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般若心経と宗派の違い

回答数回答 4
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先日、亡き主人が幼少の頃からとてもお世話になっていた近所のおばさんが御参りに来てくださいました。

その方は般若心経を唱えていらしてました。おそらく全て唱えていたと思います。
凄い!とその時は素直に思ったのですが、後になって少し疑問が・・・

我が家は真宗大谷派。般若心経は確か別の宗派。
いいのかな?悪いことはないやろうけど、教えが違うと伝わらないとかないのかな?と思ったのです。

それ言ったらキリスト教の人なんか御参り行かれへんやん、とも思ったのですが(((^^;)

お坊さんはどのようにお考えなのか知りたく質問させていただきました。

くだらない質問ですがよろしくお願いしますm(_ _)m


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

お釈迦様に宗派はありません

宗派が異なるのは乗り物が違うだけで行先は同じです。
バスでもバイクでも自転車でも徒歩でも新幹線でも特急でも各駅でも行先は同じ。
今いるところ以外にありません。
私たちの口は緑茶も紅茶もウーロン茶もコーン茶もチャイもジャスミン茶もコーラもサイダーも何でも飲み込めます。それが本当のおおらかな宗教心です。
あいつはウーロン茶だからダメだというのは人間を狭くする考え方ですから仏教的ではありません。

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悟り・涅槃へと向けて

ゆかぽんたす様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「般若心経」は、仏教の目的である「悟り・涅槃」へと向けて修習すべき二つの資糧である「智慧と福徳」のうちの、「智慧」における「空」を理解するための重要な内容が扱われております。

あくまでも私見となりますが、阿弥陀如来様の極楽への「往生」を重視される浄土真宗さんにおいては、「往生」にとって「般若心経」(の内容)は必要のないものである(あるいは、往生の妨げとなる、または、自力にあたる、更には、浄土真宗さんにおいて否定されるべき呪術にあたる)と考えられてはいても、最終目的となる「悟り・涅槃」へと至るためには必要になるものであるのではないだろうかと解しております。

まあ、現世では扱わないとしても、いずれにせよ、極楽に往生してから、阿弥陀如来様による教化によって、「般若心経」の内容についても修習することになるのではないかとは存じます。

確かに、中途半端にこの凡俗の身のままで「般若心経」の内実の理解を目指すよりも、極楽で阿弥陀如来様の教化を直接に受ける中であれば、完全な理解に近づくことになるということで、何よりも「往生」を優先させるということも、もちろん理解できなくはないのですが・・

とにかく、「悟り・涅槃」へと向けては確実に「般若心経」の内容は必須となりますので、「智慧」の向上のために、できる限り、その理解に努めて参りたいものとなります。

さて、ご質問の回答となりますが、「般若心経」読経による功徳を、亡くなられた方へと(だけではなく、全ての衆生が救われるためにとしても)回向することは、亡くなられた方(のみならず、全ての衆生)が、悟り・涅槃へと至れるための智慧と福徳へと資するものとして大切となるのではないだろうかと存じます。

ですので、拙見解では問題ないと考えております。

また、「般若心経」に関しましては、読誦と共に、何よりもその内容の理解も必要となります。下記拙論も少しくご参照を下さいましたら有り難くに存じます。

『般若心経における「空」について』
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/93cd51b49c2264eb00fcc00a904a3392

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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改めて

拝読させて頂きました。
おっしゃるとおり真宗さんでは既に阿弥陀様に救われております。ですから報恩感謝のお念仏おとなえすることが何よりでしょうから基本的には般若心経おとなえなさらないでしょうね。(教義的には真宗大谷派のお坊様から教えて頂くことが最善と思います。)

私は浄土宗僧侶ですからくだらない回答かもしれませんが…。
般若心経は大乗仏教の大変重要な経典ですからおとなえなさることでその功徳は充分あります。まして亡き人を供養する為におとなえなさるのであれば大変功徳はあると私は思いますよ。

真宗さんも大乗仏教の教えを持った教団ですからね。

大切なことは親しい方がお亡くなりなさった方を真心こめてご供養なさるその心や行いです。
それは大変有難いことです。
そのお気持ちや行いを素直なお気持ちでお受け取りなさることが大切ではないでしょうか。
そしてきっとご主人様にその方のお気持ちや行いは伝わっていますからね。
きっとその方がご供養なさってご主人様は本当にお喜びなさり感謝なさっていらっしゃるでしょうからね。

いかがでしょうかね。あなたはどう思われますか?

改めて

きっとご主人様は極楽浄土からおばさんに微笑みかけてお喜びなさってくださっていますね。どうかご安心なさってくださいね。
心より南無阿弥陀仏 合掌

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Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
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基本は同じ

これはあの宗派とは違うからダメなんじゃないの?とか、いろいろ宗教、宗派あるけど何で分かれてるの?など、ごもっともなコト。よく聞かれます。
こういう時、私は以下のように答えております。

「皆さんがお乗りになる車、いろんなメーカーが出してますけど、どれも同じ『車』ですよね」と。

基本性能である「走る&曲がる&止まる」という条件を満たした上で、世界中のメーカー各社は様々な種類の車を作っていますが、そのどれもがそれら基本性能は同じであります。どれに乗っても根本的構造と機能は変わらないのです。
ですがそこから先は、例えば居住空間が広い、低重心で運転しやすい、低燃費でエコロジー&エコノミー、スポーツカーライクな走りを体験できる、安いのに高級感ある内装、シートアレンジの自由度が高い、エキゾーストノートが心地良い、荷物がたくさん載る、視認性が高い、限定バージョンだ、最高速度やトルクがなんだかんだ… などと、車によってのいわゆる「特徴や用途」が違ってくるということになります。メーカー各社はそれぞれに競合しながら、それまでに培った技術の粋を集め、多様な車を世に送り出すのです。
だがそれはなぜか。「都合」であったり「好み」であったり、場面場面での車の「使い方やニーズ」が人によって変わるからです。宅配業者や引っ越し業者がGT-RやNSXを使っていては全く仕事ができませんし、F1のプロドライバーがスズキの軽トラで出走してもおそらく優勝は狙えないでしょう。

過去の高僧方々は、ご自身なりの「切り口」で、お釈迦様の説かれた「教え」を様々な方向からかみ砕いて、それぞれの方法で取り込んでそれぞれに表現していきました。その結果、特徴的なものとして分かたれた仏教の分流が、「宗派」というかたちで今日まで伝わってきたのです。それが我が国に現在残っている13宗56派の既成仏教でございます。

私達が手を取り合い、より良く生きるための教えは、もはや仏教だ神道だキリスト教だなどの区別をすべきところですらないでしょう。そこに向かう基本性能は誰のどの教えも同じ(であるべき)なんです。
じゃああなたにとってその「教え→基本性能」に取っ付きやすい、またはその他にも魅力を感じ、且つ用途に合った機能のある「宗旨→車」を作っているメーカーはどこですか?それが「宗派」というわけです。

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現代は実に「背負い込んでる」人が多いと思う。 別に自分が背負い込まなくて...
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質問者からのお礼

kousyou様

早速のお返事ありがとうございます。
おばさんは主人のことをわが子のように接してくださった方でしたので、唱えていたのが何であろうと主人を思ってのことであり、きっと届いていたと思います。

くだらない疑問なうえに私の文才のなさが手伝って何が聞きたいかよくわからない質問になっちゃいましたね・・・

すみませんでしたm(_ _)m改めてありがとうございますm(_ _)m

川口様

とても詳しくありがとうございます。

般若心経は聞いたことはあってもそれがどう言った内容とかは考えたこともありませんでした。

主人の死をきっかけに仏教について考えることがとても多くなったのでこれを機に色々触れてみたいと思います。

丹下様

乗り物での例え、よくわかりました。
行き先は同じなのに、少しでも疑問を抱いた自分が少し恥ずかしくなりました汗

ありがとうございます。

TAIKEN様

よく聞かれることなのですね、わかりやすい説明をありがとうございます。

そして宗派がいっぱいあることにも驚きました。それぞれタイプは違っても同じ「車」なんですね。なんかすごく腑に落ちました。

「般若心経」問答一覧

般若心経(2)

 「舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減」   これが第二のキーフレーズです。  「諸法」について花山勝友先生は「この世の中のあらゆる存在や現象」と解釈されていますので「宇宙」と解釈するのが正しいと思います。  横道にそれますが、「空相」は「空の姿」ですから、それに対比する「実の姿」があっての「空相」です。  従って本来はその前に「是諸法実相 生滅 垢浄 増減」(諸行無常)があるべきです。  「如是我聞」は釈尊が弟子(比丘)に説教するのが大部分ですから、常識的な会話は無に近いです。だから重要な「輪廻転生」の話はほぼ皆無です。  ここでも「諸法実相」が省略されたのでしょう。  では「諸法空相」に戻って、ちっぽけな「色」(身体)の説明になぜ宇宙を持ち出さなければならないのか不思議です。ここがキーポイントです。  「空の姿」の宇宙は自然界で唯一「閉じた系」です。  「閉じた系」の有用性は、皆様も中学、高校時代に物理で教わったように、「エネルギー保存の法則」です。  同じ空相でも「閉じた系」でなければ、「不増不減」(一定量)とはなりません。だから「色空相」として説明できないから宇宙を持ち出したのです。 これで「空(空性)」が「エネルギー」であることが確定したのです。    「是故空中、無色、無受想行識 無眼耳鼻舌身意無色声香味触法 無眼界  乃至 無意識界、無無明 亦無無明尽 乃至、無老死、亦無老死尽、 無苦集滅道、 無智亦無得、以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃」  「是故空中」とあるので、諸法空相を受けて、宇宙全体をエネルギーと見做せば、総てが無になることを説明したに過ぎません。  以上が「色即是空 空即是色」に関する説明です。  明治時代以前迄は、釈尊が悟りを開いたとき「これは非常に高尚で誰も理解できないだろうと」と布教を諦め、「この喜びのうちに生涯を終えたい」と神通力を駆使して自殺をし、彼岸に渡って「梵天勧請」事件を経て、再び生き返り諸転法輪を回したほど、難解な内容でしたが、現代では教科書で学ぶほど、「般若心経」は科学的常識となったのです。

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般若心経(1)

 今更ですが、仏教の体系が「真理」として「般若経」、「真実」として「般若心経」、論理として「阿含経」でまとまっていると考えていますので、今度は「般若心経」の解釈を試みたいと思います。  「観自在菩薩」とは釈尊が如来になる前の尊称であると思います。  次の「行深般若波羅蜜多時」が菩薩が如来になった瞬間と考えられます。  「照見五蘊皆空 度一切苦厄」 がこの般若心経の結論です。即ち「空(正確には空性)」を発見して、悟りを開いたのです。  「舎利子 色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」が第一のキーフレーズです。  「般若経」は「色即是空」だけですが、それは「真理」であって「色即是空、空即是色」が真実です。  色即是空の「空」が真実であれば、空即是色の「色」も真実です。しかし「空」と「色」は別物ですからこの「即是」は定性的な即是で、「物体」は総て「空」の集合体であるという意味です。  定量的にはそこに「縁起」が加わって「色」=「縁起」X「空」、「空」=「縁起」X「色」となります。  「色」は五蘊の中の身体です。身体はこの世限りの命ですから、科学の真実と一致するはずです。アインシュタインはe=mc^2の公式を発表し、広島、長崎の実験でこの公式が真実と確定されたのです。  e(空)=m(色)Xc^2(縁起)と対応します。  「受想行識亦復如是」  「受想行識」は通常総括して「心」と訳されてます。心も「空」で出来ているのです。

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無と空について

複雑な状況を抱えてしまい、何年か悩んでいます。詳しくはなしても分かりにくい、のと話したくない気持ちと話さない方がよいともアドバイスいただいたこともあります。自分の言ったことが原因で、人のうわさ話が原因ですが、それだけが問題ではありませんが、地域中にひろまり、仕事場にも影響を及ぼすようになり、うまくいかなくなり、悪意や馬鹿にされるだけでは終わらず、、嫉妬、妬みまでもかい、支障をきたすようになって困っています。 真実を打ち明けようと思っても、逆に悪くまわる可能性があるのと意味のないことに終わりそうなので、やめています。問題を解決するために般若心経や般若経などに興味をもち、無や空を行ずるようにこころがけています。しかし、無や空について、知識があまりなく、どう考えていってよいか分からず悩んででいます。以前、宗教に入っており、この世は現象世界だから、すべては実体のないものと教えていただきましたが、いざ問題がおこってしまうと現象としてほっといておいてよいはずがなく、どういう風に手をつけて解決しておいていいか分からずこまっています。現象を空と感じるとそこにいろいろな神様の守護がうけれるようなことを般若経には書いてありました。それから空を行ずることによって得られる功徳はかぎりないものだということも書いてありました。私も空を行して現象をすこしでもよいものにしていきたいのです。現実界で講じれる手段はしつくしたように感じることもあります。というかする手立てがあまりないのです。下手にかかわるとよけいひどく非難を受けたり、都合の悪い結果を招きそうな気がしています。自分を変えていきたいという願いも含めて、無と空をぎょうじていきたいです。 また、私は護摩をお寺にお願いしてやっていただいたこともあります。神社仏閣に参ることも好きで頻繁ではありませんが、参っています。困ったときには神社に参ってたよったこともあります。信仰を志したいとかもおもったことがあります。 般若経や般若心経に詳しいお坊さんがおられたらご回答をおねがいしたいです。無や空についてしりたいです。

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回答数回答 1

般若心経を学びたい

はじめまして、お世話になります。 私は看護師の主任をしています。 3月から毎日コロナ対応に追われています。 自分が感染するのではないかと言う不安にかられながら、スタッフの体調、メンタルに気を配ってきました。 ですが長引くコロナの蔓延にスタッフの体調が悪くなり仕事ができなくなったり、怒り不満不安をぶつけてくるスタッフがいたりと、色々なことが起こり自分自身が疲弊してしまいました。 そんな中、般若心経に出会いました。 もともと信仰に関心がなく、宗教といえば勧誘、お布施、入信しないと悪いことが起こる的なイメージが強かったのでなんとなく避けていました。 ですが般若心経に触れ、「全ては空である」 体、感情、もの、全ては空と言う考え方に何か 安心?安らぎのような物を感じました。 難しくて、わかったような?分からないような?全然理解できていないのですが、般若心経を読むと少し心が落ち着くのです。 早く般若心経を読みたい、学びたいと焦燥にかられ近くの高野山真言宗のお寺さんで般若心経の経本をさっと買ってきました。 もっと般若心経に触れたいのですが、私は独身で家に仏壇もなく檀家にはなれません。 調べたら入信の制度はないようで、もっと般若心経や仏教の教えについて深く学び、私の中に落とし込んでいきたいのですが術がわかりません。 お寺さんのホームページに月二回の読経会があるようなのですが、このコロナ渦の中医療従事者の私がお寺で他の皆様と一緒にお経をあげる、お話を拝聴するのは難しいです。 本当はお香の香りに包まれたお寺さんで、自分と向き合いながらお経を唱えてみたいのですが。 まだまだ続くであろうコロナと向き合うために どのように般若心経やお釈迦様の教えに触れ、 お経を唱えて行ったら良いか迷っています。 読み方も分からないのでyoutubeの読経に合わせ読んでみたり、文献やyoutubeで学ぶのが精一杯です。 何か良い方法はないでしょうか?

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お坊さん達ではどう実態の話をしてますか

私は般若心経に影響を受けています。 ここに机があります。私達はこれが無いと知っています。誰かが、それは机でそこにあって、木で出来ていて茶色で硬いと言います。 私にも茶色に見えるし、ぶつければ私は痛いです。 でも、やっぱり茶色は無いし、机もないし、私も無いです。 それでも痛いのは嫌で、そこに机があると考えて生活します。でも、あらためて眺めると、やっぱり無いです。 強いて言えば、さっきまであった、と言うかなと思います。でも、無いから『さっき』と言うのもいま言ったけど変だと思っていて、さっきも無いんだけど強いて言えばにすぎず、とにかくいま、机は無いよ、と思います。 私達はそこに水色のティーカップが見えていて、私にも見えています。でも、無いし、としか言いようがないく、水色もない。強いて言えば、その子が自分を水色と思っているでしょう、私もそれを水色と思っています。でも、そこに水色は無いと私達は知っています。 私達は、と言ったのは、きっと同じ話をしていると思っていますが、お坊さん達の間では違うのか、聞きたいと思いました。どこかは違うと思います。 その子の水色が無いと知っていますが、その子が「私、水色でかわいいの」と言ったら、ああ、水色だよ、それにかわいいよ、と言うと思います。 私は無いです。神も無いと思っています。私がいたら神もいる、私が無いなら神も無いと考えています。両方ある、と両方ないのどっちかしかないと思い、ところで実際どっちも無いよねえ、と思います。お坊さんはこう言っていないと思いました。 目の前に、机があり、傍らにまた水色のティーカップが見える、でも私達はこれが無いとしか見えないと思います。 私は、ひょっとして自分は時間の話をしているのかなとよく思います。 時間の話であれば、さっきと呼ぶものもなく、今机があるという事も起きていません。 今そこにあるという概念がなく、この机に対して机があると言える事実はなく、とにかくえんえん無いんだが、と思ったり仏陀は荒唐無稽で精神世界に限った話をしたのでは無さそうに思ったりします。 あると思っていて、としか言いようがない机をまた見て、もう無いとしか見えないし、ところであらためてそこに机があると言ってみる必要あるんだろうか、言わなくていいと思う、と考えたりします。私は時間の話をしているのでしょうか。 お坊さん達は違う話をしていますか?

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ