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クレームを入れられました

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販売業のアルバイトを2か月ほどしています。
先日お客さんに名指しでクレームを入れられ怒鳴られました。
私は普段通り接客をしており職場の責任者の方も私に非はないと言ってくれましたがその場で泣いてしまいました。

特別傷つくことを言われたわけではなく、クレーマーの言うことを気にする必要がないことも頭では分かっているのですが涙が止まりませんでした。

クレーマーに対しての怒りやこんなことで何もできなくなる自分への悔しさで頭がいっぱいです。
職場の人に優しく慰められると余計に泣けてくるのも嫌です。

接客を辞めたい気持ちとあんな奴がきっかけで辞めたくない気持ちで心もいっぱいです。

ずっとこのことばかり考えてしまいます。

どうすればこの状況から抜け出せますか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

お疲れ様です

アルバイトお疲れ様です。クレームはたまりませんよね。勘弁してほしいですホント。

私も学生時代にレンタルビデオ店でアルバイトをしていたので当時の事を思い出しながら考えたいと思います。

私の場合、新作DVDは1泊か2泊のところ、7泊でレンタルしたいと駄々をこねられイチャモンをつけられ、ついでに罵声を浴びせられました。

やはり、りささん同様にショックでしたし、恐怖でしたし、納得いきませんでしたし、モヤモヤしました。

で、どのようにここから回復できたかと言うと考えられる要素に2つある気がします。

①一つは「慣れる」ということ。

人間は慣れる動物です。ものすごい過酷な環境でもある程度対応できてしまします。クレームも入れられ慣れちゃうんです。

ああ、ハイハイこのパターンね。はい、こちらが悪いですよ。お店のためにもここは低姿勢で行った方がよいし、自分のためにもその方が早く難を逃れられるなあ、耐えよう耐えよう。

みたいな感じでしょうか。これはクレーム時の「ショック」「恐怖」という面に対して有効です。世の中にはいろんな人がいます。クレームがなくなることはないのならどこにいってもこういう目に合うのですから、ここで一時的にでも耐えて慣れるのが得策というわけです。

②もう一つは自分の問題と相手の問題を混同しないということです。

これはクレーム時の「納得いかない」「モヤモヤ」という面に有効です。どんなにマニュアル通りミスがなくともクレームを言う人は言います。

するとこちらは

「え?なんで?」

となってしまいますが、それは当然です。

当たり前ですがクレームを入れてるのは私ではなく相手です。

相手は相手の気持ちとしてクレームを入れたくなったのです。私が理解できるかどうかは関係ないのです。そこを私の理解に引き当てて考えようとすると混乱し、疲れてしまいます。

こちらがどう思うかはこちらの問題、あちらがどう思うかはあちらの問題。思われてしまったのならどうしてそう思ったのかと原因に対処するのでなく、思われてしまった結果に対処するしかありません。
私は私に非がないと思ったとしても、相手は私の非を感じるところがあった、もしくはご自身の中で抑えきれないものが湧き上がってしまったのです。

そこについては関わった者として「すいません」と言えるのではないかと思います。

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個別相談可能
はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
基本的には平日13時~15時のみ対応可能です。お寺の行事、急な法務で対応できない場合もあります。

人が怒るには理由がある

別にあなたが直接悪さをしてわけじゃないと思います。
クレーマーの対策としては、
・怒っているのは悲しいから
・怒っているのは「こうしてほしい」から
・怒っているのは魚の骨がのどに刺さっているから
と思いましょう。

とげを抜いてほしくて困っているのです。
こうしてほしいということがメインなだけです。
こっちに期待しているものあるからこそ怒っているのです。

もちろん、もっとひどいのもいます。
いずれにせよ、クレーマーの怒りはあなたに向けられたものというより、クレーマーが来た時の窓口に自分がそこにいたというだけではないでしょうか。
あなたでなくてもぶーぶー言ったと思います。

ポイントは「これをしてほしい」を聞き出すこと。
それがお店的に可能であれば対応する。
お店的にペケであれば「大変申し訳ありませんが」で別の形で準ずる対応をすることです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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