hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

生きることにさよならしたい

回答数回答 2
有り難し有り難し 52

辛いことが続いてます。
トラウマもたくさんあります。
どうすればいいですか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

心の強さ、広さ、柔軟さをもとめる

おじさん回答で失礼します。
何かにぶち当たって心がヘロヘロになったり、ぽきんと折れてしまったときは、その折れてしまった自分をもポインチョしてしまうことです。🚮
生きることにさよならよりも、その悲しい考え方をこそ、さよならしましょう。✋🚮
人間を停滞させるのは「思考ちゃん」です。
スマホに喩えると使っている端末のアプリに「ネガティブ思考ウィルス」が侵入しているのです。そのアプリは、あなたが何かを見るにせよ聞くにせよ人といるにせよ「ナンクセ」をつけるアプリです。ケチをつけまくるアプリです。そのアプリが暴走すると本体、持ち主、自分自分自身にすらネガティブ思考ウィルスが襲い掛かってくるのです。
その邪悪な心に立ち向かうにはプリキュア戦士か仏教の教えが有効です。
最近娘がプリキュアにドはまりしているのですが、一緒に観ていますと結構いい話があります。あ、それは、いいとして。
で、そのネガティブ思考を食い止めるには、自分がこいでいるペダル自覚する必要があります。急な坂道で自転車をこぐ場合、どうして最大のギアで登るようなことをする必要がありましょうか。
そういう困難に時においてはギアを変えるか、手段を変えることです。なにも自転車に乗る必要すらありません。こげないペダルを無理にこぐより、おりて自分の足で歩けばいいのです。
人間は考えが行き詰まってしまった時、一つの方法、一つの手段しか見いだせなくなってしまうようなことがあります。
お勧めは心の運転の仕方を「考えるペダル」ばかり使わずに「ストレートに感受する」ペダルをこぐことです。
詳しくは字数が足りませんので電話していただけると話が早いですが、簡単に申し上げますと、人間の脳みそは、使い方によって地デジからBS放送にチャンネルを切り替えるように、思考のチャンネルから「hotoke」のチャンネルに切り替えることができるのです。
「考える人」の像と「半跏思惟像」を見比べてください。
考える人が思考チャンネル。
半跏思惟像がホトケチャンネルです。
自分の脳の中のチャンネル、ペダルをホトケチャンネルに切り替える🐸方法があります。
興味があったら、電話してください。
🔔
🕐学校のチャイムが鳴った。
それを聞いて授業が終わったと喜ぶ人もいれば、もっと話聞きたかったと思う人もいれば寝てる人もいる。音はただ、音。そこに何の色もない。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

「生きることにおける迷い苦しみにさよなら」を

さくら様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

生きることは苦しみである。

「一切皆苦(一切行苦)」とお釈迦様は申されますが、もちろん、それだけではなく、では、どのように、その苦を無くしていくべきであるのかをお説き示されておられます。

もちろん、つらいことも、苦しいことも、それだけで独立自存として永久永遠に実体的に成り立っているものではなく、必ず、原因や条件があって成り立っているというものとなります。

つまり、つらいことも、苦しいことも、無くすための原因や条件を調えることにより、無くせることができるのであります。

その無くすための善き原因や条件のあり方、方法を、是非、仏教を修習することによって調えて参りたいものとなります。

「生きることにさよなら」ではなくて、仏教により、「生きることにおける迷い苦しみにさよなら」をしたいものであります。

川口英俊 合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

質問者からのお礼

遅くなり申し訳ありません。
ありがとうございました。
今うまく言葉が見つからないので、ここまでにしておきます。
ハスノハ様にはたくさんお世話になっています。感謝しています。

煩悩スッキリコラムまとめ