死について
仏教では親よりも先に死ぬと地獄へ行き、賽の河原で永遠に石をつまされると聞きました。
もし自衛官や消防士などの危険な職の人が任務中、多くの人を救うために親よりも先に死んでしまった場合もそうなってしまうのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
そのお話はお経に書いて無く元々は仏教ではないようです。どのような状況で命が終わったとしても極楽浄土に生まれると私は信じています。ですからそれまで安心して生きてくださいね。
南無阿弥陀仏
変な話をつかまされています
この話は仏教というより、仏教をモチーフにした民間信仰ですね。
私はお寺で生まれ育ち、曹洞宗系の大学を出て、曹洞宗の道場で修行し、今でも毎年研修会に出ていますが、この賽の河原の話は観光地とネットでしか聞いたことはありません。そんな次元のお話です。
それでも押して補足するなら、「親より先に死んだ人が賽の河原で石を積む」のではなく、「10歳にも満たない子供が賽の河原で石を積む」という設定です。自衛官さんや消防士さんは大人なので関係ありません。
そして「永遠に石を積まされる」のではなく、「お地蔵さまが救ってくれるから大丈夫ですよ」というハッピーエンドの話です。「永遠に石を積まされる」と話した人は「桃太郎が鬼が島に鬼退治に行きました。桃太郎たちはきっとフルボッコにされたことでしょう。」というような酷い話し方をしています。信用しない方が良いでしょう。
仏教では無く、民間信仰の考えですが
死後の世界すなわち他界観念について、それぞれの宗教、それぞれの民族が独自に観念体系を構築すると同時に、宗派宗教民俗を越えて共通する部分も多く認められます。例えば、善行を積んだ者は死後に天上界に昇り、悪行を重ねた者は地獄に堕ちる。これらの観念は多くの宗教文化、民俗文化の中に認められます。但し、具体的な様相となると、同じ宗教であっても其々の地域の文化や民族性が反映されてかなり多様なものとなってきます。
インドでは、最初に死んだ人間が死者の世界の神となり、Yamaと呼ばれております。これが中国に伝播して閻魔大王となってます。我々がイメージする閻魔様は、中国撰述の経典、更には儒教道教と習合した他界観の中で描かれていることが多いのです。そして、そうした他界観や来世観が日本に伝わって、日本独自の展開を展開を示しているのです。その一例として「賽の河原」があります。
「世界大百科事典 第2版の解説
「冥途にあるという河原。小児が死後に赴き,鬼から苦しみを受けると信じられている。《法華経》方便品にある〈童子戯れに砂を聚めて塔を造り,仏道を成ず〉から構想された鎌倉時代の偽経《地蔵十王経》や解脱上人(貞慶)作という《地蔵和讃》,また江戸時代の《賽の河原地蔵和讃》などにより,地蔵信仰のたかまりとともに,中世以降とくに江戸時代に普遍化した俗信である。《賽の河原地蔵和讃》は〈死出の山路の裾野なる賽の河原の物がたり〉で,十にも足らない幼き亡者が賽の河原で小石を積んで塔を造ろうとするが,地獄の鬼が現れて,いくら積んでも鉄棒で崩してしまうため,小児はなおもこの世の親を慕って恋い焦がれると,地蔵菩薩が現れて,今日より後はわれを冥途の親と思え,と抱きあげて救うようすがうたわれている。 」
仏教の教えから来る考えでは有りません。「三途の川の渡し船」「奪衣婆」なども、日本独自の民間信仰です。俗信です。
私の推測ですが、「親よりも先に死ぬと地獄へ行き、賽の河原で永遠に石をつまされる」という考えは「親より先に死ぬのは、親不孝」という考えを死後の世界に持ち込んだのだと思います。病気や事故や災害や戦災で早逝することは決して珍しいことではありません。。
仏教的に言って、「親よりも先に死ぬと地獄へ行き、賽の河原で永遠に石をつまされる」ということは、有り得ません。