自分以外の者の死
私は物心ついた頃から「死ぬのが怖い」とよく泣く子供でした。それは自分の死に対してではなく、家族の死に対してです。
せっかく家族で旅行をして楽しい気持ちになっているのに「でもいつかこんな事も出来なくなる…」など余計なことまで考えて気分を台無しにしてしまいます。楽しい事をただ楽しいと感じたいだけなのに、死への恐怖1つでいろんな事を台無しにされてる気がします。
私は今小さな喫茶店で働いており、喫茶店で働く事は好きなのですが、お客さんは本当にお年寄りばかりで、
お年寄りのする会話は基本『寿命』と『病気』の話で、昔から死への恐怖が人一倍な私には苦痛でしかない内容です。
さらにお客さんにはよく「若い人は良いわね、私なんかもう働く事すら出来ないわ」などと言う事をよく言われます、最初はそう言われても嫌な気分も何もしませんでしたが、最近はそんな言葉に怒りさえ覚えてしまいます。
今の私は若い事が嬉しくないんです。
早く歳をとって死んでしまいたいとさえ思ってしまいます。
大切な人が先にいなくなってしまうくらいなら長生きなんかしたくないです。
大切な人の死を見るくらいなら誰よりも先に死にたいです。
ですが自分がとても恵まれた環境にいて、幸せであるのに最終的に早死にを望んでいる弱くて自分を守る事しか考えてない自分もすごく嫌です。
申し訳なくて親には口が裂けても言えません。
少しでも命と向き合うにはどう考えていかなければならないのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ガラス細工が丁寧に扱われるように。
こんばんは。亀山純史と申します。
MNTさん、残念ながら人の死亡率は100%です。そして、私たちの死は私たちの生と表裏一体なのです。私たちの死は今日かもしれないし、明日かもしれないのです。このような私たちの命は、まるでガラス細工のようなものです。ガラス細工は注意しないとすぐに欠けてしまいます。
ところで、そのようなガラス細工を私たちはどう扱いますか?いずれ壊れる性質を持ったものだから、丁寧に扱っても神経が疲れるだけだ、と思いますか?普通の感覚であれば、壊れる性質を持ったものだからこそ、丁寧に扱おう、と思いますよね。それは何故ですか?いずれ壊れるものであっても、今こうして、ガラス細工として素晴らしい美を放っている、あるいは、ガラス細工としての価値がそこにあるからではないでしょうか。
私たちの命もそれがはかないものであり、楽しい思い出もやがて悲しみの材料になるものであっても、私たちの命の素晴らしさや価値は、今こうして生きているところにあるのです。命の素晴らしさや価値は、人によって異なるかもしれませんが、私は人間として生まれてきたことによって、仏様に出会うことが出来ることが、命の素晴らしさであり、命の価値だと考えています。だから、私たちの寿命は人それぞれであっても、私たちは自分の命を大切にしなければならないのです。
ですから、「早く歳をとって死んでしまいたい」「大切な人が先にいなくなってしまうくらいなら長生きなんかしたくない」「大切な人の死を見るくらいなら誰よりも先に死にたい」という思いは、あなた自身の命の素晴らしさや価値を否定するものです。そしてこのような気持ちは、「自分にとっては家族の者が亡くなることは嫌だが、家族の者にとって私が亡くなることについては、私は知らない」と言っているようなものです。
ガラス細工が丁寧に扱われるように、私たちの命も「今」「ここ」を大事にしていきましょう。
以上が、私からの回答です。是非、MNTさんが仏様に出会えることを望んでおります。
あなたはこれからも
拝読させて頂きました。
あなたが感じる不安や恐怖を私も感じて子供の頃過ごしたことがありますね。
あなたのお気持ちお察し申し上げます。
失いたくないと思うと余計に不安にさいなまれますよね。
とはいえ人は必ずやその生命を全うする時が参ります。それはどうしても変えられないことですからね。
しかし死は決して終わりではありません。
あなたと皆さんとの関係性であるご縁はずっとずっと続いていくのです。
その生命を全うしてからは仏様に導かれて仏様の元にて皆さんと共に安らかにお過ごしなさるのです。ですから不安にさいなまれずに先ずは今この時この場を大切にしていきましょう。
あなたはこれからもずっと皆さんに育まれ導かれて見守られながら生きていくのですからね。
そしてあなたの人生が全うする時には必ずや仏様の元でご縁ある親しい方々と共にずっと安らかにお過ごしなさるのですからね。
あなたがこれからの人生皆さんとお健やかに生き抜いていかれますようにと心からお祈りさせて頂きます。