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生きている意味がわかりません

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有り難し有り難し 27

私の家は本家筋で、兄と姉がおります。
小さい時に、祖父母が「女の子じゃなくて男の子がほしかった」と話をしているのを聞いてしまいました。

それ以降、自分は必要のない人間だと思うようになり、人に存在を認められるような行動ばかりをしてきました。
人から「必要ない」と言われることが、すごく怖かったからです。

先日、大切な人を怒らせてしまいました。
その人は、仲間内の他の女性には、出逢ったことに対する喜びの言葉を伝えるのですが、私には一切伝えていただけず、「自分が必要とされていない」という怖さから、仲間内の女性と比べてしまう発言をしてしまい、怒らせてしまいました。
もうこれで3度目くらいです。
きっともう許してもらえません。

もう自分が生きている意味がわかりません。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

親や人から「必要とされる」行動・行為はみんなの義務

人は評価されるために生きているのではありません。
評価とは他者の評価と自己の評価とがあります。
あなたは親がこう言ったことに対して自分がものすごく低評価、あしざまに受け止め過ぎているところがあると思います。
「親がこういった」という評価をさほど気にする必要はありません。
なにもあなたに言ったわけでもなく純粋に男が欲しいと思ったことを言っただけでしょう。
それに親がそう言った時のテンションと、その❝意味合い❞や、どういうニュアンスで言ったかは、あなたが思ってきたこととは違うはずです。
あなたが受け止めたテンションは別ものです。
相手が「A」といったことを「どう」うけとめるか。
「A」と言ったことに対してネガティブレベルをどのレベルで受け止めたか。
そこを過去に戻って評価しなおせば、その呪縛は即解放されます。
埼玉ならウチのお寺に来れば一撃です。(ここでは千字回答ですし、詳細を伝えらえれません)
実際にそのことを親御さんに話して、仮にそうだと言い続けるならそれは親の「程度」の問題です。親の人間性が低いからと言ってあなたまで一緒になることはありません。
あなたはあなたです。
あなたと関わるべき人たちを大事にするべきでしょう。
怒らせた友人たちに対してはもっと心を開くべきです。
自分のトリセツをA4プリント2枚分ぐらいにまとめて配布してでも理解をしてもらうことです。
スニッカーズのCMのように「こいつ、腹が減ると〇〇〇〇みたいになるんだ」みたく、自分のトリセツを皆さんに渡しましょう。人から愛されるには愛嬌がないとだめです。
「わがことを先としない」
これは人生における最高のチエです。
あなたが親御さんがあなたが蕎麦屋さんだとします。
親がラーメン食べたいうどん食べたいという日が続くとします。
それでもいつかそばが食べたくなる日は来るのです。
男の子が欲しかったといったにせよ、生まれは選べません。
あなたはあなたで今日まで生きてきた。
今も評価で縛られているとしたら、いち早くそこから抜け出して、自分の評価に縛られない生き方を手に入れるべきでしょう。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

月並みなアドバイスとなりますが・・

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

自己肯定感をなかなか持つことができずに、どうしても自己否定的になってしまわれているところがある中で、周りに認められないといけないという気負いが、空まわりの対人関係へと繋がってしまっているのかもしれませんね・・

あくまでも仏教的に申せば、肯定も否定も無いという中道を目指すのがベストにはなります。

いずれにせよ、自分一人だけでは生きていけない、存在することのできない世界でありますから、他との関係性をどうバランス良くに構築するのかが大切となります。

その一つのアドバイスとしては、誠に月並みな言い方となりますが、「感謝」の気持ちを持つこと、色々な自分の存在を支えてくれているモノ・コトたちへの「有り難し」と「お陰様」の気持ちを持つことになるかと存じます。

そう言う気持ちで接していければ、対人関係でも問題が少なくなってくるのではないだろうかと思います。

「生きている意味」は、それも肯定的・否定的、いずれでもなく、元々はニュートラルなものではありますが、一応は、様々な因縁(原因と条件)と自分の得心、判断にてあり得てくるものとなります。

例え、私から見れば、あまり良くない因縁による結果であっても、もしかすれば、貴女様からは、良い意味に捉えられたり、逆に、私からは、悪い因縁による結果であっても、貴女様かからは、良い意味に捉えられたり、ということもあり得るところとなります。

いずれにせよ、良い因縁を調えての良い結果と、それを良く捉えることの自分があれば、良い意味が見い出せてくるものとなります。

まずは、月並みなアドバイスのことからとはなりますが、良い因縁になるかと存じますので実践していって頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

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