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アドヴァイタと仏教の相違点について

回答数回答 3
有り難し有り難し 26

最近になってアドヴァイタという言葉を知りました。不二一元論とも言われるそうですが、「論」として語られることに違和感を感じました。
何故なら、アドヴァイタで語られることは言葉を超えており、さらには教えでもないし、思想などでもなく、シンプルな事実の描写だと認識しているからです。アドヴァイタとは思想の分野なのですか?
よく知りもしないで言っていますので間違っているところがありましたらご指摘お願い致します。

さて、質問なのですが、そのアドヴァイタと仏教には、根本的に異なるところがあるのでしょうか?
私が思うに、アドヴァイタはどこの宗教にも属さない、スピリチュアルとも違う、全ての存在に共通して開かれた秘密だと思っています。

「秘密」と述べたのは、「自我」には見つけられない性質を持っているからです。
けれども明らかすぎる秘密なので、隠れていません。あまりに近いので見えない、という意味です。
的はずれな質問でしたら申し訳ございません。
よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

公然の秘密 

こんにちは。いつも笑いを交えたイタい助言をするのが特徴のアドヴァイザー、アドヴァ痛タタタター丹下です。
宗教も、スピリチュアルも、自己啓発も、いつの時代も言葉がどんどん新しくなって、無限にあるようにおもわれたとしても、それらの言葉によって取り扱われている「事実」の方は、いつも変わらない❝ひとつ❞なのだと思ってください。
ノンラベルの事実の方に眼が開けば、言葉に用はありません。
そこに山があり川がある。
それをアドヴァイタ的にみても、仏教的に観ても、キリスト教的に観ても、事実の上で別々になる訳ではありません。
そこに缶コーヒーが一本あったとして、それが2本に見えることがある訳ではありません。
私には2本に観える時があります。それは眼鏡をはずした時です。歪んだだけです(笑)
目の前のコップ一杯の水も誰が見ても同じ景色、同じありよう。
本当に通じていれば、それがその通りに、ただ、山であり川です。
色々、言葉に騙されないようになった方が良いと思うのです。
中には、お高い講座受講料をとるものもあったり、献金献金だとかで、《それっぽく》思わせて、最終的に、この身が誰から何を教えてもらわなくても、映し出され、感受される天然無為の景色や事実に対して、色んなおまけをくっつけているだけである場合があったりするものです。
❝特異なこと❞❝特殊なこと❞は余り追いかけない方が良いでしょう。
自分だけ特別な存在になってしまうからです。
そういう組織も、そういう気持ちにさせるのが一種の手口です。
あまり、ホンワカほんわかせず、ハッキリとした事実に地に足つけてお過ごしください。 

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仏教は欲・怒りと向き合う。三昧だけでは不充分。

仏教は、悩み苦しみの原因である煩悩を消したり制御したりして、悩み苦しみを消したり制御したりする教えだと思います。
そのために、仏教では戒・禅定(三昧)・智慧(観察)という3種類の修行(戒定慧の三学)を行います。
不二一元論は三昧(禅定)の境地なのかもしれません。
三昧(禅定)はお釈迦様(仏教)が登場する前からもあったのです。
お釈迦様が最初に出家したときは、三昧の達人二人に入門して三昧をマスターされたのです。
が、三昧の不二一元だけでは、欲・怒りなどの煩悩(悩み苦しみの原因)を消すには不充分だったのです。煩悩を消せば悩み苦しみが消えるという発想さえなかったのです。
不二一元の三昧の境地に浸っているときは欲・ 怒り等の煩悩も一時停止するが、三昧から普通の意識に戻ったら、煩悩も再生します。
お釈迦様が発見した智慧は、煩悩をなくして、実際に悩み苦しみをなくしてしまう教えなのです。
三昧だけだと、不二の境地を神様とかに結びつけて様々な執着につながる恐れもあるのでは。

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「空と縁起」について

有未様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「アドヴァイタで語られることは言葉を超えており・・」・・

確かに不二、非二、アドヴァイタというものは、分別(二元)を超えているところのこと(無分別)になるため、分別(当然に分別を伴う言語表現)で語られることは難しいものとなります。

「アドヴァイタと仏教には、根本的に異なるところ・・」・・

上記の続きから、その言語表現を超えたところを志向する言葉・表現が、実は仏典、あるいはその論書などには多くございます。しかし、その志向する先が、ヒンドゥー教ヴェーダーンタ学派のような不二一元論、あるいは、梵我一如思想、真我思想となると、やはり異なるものとなります。

その決定的な違いとしては、仏教では「空と縁起」の考え方があるところになるのではないかと存じます。

「「秘密」と述べたのは、「自我」には見つけられない性質を持っている・・/・・けれども明らかすぎる秘密なので、隠れていません。あまりに近いので見えない・・」・・

このことは、まさに仏教に「空」の理解のことにも通じるところがございます。

「空と縁起」につきましては、これまでにも下記の各問いにて少しく扱わせて頂いておりますが、とにかく、文字や文章だけでの理解ではどうしても及ばないところもございます。真に了解していくためには、できる限り実践となる修行・修養も並行して進めてみることが必要となります。

例えば、富士山に登ったことのない者に、富士(不二)山は、こうだ、ああだと説明しても、イメージで理解するにも限界があり、やはり、本物の富士(不二)山に登ってみて、実地に体感してみないと、本当のその真なる姿形は分かり得ないというところでございます。実際に、有未様の体験なされた不二の境地も、まあそのようなものでありますでしょう。

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/空と縁起

とにかく焦らずに共に頑張って参りましょう。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

願誉浄史さま
ご回答いただきありがとうございました!
そうですね、ますます仏教は個人に向けたもの、セラピーに近い性質があるなという理解に近づいています。
個人である限り、煩悩はどこまでいっても消滅までには至らないのではないかと思ってしまいますが。。

川口さま
いつもありがとうございます。
仏教の「空と縁起」の考え方、まさしく決定的な違いはそこですね。
はい、もっともっと内観を進め、よりダイレクトに経験を見つめてみようと思います。
とても分かりやすいご回答をありがとうございました。

丹下さま
ご回答いつもありがとうございます!
あはは!素晴らしく痛快で清々しい回答にとてもすっきりしてしまいました。
はい、オープンシークレットですね♩
全てが特別であり、全てが特別でない。
平凡な奇跡をこれからも過ごしていきたいと思います。ありがとうございました。

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