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戒名について

回答数回答 3
有り難し有り難し 27

先日母が亡くなり、とても綺麗な戒名を母にいただきました。

私達の魂は何回も生まれ変わり、いくつもこの世に生を受けては去っていっていると理解してます。そこで思ったのですが、生まれそして去るその度に戒名をいただくことになると、一つの魂にいくつもの名前が仏界にある、ということになるのではないでしょうか。

ふと、これが仏界ではどうなるのかと疑問を持ちました。一人にいくつもの名前があると想像すると、沢山の分身が仏界にいることになりますが…。

どんな感じなのでしょう。どうお考えですか。それともこういうものはこうなのだ、という教え(お話)でもあるのでしょうか。

よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「名前」とは

お母様のご命終に謹んで哀悼の意を表します。合掌

さて、「魂」というものが存在するということを前提とした上で、それにいくつも名前があることを仏教ではどう考えるか?と問うのではなく、

仏教では「魂」ってあると考えるの?生まれ変わりってあるの?生まれ変わりがあるとしたら固定実体的に引き継がれるものがあるの?

といった具合に前提ごと問うたほうが賢明かもしれません。
もちろんいろんな「解釈」があるので、どの「解釈」に出会うかで考え方に受ける影響はとても大きいのですが…。

とはいえ、前提の「魂論」抜きにしても今回の問題については考えられる気がしますので、私なりの考えを述べます。

「名前」は「名前」です。名前が複数あることによって「そのもの」が複数になるわけでも、「そのもの」の質が変わるわけでもありません。

ある「犬小屋」を「木製の小屋」と呼ぶか「ポチの家」と呼ぶか「〇〇さんとこの犬のおうち」と呼ぶか…呼ぶ人にとってそれぞれですが、「そのもの」は「そのもの」です。

名前は「共通認識の手段」や「自己表現」の意味も持ちますが、ここでは戒名ということですので「讃嘆」…「どうその方を讃えるか」といったところでしょうか。今・ここにいる方がお母様をどう呼び、どう讃えるかということです。

でもお母様はお母様です。仮に生まれ変わりがあっても、今・ここでお母様を偲ぶみなさまにとってはお母様ですし、そのお母様を通して仏法に出会ったとしてお母様を讃える人にとっては「仏弟子」であり「仏様」でもあります。

でも「そのもの」は「そのもの」です。あとは「誰が」「どこで」「どう」呼ぶかという問題です。

私は浄土真宗ですが「浄土」という場所がどこかにあるのではありません。それは「新宿」という場所がどこかにあるわけではないのと同じです。「新宿」がここを「新宿」とみなで呼ぼうと決めた場所にすぎないように、「浄土」もある「はたらき」を仏典にならってみなで「浄土」と呼んで讃えようということになるのでしょう。
ですから私にとっては「浄土」でも他の人にとっては「ニセモノ」であったり「嘘っぱち」でもあるかもしれません。

「名前」とは呼ばれる方の問題ではなく呼ぶほうの問題かもしれませんね。

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はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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確かに疑問に思うかもしれませんが、

 確かに疑問に思うかもしれませんが、「その疑問は成立しない」と私は考えています。

 人は死後どこに行くか、じっくり考えてみましょう。

1、「私達の魂は何回も生まれ変わり、いくつもこの世に生を受けては去っていっていると理解してます。」がなおころさんのお考えのようですが、これは仏教の立場から言えば「六道輪廻」ということになると思います。
 この場合、仏教的に考えると、御臨終を迎え息を引き取った後は四十九日間中有(中陰ともいう)になりますが、その後来世に生まれ変わります。
 来世に行って人間界に生まれれば、其の時代其の地域其の家族の中で名前を付けられ人生を生き生きていきます。そして仏教徒なら、戒名をいただくでしょう。そして、亡くなれば次なる来世に旅立ち、次の世界が再び人間界なら新たな人間としての名前を戴いて人生を生きていくでしょう。魂と呼ばれるものが現実に存在するならば、前世現世来世を俯瞰した結果一つの魂が複数の人生を複数の俗名で生きて、其々の人生を終えた時点で戒名を受ければ俯瞰的には複数の戒名が付けられている可能性はあります。しかし、其々の人生において、人間は一つの名前で人生を全うします。仏様でもない限り、前世現世来世を俯瞰するなんてことは出来ません。普通の人間の場合、同時に複数の戒名を有するという事態は生じない、と思います。

 2、死後、輪廻しないで仏界に赴く場合
 仏界に行ったら輪廻しません、生まれ変わり死に変ることは、ありません。一回しか戒名を受けません。複数の戒名を受けることは有り得ません。
 

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 目の前の方の悩みや気持ちをしっかりと受け留め、心を開いてもらうように努め...
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概念分別による一時の措定

なおころ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えとなります。

非常に鋭い着眼であるかと存じます。

「ただ、そう名付けられただけの存在である」

仏教における中観帰謬論証派においては、「世俗有」(言説有)をそのように措定することになります。

と言っても、今は何のことか分からないかとは存じますが、本来、一切には実体が無い「空」であるため、実体無いものを「名付ける」ことなどできないのであります。

ただ、実体は無くても、確かに存在は存在しています。

本来、名付けられないものではあっても、存在しているならば、一応でも便宜的に分別し、概念的に名付けをしなければ、私たちの社会生活は大混乱になってしまいます。

そこで、まあ、仮に世間一般的に認められる範囲内において、名付けを行うことにより、社会生活を円滑に営めるようにしているのであります。

それも、まあ、一時的、仮的なものとしてなのであります。なぜなら、厳密には、一切には実体は無いのですから、、

と、難しい話は置いておいて、戒名は、一応、正式な仏弟子となった証として与えられた名前となります。僧侶になった名前と言えるでしょうか。

それも、浄土、仏界でも仮的なものとしての扱いとなります。

まあ、仏様が先生ならば、私たち生徒の名前となるでしょうかね。

一応、名前を付けて、生徒も一人一人分けて置かないと、誰に対しての教え、指導、注意であるのか、皆が混乱してしまいかねませんし。

ただ、その者の心相続はそのものだけのものであり、他にありうるものにはなりません。

まあ、輪廻する中で、これまでも幾つか名前は与えられていたでしょうが、それも便宜的、仮的なものということであります。

また、少し補足致しますと、仏様から頂く「授記」による名付けは、やや上述の名付けとは違った性格になりますが、それも実体としてあり得ているものではないと考えます。

いずれにせよ、名前は、それぞれ便宜的、一時的、仮的なものであるとご理解頂けましたらと存じます。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

僧侶の皆さま、吉武様、川口様、そして吉田様、私の疑問に答えてくださり、どうもありがとうございました。

自分の中で整理がついたと思います。この現世での繋がり上の名前、即ち、私たちにとっての、その魂=母が仏様の弟子入りとして与えられた名前が今回いただいた戒名、と解釈しました。

「空」に関してはわかっているような、わかってないような、私にとって難しいことですが、今回の回答を参考にさせていただき、更に学んでいきたいと思います。

今回はどうもありがとうございました。

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