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生きている意味

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 母親を亡くしてから生きている意味がわからなくなり、とりあえず食事・洗濯・多少の仕事をし生活しています。一人になるまで依存して生きてきたので、自分で考えて行動することができずに寝てばかりいます。この先も同じ生活をしていて、ただ生きていていいんでしょうか?
 通院してしていた医者も行かなくなり、何もかもが億劫になってしまいました。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分の想念を相手にしている生き方をやめる

全部「私はこう思う」ということをやっているのではないでしょうか。
その思えたことが、今五感で触れている現実よりも優先的に扱われていることが問題ではないでしょうか。
こういうことを言われて、これを受け止めるとあなたの中で「色々出てくる」。
その「色々出てくる」ものの方を相手にしている姿は、今あなたが本当に相手にするべきものの「方ではない」ことを自覚なさるとよいでしょう。
あなたがもし先に亡くなっていて、残された人がずっと本人の頭の中の自分の思ったことばかりを相手にしていたら「死んでしまって申し訳ない」と思うことでしょう。
亡き人への報恩の菩提心をおこして、自分想っている技術・能力・スキルを駆使して、菩薩の道を歩んで利他の精神で、あなたの心を救うべく、人を助けてあげてください。
そして、正覚、この上ない明晰な心を求めるのです。
それがお母様への最高の恩返しとなるでしょう。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

「億劫」

アッキー様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「億劫」(おっくう)というのは、実は仏教用語で、「百千万億劫(おくごう、おっこう)」の最後の二文字が語源であり、とてつもなく長い長い時間を表わす言葉となります。

一劫の長さは、決まってこれとは言えないところがございますが、例えば、一宇宙の生滅に掛かる時間ぐらいで、200億年とも言われております。

200億年が百千万億って・・いったいどんだけの長さやねん、となりますが、とてつもなく長いということは想像できるかとは存じます。

そのとてつもなく長い時間、無限ほどの時間にわたって、実は、私たちは迷い苦しみの中にて輪廻し続けていると説明されることになります。

そこから考えますと、この一生など、一体どんだけ短いねん、あってないようなもの、ということも分かり得るのではないだろうかと存じます。

しかし、仏教では、この短い生においても仏法に出逢えて実践していける種、丹下さんもおっしゃられております「菩提心」を心に植え付けることができたのであれば、最短で早ければ今生の内(但し、無上瑜伽タントラの律義の厳格な維持と二次第の実践が必要)にでも、悟り・涅槃へと至れる可能性があるのでございます。

まさに億劫であっては、仏教的には、億劫に迷い苦しむことからはいつまでも逃れられないのでございます・・

是非、お母様のご供養からでも、少しなりにでも仏教を学び、そして修することをお始め頂けましたら有り難いことであると存じております。

川口英俊 合掌

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最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

質問者からのお礼

丹下覚元様 幾度となく回答ありがとうございます。いろいろ頭では考えるのですが、結局は自分で行動にSTOPをかけています。叔母には頭で考えたら、すぐに行動しなさいと言われました。元々だらしない性格で、徐々に直せるといいのですが・・・

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