般若心経と宗派の違い
先日、亡き主人が幼少の頃からとてもお世話になっていた近所のおばさんが御参りに来てくださいました。
その方は般若心経を唱えていらしてました。おそらく全て唱えていたと思います。
凄い!とその時は素直に思ったのですが、後になって少し疑問が・・・
我が家は真宗大谷派。般若心経は確か別の宗派。
いいのかな?悪いことはないやろうけど、教えが違うと伝わらないとかないのかな?と思ったのです。
それ言ったらキリスト教の人なんか御参り行かれへんやん、とも思ったのですが(((^^;)
お坊さんはどのようにお考えなのか知りたく質問させていただきました。
くだらない質問ですがよろしくお願いしますm(_ _)m
ダイエットしなくてはならないのに食べ物お酒の誘惑に負けてしまう(T^T)
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
お釈迦様に宗派はありません
宗派が異なるのは乗り物が違うだけで行先は同じです。
バスでもバイクでも自転車でも徒歩でも新幹線でも特急でも各駅でも行先は同じ。
今いるところ以外にありません。
私たちの口は緑茶も紅茶もウーロン茶もコーン茶もチャイもジャスミン茶もコーラもサイダーも何でも飲み込めます。それが本当のおおらかな宗教心です。
あいつはウーロン茶だからダメだというのは人間を狭くする考え方ですから仏教的ではありません。
悟り・涅槃へと向けて
ゆかぽんたす様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「般若心経」は、仏教の目的である「悟り・涅槃」へと向けて修習すべき二つの資糧である「智慧と福徳」のうちの、「智慧」における「空」を理解するための重要な内容が扱われております。
あくまでも私見となりますが、阿弥陀如来様の極楽への「往生」を重視される浄土真宗さんにおいては、「往生」にとって「般若心経」(の内容)は必要のないものである(あるいは、往生の妨げとなる、または、自力にあたる、更には、浄土真宗さんにおいて否定されるべき呪術にあたる)と考えられてはいても、最終目的となる「悟り・涅槃」へと至るためには必要になるものであるのではないだろうかと解しております。
まあ、現世では扱わないとしても、いずれにせよ、極楽に往生してから、阿弥陀如来様による教化によって、「般若心経」の内容についても修習することになるのではないかとは存じます。
確かに、中途半端にこの凡俗の身のままで「般若心経」の内実の理解を目指すよりも、極楽で阿弥陀如来様の教化を直接に受ける中であれば、完全な理解に近づくことになるということで、何よりも「往生」を優先させるということも、もちろん理解できなくはないのですが・・
とにかく、「悟り・涅槃」へと向けては確実に「般若心経」の内容は必須となりますので、「智慧」の向上のために、できる限り、その理解に努めて参りたいものとなります。
さて、ご質問の回答となりますが、「般若心経」読経による功徳を、亡くなられた方へと(だけではなく、全ての衆生が救われるためにとしても)回向することは、亡くなられた方(のみならず、全ての衆生)が、悟り・涅槃へと至れるための智慧と福徳へと資するものとして大切となるのではないだろうかと存じます。
ですので、拙見解では問題ないと考えております。
また、「般若心経」に関しましては、読誦と共に、何よりもその内容の理解も必要となります。下記拙論も少しくご参照を下さいましたら有り難くに存じます。
『般若心経における「空」について』
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/93cd51b49c2264eb00fcc00a904a3392
川口英俊 合掌
改めて
拝読させて頂きました。
おっしゃるとおり真宗さんでは既に阿弥陀様に救われております。ですから報恩感謝のお念仏おとなえすることが何よりでしょうから基本的には般若心経おとなえなさらないでしょうね。(教義的には真宗大谷派のお坊様から教えて頂くことが最善と思います。)
私は浄土宗僧侶ですからくだらない回答かもしれませんが…。
般若心経は大乗仏教の大変重要な経典ですからおとなえなさることでその功徳は充分あります。まして亡き人を供養する為におとなえなさるのであれば大変功徳はあると私は思いますよ。
真宗さんも大乗仏教の教えを持った教団ですからね。
大切なことは親しい方がお亡くなりなさった方を真心こめてご供養なさるその心や行いです。
それは大変有難いことです。
そのお気持ちや行いを素直なお気持ちでお受け取りなさることが大切ではないでしょうか。
そしてきっとご主人様にその方のお気持ちや行いは伝わっていますからね。
きっとその方がご供養なさってご主人様は本当にお喜びなさり感謝なさっていらっしゃるでしょうからね。
いかがでしょうかね。あなたはどう思われますか?
改めて
きっとご主人様は極楽浄土からおばさんに微笑みかけてお喜びなさってくださっていますね。どうかご安心なさってくださいね。
心より南無阿弥陀仏 合掌
基本は同じ
これはあの宗派とは違うからダメなんじゃないの?とか、いろいろ宗教、宗派あるけど何で分かれてるの?など、ごもっともなコト。よく聞かれます。
こういう時、私は以下のように答えております。
「皆さんがお乗りになる車、いろんなメーカーが出してますけど、どれも同じ『車』ですよね」と。
基本性能である「走る&曲がる&止まる」という条件を満たした上で、世界中のメーカー各社は様々な種類の車を作っていますが、そのどれもがそれら基本性能は同じであります。どれに乗っても根本的構造と機能は変わらないのです。
ですがそこから先は、例えば居住空間が広い、低重心で運転しやすい、低燃費でエコロジー&エコノミー、スポーツカーライクな走りを体験できる、安いのに高級感ある内装、シートアレンジの自由度が高い、エキゾーストノートが心地良い、荷物がたくさん載る、視認性が高い、限定バージョンだ、最高速度やトルクがなんだかんだ… などと、車によってのいわゆる「特徴や用途」が違ってくるということになります。メーカー各社はそれぞれに競合しながら、それまでに培った技術の粋を集め、多様な車を世に送り出すのです。
だがそれはなぜか。「都合」であったり「好み」であったり、場面場面での車の「使い方やニーズ」が人によって変わるからです。宅配業者や引っ越し業者がGT-RやNSXを使っていては全く仕事ができませんし、F1のプロドライバーがスズキの軽トラで出走してもおそらく優勝は狙えないでしょう。
過去の高僧方々は、ご自身なりの「切り口」で、お釈迦様の説かれた「教え」を様々な方向からかみ砕いて、それぞれの方法で取り込んでそれぞれに表現していきました。その結果、特徴的なものとして分かたれた仏教の分流が、「宗派」というかたちで今日まで伝わってきたのです。それが我が国に現在残っている13宗56派の既成仏教でございます。
私達が手を取り合い、より良く生きるための教えは、もはや仏教だ神道だキリスト教だなどの区別をすべきところですらないでしょう。そこに向かう基本性能は誰のどの教えも同じ(であるべき)なんです。
じゃああなたにとってその「教え→基本性能」に取っ付きやすい、またはその他にも魅力を感じ、且つ用途に合った機能のある「宗旨→車」を作っているメーカーはどこですか?それが「宗派」というわけです。
質問者からのお礼
kousyou様
早速のお返事ありがとうございます。
おばさんは主人のことをわが子のように接してくださった方でしたので、唱えていたのが何であろうと主人を思ってのことであり、きっと届いていたと思います。
くだらない疑問なうえに私の文才のなさが手伝って何が聞きたいかよくわからない質問になっちゃいましたね・・・
すみませんでしたm(_ _)m改めてありがとうございますm(_ _)m
川口様
とても詳しくありがとうございます。
般若心経は聞いたことはあってもそれがどう言った内容とかは考えたこともありませんでした。
主人の死をきっかけに仏教について考えることがとても多くなったのでこれを機に色々触れてみたいと思います。
丹下様
乗り物での例え、よくわかりました。
行き先は同じなのに、少しでも疑問を抱いた自分が少し恥ずかしくなりました汗
ありがとうございます。
TAIKEN様
よく聞かれることなのですね、わかりやすい説明をありがとうございます。
そして宗派がいっぱいあることにも驚きました。それぞれタイプは違っても同じ「車」なんですね。なんかすごく腑に落ちました。