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宗関係者「念仏しない浄土宗以外は悪趣行き」私(は?なんて?)

回答数回答 3
有り難し有り難し 103

いつもお世話になっております。
わが宗の法話などで時折お坊さんが
「念仏しない浄土宗以外は地獄行き」など
と発言する事があります。
✳︎
信者さんなんかは、「病気なって薬師如来
真言かなんか唱えたら、今までの念仏功徳
みんなパァだからね(笑)」
とまで言う人もいます。
✳︎
私の祈願寺は真言宗智山派です。 でも、
お坊さんも修験者さんも皆さんいい方なので
地獄になど落ちて欲しくはありません。
万が一の時は、私がソッコーで六神通使っ
て輪宝飛ばして救助に向かいたい程です。
勿論、往生してからになりますが。
✳︎
死んだおじちゃんも、真言宗豊山派です。
真言宗さんはこの辺りどうなんでしょうか?
少々心配です。ご教授頂きたく存じます。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

諍論はいずれが勝っても

すみません。当方、浄土真宗の僧分です。

あまり気にしないでください。仏教は【対機説法】が基本スタイルです。

”念仏しない浄土宗以外は地獄行き”
”病気なって薬師如来 真言かなんか唱えたら、今までの念仏功徳 みんなパァだからね(笑)”
聴衆が念仏行者の集まりという大前提で、こう言いたくなるくらい念仏はスゴイもんじゃと言いたかったのでしょう。

【八万四千の法門】なんて表現されるくらい、一口に仏教といってもじつに色々な理論と実践があるわけですが、自分の好き嫌いや向き不向きがあっても、その優劣はと問われると結局のところ私にもよくわかりません。ただ、どの教えも迷える衆生を救済したいという釈迦を始め幾多の先人たちの【慈悲】から出発しているという点についてはハッキリと頷いておく必要があると思います。

”お坊さんも修験者さんも皆さんいい方なので 地獄になど落ちて欲しくはありません。”
私としては、一にも二にもあなたにはこのお優しいお気持ちを大切にしていただきたいです。これは仏教の原点であり、宗教の原点であり、もしかするとこれがすべてなのかもしれません。こういう大切な精神を抜きに、小手先の知識やテクニックをひけらかしたり、また他宗教他宗派をいたずらに批判するのはたしかに考えものですね。

『諍論はいずれが勝っても釈迦の恥』

とは、まったくよく言ったものです。

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そのお坊さんはまだまだ未熟なのです。そもそも法然上人は他の宗派の事をそれぞれ尊い真髄があるのだから、悪く言ってはならない、見下してはならない、と言われていたのです。その法然上人の教えを無明、煩悩、慢心によって忘れているのでしょう。
そのお坊さんには、他の宗派の人達と接する経験を積んで視野を広げ、思慮を深めて欲しいものです。
もっとも、煩悩を捨てられないからこそ阿弥陀仏におすがりするしか無い私達凡夫ではありますが。だからといって、煩悩による誤解を信者に説いてはいけないですね。ごめんなさいね。
また、薬師如来様と阿弥陀仏の功徳は別のものですから、消えることはありませんよ。
薬師如来様には現世の救いを、阿弥陀仏には来世の救いを、それぞれお願いすれば良いのですよ。
それに、極楽浄土を望み念仏を一度でも唱えたことがあるなら、阿弥陀仏は臨終の時に迎えに来てくれるのです。他の神様を同時に信仰しても構わないのです。
また、真言宗では阿弥陀仏は大日如来様の化身であると聞いたことがありますから、大日如来様を信仰している方達のことは心配しなくていいのですよ。
阿弥陀仏とは「ア・ミター・ブッダ」であり、「ア・ミター」とは昔のインドの言葉で量ることができないという意味です。何を量ることができないのか?それは縁起です。私たちが今ここに存在するすべての縁起、これは量ることができないほどたくさんあるのです。何百何千億人というご先祖様、私たちが食べる食事を用意してくれた人、食材を運んだ人、食材を採った人、その人達の何百何千億人というご先祖様、そして、私達の周りの酸素、空気、土、水、お日様の光、などなど。
とても量ることができない、数えることもできない、知ることさえもできない、たくさんの縁起、これが「ア・ミター」であり、それを敬う対象として人のお姿で現れた仏様、それが阿弥陀仏です。
そう考えると、阿弥陀仏と大日如来様って、とても近い存在だと思いませんか?
南無阿弥陀仏

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私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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地獄に自らおちるのが僧だと心得ます

おじぞうさんという方は、地獄にも浄土にも、自由自在に
立ち寄って、みなの安らげる場所を御作りになられるそうです。
思えばおじぞうさんは、修行僧のようなお姿です。
あれこそが、本当の僧侶の目指すべき姿であると、示されて
いるのではないかと思っています。

さて、わたしは禅宗の僧になると決めた時点で地獄に行こうという
思いで今に到ります。そりゃ、地獄は怖そうなので嫌ですが、
しかし、もし地獄があるとすれば、そこは、地獄に行かねば
ならんひとたちがいるわけです。

そうしたひとたちのそばに寄り添わねば、本当の坊さんには
なれないと思うからです。

わたしは、ハスノハもある意味地獄ではないかと思っています。

だって、こんなに苦しむ声が鳴り止まない場所はありません。

それでもすこしでも誰かに聞いてほしいという思い、すこしでも
楽になれたらという思いで、ここに皆さん寄って行かれます。

わたしは死んだのち、そんな場所になりたいのです。
わたしの尊敬する、禅の布教師、松原泰道師は、亡くなる前に
「わたしが死んだ日は、地獄にて法話説教する第一日目です」
と仰られたと伺っています。

わたしも同じ禅僧として、地獄におちて、そのお手伝いが出来たらと
願っております。

まあ、なによりも、地獄だとか浄土だとか、そんなことに
とらわれるより、どこにあってもしっかりやるべきことを「務める」、
そんな坊さんでありたいものと思っております。

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おきもち

質問者からのお礼

【転落院 先生】
 ご回答ありがとうございます。私の気持ちは原点ですか…!そして私もりっぱな
念仏「行者」なんですね、なんか照れる(笑)
 わかりました、悪趣に落っこちて欲しくないからこそ、今のお寺と念仏は大事にしていき
たいと思います。いや、私もおかしいと思ってたんですよ。だったらあんなに一生懸命な
坊さんたちの努力は一体なんなんだと。

【三宅 聖章 先生】
 ご回答ありがとうございます。あらま。法然上人涙目ですね…根本から間違ってるし。
念仏行者メインの法会での発言だとしても、あくまでもフルじゃないんだから。
普通に他宗の人もいましたよその席。
 縁起…ご飯食べること1つでも、気が遠くなるような過程ですね!とにかく心配が1つ
解消してよかったです!不浄説法とか本当に勘弁してくれですよねwどこの坊主でも。

【星 大晃 先生】
 ご回答ありがとうございます。焔摩天は地蔵の化身とか、よく言われていますよね!
 それじゃあ私が死んだら先生方を援護しますね。私も怖いけど、六神通がありますから!
先生の援護をしながらも、お導きのお手伝いをさせて頂きたいな、と思いました。

「念仏について」問答一覧

きらびやかな誕生に比べて人生がしょぼい

母が富士山に登った時にゲロッとつわりが来て僕を妊娠していることが判明。そのストーリーゆえに「おまえは富士山の神様から授かった子かもしれんな」と父に言われた事が自分の自尊心・自己肯定感の源になってきました。 富士山の神様は浅間大明神=木花咲耶姫ですが、母の実家の隣にはこの神様を祀った神社があったり、大学に進学して富士山と関係ない地方に住んだら僕の苗字がついた神社があったので参拝してみたらそこの祭神も木花咲耶姫だったりと、ただならぬ縁を感じています。 子供の頃は明らかに他の同級生に比べても知能がズバ抜けていたし、数年前にIQを測ったら132でした。 ただ、そのキラキラした誕生ストーリーの割には実際の人生がキラキラしてないのです。社長でもリーダーでもなく、しがないサラリーマン歯科医。金持ちでもないし住まいも田舎。人に慕われるような人気者でもなく、5年も婚活してやっと結婚できてもつまらない理由で離婚させられ、再婚相手が見つかったと思ったら婚約破棄。今3度目の婚活中で、もうじき40歳になります(この辺りの経緯は過去質問を参照ください)。 ここから浅間大明神の子に相応しい英雄になれるドラマが自分の人生にあるとは思えないし、あったとしてもそれに耐えうる根性が自分にあるかも怪しいです(5千万円の借金にビビって開業あきらめた弱虫ですから)。 念仏者としては神の子より凡夫の方が良いのかもしれませんが、自分の自己肯定感の源と現実との格差をどう縮めたものかと時々情けなく思います。

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迷いを抱えたまま回向をすることについて

3年前に父が亡くなり、うつ病となってから、自分の心を整理するために宗教・哲学・心理学など様々な本を読みました。 その中でも自分の腑に落ちたのは仏教の教えです。釈尊が説かれた「諸行無常」「諸法無我」の教えは、抑うつ症状に苦しむ中での支えとなっています。 しかし、一方で仏教を学ぶにつれて迷いが出てきたこともあります。それは、我が家の宗派である浄土宗の教えについてです。 我が家は祖父も父も信仰に厚い人だったこともあり、私も毎日遺影の前で念仏を唱えて回向することが日課になっています。しかし、自分なりに様々な宗派の教えを学んでいく中で、法然上人の説かれた「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」という教えにある種の苦しさを感じるようになってしまいました。 日によって体調が安定せず、中々快方に向かわない現状が続く中、「阿弥陀様におすがりする」という考え方が、自分の中で上手く飲み込めないように感じてしまっています。 最近ではむしろ「それ仏法遥かに非ず。心中にして即ち近し。」という弘法大師の言葉のように、「自分の心と向き合う」ことに考えが向いているところがあります。 自分の心の問題は時間をかけて解決していけば良いとしても、今悩んでいるのは毎日の回向についてです。上記のような迷いを抱えたまま、念仏を唱えることは問題ではないでしょうか。やはり心が伴っていなければ回向に意味はないのでしょうか。父の祥月命日がもうすぐという中で、悩みが深まっています。 家族にも医師にもカウンセラーにも相談できない中で、「ハスノハ」さんを見つけました。お答えをいただけますと幸いです。

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南無阿弥陀仏のお念仏で極楽に往けますか?

浄土宗のお坊さんにお聞きしたいです。 私は、浄土宗の信徒です。歳は70歳を超えた現在今更ながら恥を忍んでお聞き致します。 (ご住職様は日頃、京都にお勤めでお寺にはおられませんのでこちらにお聞き致します) 私はずっと、南無阿弥陀仏と心から信じて唱えていると、ご本尊様が臨終の際に極楽浄土に導いて下さると信じていました。毎朝晩、ご燈明をつける時一生懸命にお願いをしておりました。 従って日常の行いは大切ではあるけれど、その行いによって六道輪廻のどこかに落とされる?という教えは、浄土宗には関係ないものとずっと思っておりました。 それ故、葬儀の後の七日毎の逮夜は審判ではなく供養をしていると思って勤めておりました。 ところが本日、親鸞聖人に関係のある某団体主催の勉強会に参加させて頂きました。 その際、講師の先生曰く 〇お釈迦は南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土に行けるとは一切言っておられませんとか。  そんなのなら、誰もが極楽へ行けますよとか。 〇六道輪廻はあります。魂とは別に?根底に肉体という物体がありその物体が輪廻しているとか。 私の様な凡人にはよく理解出来ませんでしたが、今まで心より信じていましたご本尊さまのお導きによって極楽浄土へ行ける事を否定されている事に大きなショックを受けました。 今まで思っていた通り、心よりお念仏を唱える事でご本尊様に極楽浄土に導いて頂けると信じていてよろしいでしょうか? よろしくご指導下さい。 ★法然上人のお弟子さんの親鸞聖人に関係する会という事でしたので参加してみました。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ