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無気力な日々です

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わたしは、体育の専門大学に通うものです。
授業についていけず、友達もいなくて、大学に行くのが本当に辛いです。
朝になるのが嫌で、眠れないし、行っても涙が出そうになります。ほとんどの単位を落としてしまいそうです。

しかし、やめるとなると、お世話になってきた人に申し訳ないし、怖いし、お金を払ってくれている親にも申し訳ないです。いつも、やめたい、やめられない、の繰り返しでしんどいです。

自分にあまい正確で、自己中心的で、小さい頃から辛くなるとすぐ死にたい、消えたいと思ってしまいます。死ぬ勇気もないのにこんなこと考えて、前に進まず、生きる気力もわかず、ここ数年過ごしています。

人生なんて何が楽しいのか分からないし、この年で自暴自棄です。

部活も授業もアルバイトも私生活も、自分自身もすべて嫌です。
恵まれた環境で、ただ甘えているのは分かっているのですが、毎日が辛いです。消えたいと思います。大学は、どうやって乗り切ればいいですか。どうしたらまともな人間になれますか。

まとまりのない文ですみません。よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

そこで学べるものはある

私は高校時代は授業とかあまり関心がありませんでした。
図書館が一番勉強になりました。ギターばっかりやってました。
大学時代も3年4年は授業もろくに出ませんでしたが、死にたくなってから急に勉強意欲がわきました。
お寺では毎日庭ばかり掃いてますが庭掃きだって庭を掃いているばかりではありません。
新聞配達のおばちゃんが言ってましたが、新聞配達って新聞配達をしているだけじゃないのです。
犬の散歩だって犬の散歩をしてるわけじゃないはずです。
(゜.゜)「どーいうこと?」
( ..)「犬のフンとかの掃除もするってことじゃね?」違うわい。
人間の五感はそこにあることをみな吸収しています。
別にそこの学校に居ても他の事を学べるはずです。
体育の勉強ばかりをしているわけではない「はず」です。
もう一度申し上げます。
「新聞配達は新聞配達をしているだけじゃぁないのよね。」
これを公案として、なんでも吸収していってください。
学校は学ぶということが一番大事なのです。
成績はどうでもいいのではないでしょうか。
私はアホだ大学とおバカ高校出身でしたが、誰でもどこの学校に行っても、そこで必ず学べることがあるということです。それを学びながら、それ以外の事も学んでいるはずです。
英語で何を学ぶか、国語で何を学ぶか。
映画を学ぶばかりでも国語を学ぶばかりでもないはずです。

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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

何か、ボランティア活動をしてみたら・・・。

何をやっても上手く行かず、毎日を無気力に過ごしている・・・。若い時は小生も「こんなことやって何になる」「何のため生きてるんやろ…」などと思ったものです。
仏教に四苦八苦という言葉があります。その中の一つが❝求不得苦(ぐふとっく)❞というものです。「あれが欲しい、これが欲しい」「ああなりたい、こうなりたい」「ああしたい、こうしたい」と思っても、自分の思いどうりにならない・・・、と悩み苦しむことです。「でも、それが人生なんですよ」とお釈迦様は2500前に見抜きました。
そう、それが人生なんです・・・。
と言われても・・・。何も変わりませんね~。
という事で、一つ提案です。学校の事は忘れて(一年くらい留年したってどうってことない!)なにかボランティア活動してみてはどうでしょう。無理のない範囲で活動していると、「自分を必要と思ってくれる人がいる」という実感が得られるはずです。
ネットで検索したら、あなたの住んでいる近くにボランティアを募集しているグループがあると思います。一歩踏み出してみて下さい。合掌

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