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仏陀の教えは個人にあてたものですか?

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初めて投稿します。

「悟り」に関する質問です。
「悟った人」というのはいないと解釈しています。
何故ならそこに個人的なこととして捉える「個人」の消滅だと認識しているからです。

だとしたら、何故仏教の教え、というものが存在するのでしょうか?
そもそも救われていない個人はいないし、救いが必要な人も、仏陀からしてみたら見えていないと思うんです。個人的な自由意志と選択があるのは幻想の中だけで。
お弟子さんが広めたんでしょうか?
その教えには、個人の自由意志と選択の余地があることを説かれているのでしょうか?

ほとんど知識がなく申し訳ありません。
よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「悟り」について

有未様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

これまでの「悟り」についての拙まとめ・・

一、悟りは自内証(自分の中で証されるもの)であり、他人にそれを伝えることができないものである。但し、悟ったもの同士であれば、分かることもあるのではないかと存じます。

一、悟りの内容は、戯論寂滅・言語道断の境地であり、本来、言語表現(固定、執着)が許されないものである。

一、悟りも「空」であり、実体・自性・自相としては成り立っていない幻のようなものであって、本来、幻のようなものである私たち自身、心、認識作用において、幻のようなものである「悟り」を幻のような者が捉えようとしているというものである。

一、もちろん、「悟り」が「空」であると言っても悟りが「無い」わけではなく、悟るための因縁によって、縁起として「悟り」はあり得るというものとなります。

となりますが、まず、

「「悟った人」というのはいないと解釈しています」・・

仏のありようを現す三身(法身・報身・応身)における衆生済度するための応身、あるいは変化身として、「悟りの境地」や「悟りの働き」という属性を備えた「人」、「個人」はありうることになるのではないかと存じております。もちろん、それは「人」、「個人」の概念解釈次第となることもあるでしょうが・・

「何故仏教の教え、というものが存在するのでしょうか?」・・

仏・如来が三身にてお説きになられた教えとして存在していると解釈致しております。

「そもそも救われていない個人はいないし」・・

拙生個人も含めて、無明・煩悩、悪業により輪廻の迷苦にある衆生それぞれはいまだ救われていないかと存じております。

「救いが必要な人も、仏陀からしてみたら見えていないと思うんです」・・

大慈悲の御心、大智慧の御力による、大神通力において、お見えになられておいでではないだろうかと存じております。

「個人的な自由意志と選択があるのは幻想の中だけで」・・

個人的な自由意志と選択ももちろん、個々において「縁起」としてあり得るとは存じます。しかし、そのありようは、幻想ではなくて、あくまでも「幻想のような」あり方として、と存じております。

字数の関係上ここまでにて。未熟者であるがゆえにご質問の真意が捉えきれていないこと、どうかご容赦下さいませ。

川口英俊 合掌

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悟りを分析し論ずるより 悟りに住する人となる

美味しい料理を自分で作れるようになれば、そのレシピを作れるものでしょう。
無我になって自分意識が滅せられても❝悟った人❞=人我が無くなるという事だけで、それっきりカラッポのまんまという訳でありません。それではシャカの悟りも役に立ちません。ただ振りかえって、ああ、あれが悟りか、自我意識が滅せられた瞬間だったのか、という❝顧み❞が一瞬生ずるだけで、その後は涅槃の状態です。分別意識も自由に用い得るのです。そこを見届けてください。
世の中では「悟りとはこうではないだろうか」という議論が多くなされていますが、多くはぶっちゃけ論は論なのです。
推測・論・分析状態の頭脳は、残念ながら、どこまでいっても悟った状態ではなく❝理❞なのです。
どんなご立派な仏教の大学の名誉教授らが悟り論を著したとしても、当人が悟っていなければそれはただの「悟りの推測」でしかないのです。だって悟ってないのですから。
それが悟った気にさせることがあります。ご用心。
私も昔、禅の悟った老師の元で一生懸命φ(..)メモメモしていました。
ところが、やっていたことの本質は、悟りの❝分析・解釈・翻訳❞でしかなかったのです。
悟りをこれ以上ないくらいに明確に表現出来ると思います。でも、それをいくら他人に説けたとしても、自分の心が安らかでないならば、それは求め方が誤っていると言わざるを得ません。多くの人がここに陥ってしまう。そこに向き合えってみましょう。
理を好む求め方を❝戯論❞を捨てることで、ちゃんと悟り脳に❝住せ❞ます。
悟りの有無より、生老病死や諸々の苦から救われているかどうかの方が良いでしょう。
悟り論ではなく、自分が明らかになって、あらゆる思いから本当に自由になっているかどうかだけを真剣に問えば、今の自分の悟りが本物か、いまだ求めるべき余地があるかどうかがハッキリするからです。(^。^)
それは評論家とアーティストのちがいのようなもの。
評論家は創作者ではありません。
経済学者(理論)と高額納税者(実質)の違いのようなもの。
料理を作れない料理評論家(食べるだけ)と一流料理人(作れる)の違い。
いくら料理を語ってレシピ本を作っても「え、作れないの?」では、画餅。腹は膨れません。安らかになりません。
「私は本当に安らかか?本当に大丈夫か?」これを真剣に自分に問いかけてください。

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丹下覚元(たんげかくげん)
☎お悩み相談 📞08020659278 法話禅会 毎週日曜3時より...

そうのように認識しているからです。

質問の意図がよく分かっていないのに返答するかもしれません。

『何故ならそこに個人的なこととして捉える「個人」の消滅だと認識しているからです。』
有未さんはこのように認識されているのですね。

しかし、お釈迦様は悟っても個人の消滅はしていないように思いませんか?
だから個人の意思で(梵天に言われたとはいえ)教えを説かれたのです。
なので個人の自由意志と選択の余地があります。
もし、選択の余地がなければお釈迦様は悟ったあと、死んでしまったでしょう。

人を救う教えを広める事は、消滅した個人にとって必要無いことだと思います。
人を救う教えを広める事は、「悟った人」にとっては必要なことなのかもしれません。

悟り(智慧のある)状態で慈悲があることが理解(納得)出来ないのではないですか?
でも私たちには理解(認知)出来ない世界があり、それが悟りの世界なのかもしれません。

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仏陀の教えは個人にあてたものです。

仏教は仏になる(悟りをえる)教えです。
悟っているということは、成仏しているということですから、それはとてつもなく凄いことです。
仏様は自在な存在で、幽体離脱もお手の物、欲望もないし、苦しみもありません。
時間も場所も超えた、人智では計り知れない存在です。

お釈迦様の時代には、お釈迦様がおられたので直々に説法を聞けましたし、修行の指導を仰ぐことができました。
だから多くのお弟子さんが悟りを得ました。
お釈迦様と同じ悟りの境地を持ち、六神通を備えた仏様がたくさんいたのです。

お釈迦様は【正法】【像法】【末法】という時代の流れを説かれます。
【正法】とはお釈迦様が亡くなってから500年間をいい、正しい教えと正しい修行があり、悟る人がいる時代です。
【像法】とはその後1000年をいい、正しい教えと正しい修行はあるけども悟る人がいない時代です。
【末法】とはその後1万年をいい、正しい教えはあるけども、正しく修行する人も悟る人もいない時代です。

正法の時代にはお釈迦様はいなくとも仏様(悟った人)はたくさんいました。
お釈迦様だけが説いたのではなく、お釈迦様とその他の悟られた仏様方が8万4千種類といわれる多くの仏教経典を説かれたと考えるのが、今日の日本仏教の基本です。
だから、過去には悟った人はたくさんいました。

しかし、現在は末法の時代です。
教えはあるけども、正しく修行する人もいませんし、悟るもいません。
だから「何故仏教の教えがあるのか?」という疑問が沸いてくるのも至極当然のことなのです。
それは誰が悪いというよりも、お釈迦様が説かれた通り現代が末法なので仕方ないことなのです。

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始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学...

一人一人の悩み苦しみをなくすための教え

ブッダ(お釈迦様、釈尊)の教えは、悩み苦しみを無くしたり制御したりするための教えです。
悩み苦しみは個人個人に発生するので、教えも個人個人に対して説かれたものだと思います。
実際、経典の中で、お釈迦様が誰かから質問されてそれに答た内容の話もありますし。

悟りは、悩み苦しみの原因である煩悩がなくなることだと言えます。
悟りには四段階あり、十種類の煩悩が四段階のステップで消えてゆくのです。

十種類すべての煩悩が消えたら、四段階の悟りのゴール、阿羅漢果の悟りです。
ブッダは、ご自身が阿羅漢果の悟りを得て(十種類の煩悩すべてを克服して)、その後に、他人を悟りに導く教えや、悩み苦しみを軽減せるコツを説かれたのです。

自由意志があるかどうかは、経験的には「ある」でしょう。
あなたは、買い物に行って何を買うか決めることができます。
悩み苦しみも、経験的には「ある」でしょう。
私達が感じる悩み苦しみを、私達が感じなくてすむようになるための教えが仏教なのです。
仏教は、心身に具体的にはたらきかけて、心身の状態を変化させて、悩み苦しみをなくしたり制御したりする教えだと思います。

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浄土宗教師。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための...

質問者からのお礼

皆様、有難いご回答に大変感謝いたします。

川口さま
はい、本来言葉にできないものだと私もそう思います。何故なら言葉にした途端に、もう別のものというか、指しているそのものではなくなってしまうんですね。決して言葉やイメージにはできないんですね。
だからこそ、教えというのがそもそも、見過ごすことに他ならないのでは?という疑問が出てきました。
輪廻の迷苦、大慈悲、大叡智、大神通力、、などの用語の理解が難しく、時間をかけてもう少し勉強させていただきます。ありがとうございました。

丹下さま
悟り論、というのは今たくさんのところでなされていますね。日本はまだ少ない方かもしれませんが。しかし、「悟り」は状態ではないはずです。だから悟った人も、悟ってない人も、そういう人は見かけ上ではいるかもしれません。理を好む求め方を捨てる、という意味を勉強したいと思います。そうですね、更に深く問いかけ、観察を続けてみます。ありがとうございました。

釈心誓さま
仏様は幽体離脱もお手の物で、人智では計り知れない存在なんですか!
なるほど、今が末法と呼べる時代ということは、もうこれから先は、、?と疑問が湧きますね。笑
ありがとうございました。

三品亮徹さま
そうですね、個人に理解できることではないですね。頭だけの理解なら簡単かもしれません。ありがとうございました。

願誉浄史さま
仏陀の教えは、悩み苦しみを無くしたり制御するための教えなんですね。そうですね自由意志は経験的には「ある」と言えます。しかし、その経験者はどこにいるのでしょう。。まとまらずすみません。ありがとうございました。

「お釈迦様・ブッダ」問答一覧

真言宗と浄土真宗の中のお釈迦様

はじめて質問させて頂きます。 プロフィールに記載しておりますが、家族の問題を抱える中、昨年暮れに仏教の教えに出会い、本当に心が穏やかになれた体験を得る事ができました。 それまでの私は、実家が高野山真言宗のお寺とご縁があり、結婚後も実家の仏壇を預かり、月参りや納骨堂のお参りをはじめ、いろんな関わりを持ってきて、仏教と深く関わってきたつもりでした。 しかし昨年暮れ、心身共に行き詰まり疲れ果てた時に出会った教えは浄土真宗(真宗大谷派)の教えだったのです。 その時はじめて、今までずっとお寺に関わってきたつもりだったのに、「仏教の教え」についてほとんど何も知らなかった事がわかったのでした。 それから改めて今求道中なのですが、今まで聴いてきた真言宗のお経と、浄土真宗のお経がまったく違うのにびっくりして、元は同じお釈迦様なのに、どうしてこうも違うのか。 両派ともご本尊がお釈迦様ではないとはどういう事なんだろう。 両派の中の、お釈迦様の教えと、各ご本尊様(大日如来様と阿弥陀様)の関係性って何なのだろうと、今切実に知りたく質問させて頂きました。 私にとって真言宗は小さな頃からずっとずっと触れてきた大切な宗派であり、また浄土真宗は昨年暮れ、本当に行き詰まってどうしようもなくなっていた時に、私の心を救っていただいた大切な宗派なのです。 どちらも私にとっては大切な宗派なので、どうしたらいいのかわからない状況になってしまいました。 ただその中で、元はどちらもはじめはお釈迦様だったのでは?と思い至り、タイトルにある質問をさせて頂きました。 どうぞよいお導きがあればよろしくお願いいたします。

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漫画 聖☆おにいさん

私は「聖☆おにいさん」というブッダが出てくる漫画が大好きなのですが、愛読されているお坊さんいらっしゃったらこの質問に目を通して頂けたら嬉しいです。 作中で梵天と帝釈天が出てきますがブッダに対して「シッダールタ」と悟る前の名前で呼び、ブッダは敬語を使っています。シッダールタ時代に苦行している時にも「おー、頑張れよー!」とか言っていますよね。ブッダをプロデュースしてるみたいな場面も沢山出てきます。 私は手塚治虫の「ブッダ」も読んだのですが(フィクションもだいぶ盛り込まれているようですが)、その中で梵天はシッダールタの前にここぞという時に現れるので(迷っている時や悟った時など)、シッダールタの背中を押す師匠のような存在、と思っているのですが、 梵天や帝釈天はそもそも人間ではない存在なのですか? シッダールタが誕生する前から存在してるという事ですか? この漫画は私の仏教への興味を広げてくれた大好きな作品です。 初歩的な事と思いますし、ネットで調べればすぐ出てくるのでしょうが、ハスノハという場所があるのでお坊さんに質問してみようと思いました。 (帝釈天のスーツはアルマーニ、梵天のスーツはコナカというのはツボです)

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 釈尊の言行その2

大忍貫道 様 釈尊の言行(その1)で追記 を見逃して大変失礼致しました。  回答の締め切り通知を変更通知と間違えて調べて、追記があったのを知りました。申し訳ありません。  重要な問題なので、再度質問を立てます。  我々の出来ない体験を、釈尊が代わりになさって伝えて下さったのが仏教です。  「輪廻転生について」のお礼欄で、私は 「如来(釈尊)は真実を語るものであり、如来は真理を説くもの、ありのままに語るもの、誤りなく説くものだからである。如来は虚偽りを語るものではない。」  との金剛般若経の引用をしています。  輪廻は信じる信じないのレベルではなく、真実か虚偽かの問題なのです。  そこが仏教が宗教か否かの判断になると思います。  金剛般若経の続きで「前世、現世」が出てきます。  釈尊の語りですから、これは真実なのです。  これが輪廻転生に他ならないのではないでしょうか?  因みに仏教が信でなく真実であることは、仏教の基盤である「般若心経」が科学的真実を語っているので明白です。  詳細は省略しますが、ヒントは「諸法」の「空」が「不増不減」であるのは、諸法が自然界の中で唯一「閉じられた系」であるからです。

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 厚かましく、非宗教説を続けます。  釈尊の言行については、立川武蔵先生の「ブッダをたずねて」の受け売りですから、皆様先刻ご承知と思いますが、信仰について言及したいと思います。  先ず釈尊は、偶像崇拝を禁止したとのことですが、釈尊の死後、舎利を分配して、早速信仰の対象にしました。  仏像も信仰の対象として作成され、祇園精舎での説教で済むところを、巨大な寺院を建築し、仏像を納めて 荘厳さを競いました。  これは中国の仏教を模倣したのでしょう。  釈尊の言行からはまったく不要なものであるはずです。  次に釈尊の死が近づいたときに、近隣の村人たちが釈尊の葬儀の支度を始めているのを見て、弟子にあそこに参加してはならないと戒めたそうです。  元々葬儀には無関係だったようです。  確か応仁の乱で加茂川に死体が放置されていたのを、僧侶が荼毘に付したのが始まりだったようです。  釈尊の言行に従って、これらの行事を無くせば、仏教はただ説教と修行に励むことだけが残ることにはなりませんか?  仏教は信仰とは無縁だと思います。これが非宗教説です。  蛇足ですが、通常寺院の参道に仁王門がありますが、これが参道の入り口ではなく中ほどに建てられいます。  これは参道が、輪廻転生を示したと考えられます。  参道の入り口は娑婆です。参詣者は参道を通って本堂に向かいます。  本堂は娑婆から切り離された死の世界です。  本堂に居続ければ平穏ですが、娑婆に還るときは仁王門で苦しめられます。  「チベットの死者の書」によれば、丁度3週目に怒りの神々に遭遇します。  仁王門が中途にあるのはそれを模したものと考えられます。    従って輪廻転生は仏教にとってそれ程重要なものです。  現在仁王門の像は参道を向いていて外敵を防ぐと言われていますが、参道の中途にあるのも不自然だしその必然性が考えられません。  像は本堂を向くべきだと思います。  さびれたお寺の仁王門がその向きになっているとの記事も見かけました。

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