悟りとは左脳の機能を抑えること?
https://www.ted.com/talks/jill_bolte_taylor_s_powerful_stroke_of_insight/transcript?language=ja
上の動画で、ジル・ボルト・テイラーという脳科学者の方がある日、左脳の脳卒中により左脳の機能が著しく低下し強制的に右脳での思考をせざるを得なくなった時の体験を話しています。
・外の世界と自分をつなぐ脳のしゃべり声から完全に 切り離され頭の中が静寂に包まれた
・自分と世界の境目が無くなりエネルギーと同化する素晴らしい感覚
・あらゆるストレスから開放され平安で満ち足りた感覚
これらを脳卒中を起こしてまさしく死の瀬戸際であったのにも関わらず感じていたと語っています。
この話を聞いてその右脳のみの体験談が宗教問わず所謂「悟り」の感覚と言われるものと非常に酷似していると思いました。
そこで、これが真実なら悟りとは左脳の機能が抑えられた状態のことで、そうするためのトレーニングが座禅なんじゃないかと思ったのですが、僕は悟っていないのでわかりません。
そこでお聞きしたいですのですが、悟りのプロのお坊様から見てこの考えは全くの的外れでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
悟りといっても色々な解釈があります。
私の思う悟りとは、分かることだと思います。
何が分かるのかというと、縁起が分かるということです。
縁起とは縁によって起こるということ。
この世のことは全て様々な縁によって起きているということ。
例えばあなたが今そこにいるのは、母と父によって生を受けたこと、母乳やミルクや与えられた食べ物によって育ったこと、今も毎日食事という形で他の生き物の命をもらっていること、空気がありその中に酸素があること、地球に引力があること、もっともっと沢山ありますがこれらの縁によるものなのです。
これも縁起のひとつ。
何をすればどんなことが起こるか?
それが分かるということ。
例えば、あなたが目標とする場所に行くには、どのような道をどのように歩めばよいか、それが分かるということ。
そのような、縁起が分かる、それ故に、目標のためには今何をすべきか分かる、ということです。
決して何も考えないということではないと思います。
考えることを辞めてあらゆるストレスから解放されるのでは無く、考えて分かることであらゆるストレスから解放されるのだと思います。
参考まで。
追記
そうです。
ただし、考える方向を間違えないように。
ストレスの縁、つまりストレスの様々な原因をひとつずつ明らかにするように考えるのです。
次に、その様々の原因をどうしたら無くせるのかを原因ひとつずつについてそれぞれ考えるのです。
次に、それを無くす為にするべき行動を考えるのです。
最後に考えた行動を実践するのです。
これがお釈迦様の言われた考える順番なのです。
当たり前のことと言われたらその通りなのですけど、ストレスの中にいると見失いがちですから気をつけましょうね。
右脳も左脳もわかりません
私がいま、文字を打ち込んでいますが、この時に右脳を使っているか左脳を使っているかはわかりまさん。ただスマホの感覚と文字を追って読んでいるだけです。
これが事実であり、それと間髪入れず一体となっている様子なのだと思います。
それが悟りだと思っている人すら存在しない。自分が全く抜け落ちている様子なのでしょう。
悟りに理屈はいらないのでしょう。考え方を全て手放し、事実のまんまにいることです。
坐禅はトレーニングではないですよ。坐禅そのものが悟りと言えます。鍛えて見えて来たり、鍛えて聞こえてくるようなものではないのです。
難しことは考えず、事実に生きる。考えが及ばないほどに、一体となっていること、そちらが大事なのでしょう。人は生まれながらに悟っているのですから。
その体験のあとに煩悩がなくなっていれば悟り
私も悟りからはほど遠いですが。
悟ったら、煩悩がなくなる(煩悩の数が減る)そうです。
全ての煩悩がなくなったら、ブッダと同じ完全な悟りです。
つまり、煩悩(悩み苦しみの原因)がなくならなければ悟りではないと思います。
その体験のあとに煩悩が減ったのなら、悟りかもしれませんね。
輪廻する原因とは何か
うえすと様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
左脳と右脳の機能的な役割を考えましたら、確かに、左脳は思考・論理を扱うところであり、右脳は、直観・直覚を扱うところであるため、左脳機能が停止したことで、余計な分別、偏見、差別を無くして、モノ・コトを判断するようになることにより、ご質問の中にあるような感覚に陥ることがあり得ると推論することができます。
仏教では、離戯論とか、無分別とかと述べられるような境地、または、瞑想や坐禅における三昧の境地とも確かに近いところにもなります。
しかし、では、右脳のみの働きによるものが、悟りであるのかと申しましたら、それは否定すべきところになります。
私たちにおきましては、脳機能とは関係なくに、存続している意識(心)と業の問題を扱うところがございます。
その心と業をどのように清らかに善く調えていくべきであるのかの教えが、仏教となります。
まあ、もしも、悟りに至るのが脳機能だけの問題で済むのであれば、皆、左脳を取り除いても生存できるような手術をすれば手っ取り早いことになりますが、それでは問題は解決しないというところであります。
あるいは、思考・論理をほとんど持たない動物は、悟っていると言えるのかといえば、それもそうは言えないというものであります。
我々が迷い苦しみに輪廻している原因とは一体何であるのか、是非、これを機縁によりご関心を高く持って頂きまして、仏教を修学していって頂けましたら有り難くに存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
願誉浄史様、お返事ありがとうございます。
為になります。一つでもいいので煩悩を減らしたいです。
三宅 聖章様、お返事ありがとうございます。
ストレスについて考えれば考えるほど苦しくなります。それでも考え続けたほうがいいでしょうか?
邦元様、お返事ありがとうございます。
事実に生きる、僕にとってものすごく難しい行為です。
座禅をしてても次から次へと思考が浮かんできてそれを相手にしないようにしてもいつの間にか考えている。座禅難しいです。これを情報の嵐の日常で実践出来ることが想像できないです。
三宅 聖章様、追記のご返事ありがとうございます。
シンプルなことが一番難しいのかもしれません。
なんとかストレスの原因を紐解けるように頑張ってみます。
川口英俊様、お返事ありがとうございます。
僕の仮説を色々な仏教的な単語に当てはめて頂いて感謝いたします!早速自分なりに調べて見ようと思います。