構造と機能は変わらないのです。
ですがそこから先は、例えば居住空間が広い、低重心で運転しやすい、低燃費でエコロジー&エコノミー、スポーツカーライクな走りを体験できる、安いのに高級感ある内装、シートアレンジの自由度が高い、エキゾーストノートが心地良い、荷物がたくさん載る、視認性が高い、限定バージョンだ、最高速度やトルクがなんだかんだ… などと、車によってのいわゆる「特徴や用途」が違ってくるということになります。メーカー各社はそれぞれに競合しながら、それまでに培った技術の粋を集め、多様な車を世に送り出すのです。
だがそれはなぜか。「都合」であったり「好み」であったり、場面場面での車の「使い方やニーズ」が人によって変わるからです。宅配業者や引っ越し業者がGT-RやNSXを使っていては全く仕事ができませんし、F1のプロドライバーがスズキの軽トラで出走してもおそらく優勝は狙えないでしょう。

過去の高僧方々は、ご自身なりの「切り口」で、お釈迦様の説かれた「教え」を様々な方向からかみ砕いて、それぞれの方法で取り込んでそれぞれに表現していきました。その結果、特徴的なものとして分かたれた仏教の分流が、「宗派」というかたちで今日まで伝わってきたのです。それが我が国に現在残っている13宗56派の既成仏教でございます。

私達が手を取り合い、より良く生きるための教えは、もはや仏教だ神道だキリスト教だなどの区別をすべきところですらないでしょう。そこに向かう基本性能は誰のどの教えも同じ(であるべき)なんです。
じゃああなたにとってその「教え→基本性能」に取っ付きやすい、またはその他にも魅力を感じ、且つ用途に合った機能のある「宗旨→車」を作っているメーカーはどこですか?それが「宗派」というわけです。

2017年8月21日 12:22
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おきもち

TAIKEN(FDN)
アラフォー若僧の超個人的なボヤキだと思ってくだされば幸いです。 いろ...

質問者からのお礼

kousyou様

早速のお返事ありがとうございます。
おばさんは主人のことをわが子のように接してくださった方でしたので、唱えていたのが何であろうと主人を思ってのことであり、きっと届いていたと思います。

くだらない疑問なうえに私の文才のなさが手伝って何が聞きたいかよくわからない質問になっちゃいましたね・・・

すみませんでしたm(_ _)m改めてありがとうございますm(_ _)m

川口様

とても詳しくありがとうございます。

般若心経は聞いたことはあってもそれがどう言った内容とかは考えたこともありませんでした。

主人の死をきっかけに仏教について考えることがとても多くなったのでこれを機に色々触れてみたいと思います。

丹下様

乗り物での例え、よくわかりました。
行き先は同じなのに、少しでも疑問を抱いた自分が少し恥ずかしくなりました汗

ありがとうございます。

TAIKEN様

よく聞かれることなのですね、わかりやすい説明をありがとうございます。

そして宗派がいっぱいあることにも驚きました。それぞれタイプは違っても同じ「車」なんですね。なんかすごく腑に落ちました。

「般若心経」問答一覧

お坊さん達ではどう実態の話をしてますか

私は般若心経に影響を受けています。 ここに机があります。私達はこれが無いと知っています。誰かが、それは机でそこにあって、木で出来ていて茶色で硬いと言います。 私にも茶色に見えるし、ぶつければ私は痛いです。 でも、やっぱり茶色は無いし、机もないし、私も無いです。 それでも痛いのは嫌で、そこに机があると考えて生活します。でも、あらためて眺めると、やっぱり無いです。 強いて言えば、さっきまであった、と言うかなと思います。でも、無いから『さっき』と言うのもいま言ったけど変だと思っていて、さっきも無いんだけど強いて言えばにすぎず、とにかくいま、机は無いよ、と思います。 私達はそこに水色のティーカップが見えていて、私にも見えています。でも、無いし、としか言いようがないく、水色もない。強いて言えば、その子が自分を水色と思っているでしょう、私もそれを水色と思っています。でも、そこに水色は無いと私達は知っています。 私達は、と言ったのは、きっと同じ話をしていると思っていますが、お坊さん達の間では違うのか、聞きたいと思いました。どこかは違うと思います。 その子の水色が無いと知っていますが、その子が「私、水色でかわいいの」と言ったら、ああ、水色だよ、それにかわいいよ、と言うと思います。 私は無いです。神も無いと思っています。私がいたら神もいる、私が無いなら神も無いと考えています。両方ある、と両方ないのどっちかしかないと思い、ところで実際どっちも無いよねえ、と思います。お坊さんはこう言っていないと思いました。 目の前に、机があり、傍らにまた水色のティーカップが見える、でも私達はこれが無いとしか見えないと思います。 私は、ひょっとして自分は時間の話をしているのかなとよく思います。 時間の話であれば、さっきと呼ぶものもなく、今机があるという事も起きていません。 今そこにあるという概念がなく、この机に対して机があると言える事実はなく、とにかくえんえん無いんだが、と思ったり仏陀は荒唐無稽で精神世界に限った話をしたのでは無さそうに思ったりします。 あると思っていて、としか言いようがない机をまた見て、もう無いとしか見えないし、ところであらためてそこに机があると言ってみる必要あるんだろうか、言わなくていいと思う、と考えたりします。私は時間の話をしているのでしょうか。 お坊さん達は違う話をしていますか?

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ぎゃーていのサンスクリット語での語感は

先程の質問で頂いた回答の一部が、ツボにはまってかなり笑い続けています。まだ眠れません。 そこで新たに質問で聞いてみたくなったので、よろしくお願いいたします。 私がはじめて般若心経を読んだ本では、ぎゃーていぎゃーていの部分は『往き往きて』と書かれていました。何年か後、別の何かで『行こう行こう』と書いてあったと思います。 最近は知らないですが、行こう行こうなのかな?と思います。 ところで私は、日本語訳と原文の英語があった場合、もちろん日本語の方が分かりやすいのですが、英語は英語で元の感触というか、日本語訳との違いを感じ、英語の方が元々伝えたかった感じをよく伝えてるだろう気がしたりします。ネイティブはまた私と違う感じで書いてるかもしれませんが、日本語訳も合ってるのに違いがある気がするって面白いなと思ったりします。ぎゃーていのサンスクリットの感じって、日本語で読んだときと違うなって思った方はおられますか? 私は『ぎゃーていぎゃーてい』と『往き往きて』では、ぎゃーていが分からなさ過ぎて違いがありません。 行こう行こう、と言ってる言葉自体が邪魔なのかな、と思いましたが、サンスクリット語を私が語学として言語を知っていたら「ぎゃーていは必要だよ!」と思ったりするのかな、と聞いてみたくなりました。

有り難し有り難し 13
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学びと般若心経

私は霊媒体質で、何回か、質問させて頂いております。小さなころから般若心経を祖母ととなえて、お寺さまの禅宗のつどいの先生役もいたしました。 それで、いつしか、般若心経から離れてはいたのですが、介護施設で働いていて、肩こりが治らなかったおばあちゃんがなんか肩にのっているのがわかり祓ったげました。そのあと、私の体に来たのですが、治り、施設入居者の方に500円でうってる般若心経お守りをさしあげました。般若心経は空にする力が強く、悪魔、天魔も祓うまた、供養と、災厄祓う、自分自身を空にするお経と思っています。そのあと、神社に、お祓いはいったのですが、般若心経がなぜか唱えれない自分に気づきました。般若心経が怖くて仕方ないのです。また、般若心経を調べると浮遊霊をよぶだのそんな情報ばかりくるのです、数日たってから訪問介護先で、セクハラにあいました、そのときに、お守りとして、観音経25と、咄嗟に不動明王さまの真言でした。お不動さまたすけて、神様、仏さま助けて! と念じた瞬間相手の力が弱まりすぐ、車に避難。大事にはならなかったです そのあとお友達が、私の通いつけの神社に、つれてってくれて感謝しました。そのあと、急に父が般若心経の経本がほしいといいプレゼントすることにしたのですが、神道でも唱える般若心経を慣れ親しんだ私は何故唱えなくなったのだろう?と内観しました。江原さんの本に憑依されるのは自分自身が、原因とかいてあったし。おかしいな、、と。そして私は天魔に騙されてる自分に気づきました。危ない危ない、、仏恩感謝、神恩感謝。般若心経をまた、唱えたいと思いました。合掌

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般若心経とキーマカレー

いつもお世話になっております。 ここのところ、仕事の関係で4時半起きが続いています。 窓を開け放ち、心地よい朝の風を感じ、薄暗い朝が明けてゆく風景。 お日様が上ったら手を合わすととても気持ちがいいです。 毎朝、雀にパンや米粒をあげていたら、網戸を開ける音で分かるのか、どこからか数羽やってきて、チュンチュンと催促をするのが何とも可愛らしくて。 仕事に行く前に最低限のニュースだけ観てゴシップ系が始まったらTVを消す。 あーだのこーだの余計な情報は要らないのです・・・。 毎日拝読しているhasuhohaお坊さま方のご回答と、 繰り返し読んでいる一冊の禅宗老師の本が私の仏道の全てです。 こんな私も苦労はしています。いろいろあって給料は右から左。 でももう物欲もありません。すっきりとした感覚です。 一日一日、丁寧に過ごせて、ご飯食べれて、 みんなが安寧で過ごしていてくれたらそれで幸せです。 hasunohaの常連様方にも一喜一憂したり。 あー、帰ってきれくれた!(涙)とか。 でも、それはそれ。 このサイトに出逢わなかったら「人のしたことしなかったことを見ないで、自分がしたことしなかったことを見なさい」というお言葉を知らなかったかもしれません。 私にとっては、人生において非常に大きなお教え(教訓?)なのです。 さて本題ですが、この間キーマカレーを作っていたらトントントンという音に合わせて般若心経が何度も頭の中で流れてきました。 しんむーけーげーむーけーげーこー・・・この部分からばかりなのですが。 (何年か前までは普通にJ-POPが流れてましたが(笑)) 時々キッサコさんを聴いていた影響もあるのでしょうかね。 こんな時は流れに乗せて料理を作りながら唱えていたら良いのでしょうか?たぶん延々ですが・・・。 お盆前のお忙しい時節に、お気楽極まりない質問で大変恐縮です。 お手隙の時にお教えいただけると幸いです。 あ・・・仕事・体調不全・恋などに悩んでいる我が娘に、 「こだわりが過ぎると苦しみが大きくなるよ~」とメールしたら、「悪に対しては復讐しかない」と返事がきました。 囚われずに生きていければ少しは楽になるのになと思いながら娘の中にはまだまだマーラが住んでいるようです。 困ったものですが、流れにそってボチボチやっていきます。 (余談になっちゃいました。すみません。)

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般若心経の「無無明・亦無無明尽・・・」の部分について

こんにちは。 前回質問から、般若心経の「無無明・亦無無明尽・無老死・亦無老死尽」 の部分が、やはり気になってしまってるので質問させて頂きます。 この部分は十二縁起についての言及との事ですが、 十二縁起を乱暴ながら私なりに要約すると 根源的な無知(無明)→生存本能と外界知覚(行・識・名色・六処)→本能と分かち難く生じる煩悩(触・受・愛・取)→本能と煩悩で成り立つ生存(有)→生存する主体として「私」という想念が生じる(生)→「私」はいずれ死ぬ(老死) と、言う事でしょうか。 私の考えでは、この部分について般若心経は 「どんなに達観しても十二縁起の因果関係は断ち切り難い」 (「無」無明尽・「無」老死尽→否定としての「無」) けれども 「物事をありのままに見れば(空相にて照見すれば) 全てが、かけがえのない真実と分かる」 (「無」無明・「無」老死→空相、全体性としての「無」) と「無」と言う言葉が違った使われ方をしているように 思うのですが如何でしょうか? 字面通りに読めば「Aは無いけど、Aは尽き無い」と言う二律背反になり、 これでは意味の全く通らないナンセンス文章です。 この部分、般若心経を読む誰もが最初に「あれ?」と思う所ですが、 腑に落ちる説明をしている本がありません。(偉そうに言える程、 本は読んでないですが) 中には「十二縁起なんて形式にこだわるのは小乗仏教だ。 般若心経は大乗仏教だからそんなものに拘らない」 とバッサリ斬っている書籍もあります。 そんな単純なものでもないと思うのですが・・・ 解釈は色々あるかもしれませんが、お考えをお教え頂ければ幸いです。 何だかマニアックな質問になってしまいすいません。

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般若心経の「無」について

こんにちは。 般若心経の 「無色無受想行識・無眼耳鼻舌意・無色声香味触法」 の部分について疑問があるので質問します。 般若心経で「空」と言うと、単に「無い」とか 「虚しい」とか言うものではなく、 「縁起として存在し、固有の実体を持たず、執着の対象ではない」 と言う程度に私は認識しています。(間違っていたらご指摘ください) しかし「無」となると、どのように読めば良いのでしょうか? 「無」も「空」と同じようなものとして考えれば良いのでしょうか? 上記の部分について、字面通りに受け取ると 「すべての感覚器官と意識作用をシャットアウトせよ」 て言ってるようにも受け取れてしまいます。 もちろん、そんな単純な事ではないと思うのですが・・・ 「現実をそのままに見よ」と言うのが 仏教の基本的な考え方だと思うのですが、 「無」と言う字で表わされては「見るな、聞くな、・・・」と 言っているように思えてしまい、ひいては現実世界そのものを 否定しているようにも思えるのですが、 如何なものでしょうか? それとも、このように字面を捉えて理屈で考える事自体が 仏教の本質から遠ざかっているのでしょうか? 最近、毎日お唱えしている般若心経ですが、 上記の部分が妙に気になってしまうので質問しました。 ご教授頂ければ幸いです。

有り難し有り難し 59
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