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「般若心経」以外をあげるのはムダなのでしょうか?

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若いころから仏教に興味があり、5年ほど前から毎朝仏壇に向かいお経をあげています。(40分程度)

ところが、ある生き神様(仏教系の霊能者)から「般若心経くらいにしときなさい」と言われましたので、いかがなものなのかお尋ねいたします。

我が家は浄土真宗ですが、真言宗に魅かれて四国八十八か所巡礼の際唱える、
「開経偈・懺悔文・三帰・三竟・十善戒・発菩提心真言・三摩耶戒真言・般若心経・光明真言・御宝号・回向」。
加えて「十三仏真言・観音経」を読誦しています。

ところが、生き神様が「それらは何のお経?」と言われましたので、
「遍路の際各お寺で上げるお経」と言いましたところ、あまりご存じなかったようです。

さらに「巡礼の経験もなくして、それらを上げるのは順序が間違っている。まったくムダです」と言われました。

家族や親族への日々の御守護に感謝し、これらのお経をあげているのですが、いけないのでしょうか。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

本当にお経をあげた事がないご様子

本当にお経をあげるという事は❝真実に住すること❞であって、情報の世界に翻弄され、情報の世界に右往左往することではありません。
まず、ぐらつき過ぎです。
生き神さまなる霊能力者に言われ、情報にグラつく。(というより、何か怪しすぎる。その人本人が❝生き神❞さまを名乗ったり、名乗らせているのでしょうか?自分でそういう力があるとか言って居る人は確実にコレ(口元で手をグーパーしています)ですから。(笑)うん、確実にアヤシイ。金銭取引が発生する前に関わりを断った方が良いのでは?)
生き神さまとやらでなくとも、誰かからの意見を言われて、その情報にぐらつく。
そして、私から何か言われて、グラつくようでは、あたかも、ちゃんとゴトクに乗っかっていない沸騰した傾いた鍋でごんす。
大切なのは、何処でお経を読もうが、何の順番でお経を読もうが、何のお経を読もうが、
あなたが実際に❝如何なる心❞に❝成❞っているかなのです。

開 経 偈 如来真実義とはいつ、どこのことか?
懺 悔 文 懺悔された心はどこへ?
三帰 三竟 三宝に帰依された心であるべきでは? 
十 善 戒 邪見に陥らず正見を保つべきでは?
発菩提心真言 起したはずの発菩提心はどうしたのか
三摩耶戒真言 なぜそのような時にこそ三昧に住していないのか?
般若心経 どうして一切の顛倒夢想を遠離しないのか?
光明真言 光明とはいかなる心境でしょうか? 
御 宝 号 金剛とはいかなる心のありようか?
どれか一つでもいいのです。その一心が会得、回向されれば、百千万億の経巻を読むことより尊い❝一心❞です。

あなたの不動心とは、何ですか?
不動明王が念ぜられた❝動ぜざる心❞とは、どこに現われるべきものでしょうか?
お経は読むばかりのものではなく、その内容が❝現じられるべき❞ものでもあるのです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

百聞は一見にしかず

ケロンパさん、はじめまして。

毎日仏前に向かいお経を唱えておられるとのこと。尊いことです。

できれば、実際の体験をしてみることをおすすめします。
四国八十八カ所霊場を巡る人々は、どのような想いでお参りされているのかを、ケロンパさんの肌で感じてもらいたいと思います。

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おきもち

徳島県の高野山真言宗寺院で住職をしています。 本山布教師心得として自坊の月例法話の他に、地域の出張法話の依頼もあります。 出張法話で寺のある地域の特産品「梨」を紹介するので、「梨のおじゅっさん」として有名になりました。 ホームページ http://houwa-kanonji.com/

お経は法華経のみ

仏教→法華経→南無妙法蓮華経
仏教最高峰の法華経、仏教の中において唯一真実が説かれた法華経
しかし、その法華経ですら導くことができないほど私達は毒気深入しています。
そこでお釈迦様は「なんみょうほうれんげきょう」(※南無妙法蓮華経ではない)
を救い難い私達のために特別に用意したのです。

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おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

質問者からのお礼

丹下様コメントありがとうございます!
「グラつき過ぎ」なるほど。そうかもしれません。
「読誦の際の心の在り方」が大切。
「お経は読むばかりのものではなく、その内容が“現じられるべきもの”」確かにそうだと思います。
これらのアドバイスを肝に銘じます。ありがとうございます!

ということは、今まで通り「般若心経以外」これらのお経もあげて構わないということですね。

中村様ご回答ありがとうございます。
四国八十八カ所巡礼、ぜひ行きたいです! 

四次元様、ご回答ありがとうございます。

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