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死が怖いです

回答数回答 2
有り難し有り難し 35

いつもありがとうございます。
考えても仕方のない事だとわかりながりも、
動悸や気持ち悪さが収まらないため、失礼します。

私は幼少期から死に対する恐怖がありました。
それはいつの間にか、よそへと追いやられていた恐怖だったのですが、
昨晩突然のように発作のように起こりました。

先日若くして突然死で亡くなられた親戚のことを考えていると、
私自身や、両親の死を考えてしまいます。
(昨晩まではだからこそ、毎日を精一杯過ごそう。
彼女の分もしっかり生きようと思っていた筈なのですが)

更にそこから波紋のように思考が広がって、
天災、事故、戦争。

更には数億年後に地球や太陽がなくなるですとか
宇宙でどうの。といった情報を見ると、
輪廻転生を繰り返し、いつか私の魂はその瞬間に
居合わせねばならないのかと思ってしまい、
このような恐怖は味わいたくない。
と、考えてしまいます。

全ては私の中の想像。
誰にもわからない世界の話だとわかっているのですが、
この思考が突如発作のように起こり
抜け出せず、自分自身の頭で刷り込んでいる
イメージから抜け出せません。

特に最後に書いた終末の恐怖が強く
苦しくて仕方がありません。
頭に心が付いてきてくれません。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

この世に、永遠のものなんて、ありません。

そうですね。。。私も怖いです。
自分の身も、愛する人を失うことも、別れも。悲しい思いなんてしたくありませんよね。

私たちが生きているこの世に、永遠のものなんて、ありません。常に移り変わっていき、形あるものはいつかは壊れていきます。それは突然に。この世は無常。それを知っているから、人間は恐れることを知る。

では、この先にあるのは、絶望でしょうか。
仏教の教えは、この先に 永遠のいのちとして 生まれていける世界があるよ〜と説いています。その働きは、仏さまの願いだよと。

あなたも、私も、そう感じるから、仏さまは そんな私たちのために、働いてくださっています。私は、そうやって このいのちを支えられています。

あなたも、仏さまを近くに感じてみてください。あなたの中に、安心が広がればいいなぁ。
また、ゆっくり話をしましょうね(*^^*)

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はじめまして(*^^*) 中田みえです。 教善寺 住職として、母親として、慌ただしく過ごしております。 ◆ゲートキーパー ご相談 駆け込み寺 (訪問は要予約。まずはメールでお問い合わせください) ◆ビハーラ僧、終末期ターミナルケア、看取り、グリーフケア、希死念慮、自死、産前産後うつ、育児、DV、デートDV、トラウマ、PTSD、傾聴、手話、要約筆記、行政相談員、小学校 中学校支援員としても、サポートしています。 ◆一般社団法人『グリーフケアともしび』理事長 【ともしび遺族会】運営 毎月 第1金・昼夜2回開催(大阪駅前第3ビル) 14:00〜,18:00〜 お問い合わせ申込⬇️こちらから griefcare.tomoshibi@icloud.com *この活動は皆さまのご支援により支えられております。ご協力をよろしくお願いします。 ゆうちょ銀行 口座番号 普通408-6452769 一般社団法人グリーフケアともしび ◆『ビハーラサロン おしゃべりカフェひだまり』 ビハーラ和歌山代表 居場所運営 問い合わせ申込⬇️こちらから griefcare.tomoshibi@icloud.com ◆GEはしもとサピュイエ 所属 (Gender Equality 誰もが自分らしく生きることができる社会をめざして)DV・女性支援 ◆認定NPO京都自死自殺相談センターSotto 元グリーフサポート委員長(2018〜2024) ◆保育士.幼稚園教諭.小学校教諭. レクリエーションインストラクター.中学校DV授業 10年間 保育 教育の現場で 総主任として勤めた経験も生かしつつ、お話できることがあれば 幸いです。 いつも あなたとともに。南無阿弥陀仏 ここでは、宗旨を問いません。 まずは、ひとりで抱え込まないで。 来寺お問い合わせは⬇️こちらから miehimeyo@gmail.com ※時間を割いて、あなたに向き合っています。 ですので、過去の質問へのお返事がない方には、応えていません。お礼回答がある方を優先しています。 懇志応援も宜しくお願いします。 ※個別相談は、hasunohaオンライン相談より受け付けています。お寺への いきなりの電話相談は受け付けておりません。また夜中や早朝の電話もご遠慮ください。 法務を優先させてください。
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もう抜け出しているじゃないですか。

まず問題を二つに分けます。
①その暗い思考それ自体と
②負の思考から抜け出せないこと

「そういう思考から抜け出せないのです」と言いながらも、ちゃんとその思考を抜け出せていた、たった今の実際をみてみましょう。さっきまでは確かに負のループから抜け出せずにいたのでしょう。ですが今は、それを思い返して、今もそれが「あたかも続いているかのように錯覚していただけ」です。これであなたの悩みの一つ②は解決です。

①もう一つは、その悩んでいる時ですが、鳴りやまない鐘はありません。
「あの鐘を鳴らすのはあなた」という歌がありますが、仏教的にこれを説けば「思いの鐘も鳴らし続ければなり続ける」ということがあるだけです。
鐘も思いの鳴りはじめがあり、鳴り止みがある。
暗いネガティブな思いの鐘がカーンとなる。
鳴ったその後にその思いの悲しい響きを鳴らし続けるのはあなた。
もう、その金はなり病んでいるはずです。鳴りやんで抜け出せているからこそ、ここでこれだけ立派な文章が入力できているのです。
まず、見落としがちなところですが、そこから見つめることです。
私たちは思えたことを本当だと思ったり、いつまでも続いていると思っている。
「私はこう考えた」「私がこう思えた」ということで、自分はずっとこういう人間なのだと固定的に自分を思い込むことが執着、苦しみなのです。
死の恐怖というものの正体は、死が怖いのではない。
人は死んでも文句は言わない。
人は死んでもうんともすんともいわない。どこにもいかない。
人が死を恐れるのは死に対してよくわからないから、死に関してアレコレ自分で思い込むその不安な思いに苦しむということがあるだけではないでしょうか?
もっと、詳しく知りたければいずれ坐禅会にご参加ください。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

中田 三恵様
夜分遅くにありがとうございます。
死した後、天上において幸せに暮らせるよう、
先に別れた人達ともそこでまた笑って過ごせるよう、
今生において精一杯生きようと思います。
突然の恐怖にまだ落ち着きが戻りませんが、
少しずつこの恐怖を抜いていければと思います。
本当に、ありがとうございました。

丹下 覚元様
お忙しい中、ありがとうございます。
今まで日常の忙しさの中で、一日を生きることに懸命になっており、それで手放せていた思考なのかもしれません。
それが今、転職に伴い初めて実家を出ることや、親族の死、それらが重なったことで様々を考えてしまっているのだと思います。
今私は、私の想像に私自身が執着して苦しんでいるのだと思います。
様々な教えや考え方から学びつつ、この執着を手放せるよう、心がけたく思います。

まだ、食欲が出て来ませんが、少しずつ平常を目指そうと思います。

この度は本当にありがとうございました。

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